何で捕まったかわからない──いま、横浜事件を考えてみる   
「横浜事件」という事件はない

「横浜事件」(註1)という、事件はないんですよ。普通、事件というと犯罪が行われて、犯罪に関わった人の名前などをつけて「〇〇事件」と呼びますが、横浜事件だけは特殊でして、これは、犯罪を検挙すべき警察が起こした「事件」なんです。
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─── 発端は「改造」に載った論文と伺っています。

 その前に、アメリカから帰ってきた川田さんというご夫妻が、アメリカで共産党に属していたというでっち上げで、まずいきなり捕まりまして(註2)、いろいろ調べられて、結局何でもないんですけども、相当な拷問があった。
 それが1942年で、それに始まって1945年にかけての一連の事件です。事件の数でいうと、十あまりあるんです。その総体が、全部でっち上げであったということがわかったところから、「横浜事件」とネーミングされるんです。

─── 共産主義を広めようとしている、という嫌疑が共通なんですか?

 捕まった人を調べて、友達だとか、年賀状を送った先を、とりあえず検挙してみる。捕まえる時には、容疑をいろいろ言うんですが、最終的に裁判になった時には、(初めの理由が)消えちゃったりして、相当いい加減なんです。とにかく治安維持法違反(註3)であることだけは間違いない。


どういう嫌疑か、本人も家族も会社もわからない

 中央公論の私の父たちが関わったとされるのは、共産党再建(註4)という謀議があったとされている件です。
 これは細川嘉六さんを囲む編集者たちの集まりで撮った写真が一枚、たまたま別件で逮捕した人の所から出て来たんですね。(註5)その写真にのっている奴をとりあえず捕まえろということになって、これがそうですね(本に掲載されている写真を見せながら)。富山県の泊温泉に集まっている。

─── ここに写っているのは7人ですね?

 まずその7人を捕まえて、その上司、同僚、友人と、最終的に90人までいっちゃうんですよ。
 細川さんが書いた論文は、検閲は通るんですけれども(註6)、発表された途端に「けしからん」と言い出す奴が軍部の側にいまして、そのために警察が慌てるわけですね。慌てて、さかのぼって発禁にしたりなんかする。そういうことでマークされたんですね、細川さんが。
 で、そういう時に、その細川さんが写っているこの写真が、見つかるわけですよ。(註7)これはさっきの川田さんの繋がりで、川田さんご夫妻の友人(同僚)関係が捕まって(註8)、そこを叩いていくとまた友人関係が出て来るわけですよ。次々と横に広がっていく。で、大分先のところで一枚の写真が出て来た、見たら、これは大物だということになって、これをとりあえず捕まえろと。
 そこで、はっきりと「共産党再建のための謀議を泊温泉でやった」というでっち上げをするわけですね。酒飲みに行っただけの話なんですけれども。
 それで、今度は、この友達がまた全部捕まるわけですよ。
 ここに写っている木村さんという人の上司が、うちの父だったんですよ。木村さんが捕まった時は「何で捕まったのかね〜?」と心配をしていた。「さっぱりわからないね」と。

─── お父様は、どういう役職だったんですか?

 父はその当時は中央公論社の出版部長だったんですね。木村さんは出版部員だったんです。それで彼は細川さん担当だったんで、細川さんの論文を運んだりいろいろしていたわけですね。そんなこともあって、お世話になっているというんで、細川さんに呼ばれた。それが逮捕のきっかけになったんです。
 そこからは、横へも縦へも行くわけですよ。上司を捕まえろということになって、父も捕まりました。「共産党再建の謀議があった」。そのことは社内でも認識されていたんだろうと、追及されるわけですね。父親は全く知らないということで突っぱねるんですが、早速そこで拷問が始まるわけですよ。

─── その時、中央公論社の編集部全員が捕まったわけではないですよね? 捕まえるかどうかの区分けはあったんでしょうか?(註9

 区分けは、特高にしかわかりません。父は個人的に木村さんの家にも遊びに行っているような親しい上司ですから、そういうこともあったんでしょう。僕も顔をよく知っている、家族もつき合っている関係でしたから。
 親父はちょうどスキーに行っていて、スキー場から旅館に帰って来たら、旅館の玄関に特高が数名隠れていて、スキー靴を脱ごうとした途端に飛びかかられて、そのまま連れて行かれちゃったんです。
 父親のスキーと荷物を、一緒に行っていた中央公論の営業にいた人が、朝になってうちに運んで来まして、その時、スキー場で捕まったのは、親父1人でしたが、あちこちで一斉にそういう検挙があったようです。

─── その当時、何で捕まったのかということはわかっていたんですか?

 全然、わかんない。誰もわかっていないんですよ。

─── どういう嫌疑か、家族にも会社にも知らされなかったんですか?

 そうでしょうね。知らされると、押収するべき資料が隠されてしまうということがあるでしょうから、何も知らされないわけですよ。

─── 裁判所の令状があるわけでもなく?(註10

 あの頃は令状なんてあったんですかね。ないんじゃないですか。とにかくいきなり泥足のまま家へ入って来て、二階まで泥足のままで上がって来たんで、僕は怒った覚えがあるんですよ。僕が小学4年生の1月です。
 我が家は出版関係ですから、いろいろと寄贈される本があって、中央公論の本もあって、親父は本持ちでしたから、廊下なんかにず〜っと本棚があったんですけれど、その本が全部叩き落されているんで、びっくりしたんですよ。

─── 家での捜査は本だけだったんですか? 何か押収されたりは?

 いや、本だけでしたね。幸いにして、(共産党関係の)左翼の文献はなかったらしいですけど。

─── もし、そういう本があったら?

 あったら、そこで新しい罪状が加わるでしょうね。


一年間の拘留、拷問、会社も退職

 Image父はちょうど1年間捕まっていました。

─── お母様は捕まったことをご家族に話されなかったそうですが。

 僕には「お父さんは満州へ取材に行ってるの」と言ってました。その2年ぐらい前に実際に満州へ行ってますから、そういえば納得すると思ってたんでしょうが、毎日風呂敷包み持って出かけてりゃ、怪しいと思いますよ。ご近所の手前もありますから、そういうことにしておこうと思ったんじゃないですか。当時「非国民」という言葉は致命的ですからね、生きていく上で。僕もうすうす怪しいと思いながら、自分でも近所に対しては知らん顔していました。

─── 近所の方に陰口を言われたりというような記憶は?

 いや、ないですね。うちの父親は近所づき合いのいい人だったんですよ。町会をあげて潮干狩りに行ったりね、ハイキングに行くような時に先頭に立っていたような人でしたから。勘づいた人も、ほとんどみんな貝のようになっていたんだろうと思います。後になってみるとわかるんですけれども。
 木村さんが捕まった時、木村さんの奥さんがうちの父親のところに来たそうですよ。「木村が捕まってしまったんですけれど、何かおわかりになりますか?」「さっぱりわかりません」「わかりませんね」という話になるわけですよ。

─── いつくらいまでわからなかったんですか?

 ずっとわかんないんですよ。何があったのかわかったのは戦後で、それまではみんな振り回されていたんですよ。
 横浜の警察に持って行かれちゃったんで、母親は毎日面会に行ってましたけど、面会はできない。差し入れだけできる。後でわかったのは、差し入れはどうやらみんな食われちゃったらしいということですけどね、特高警察に(笑)。

─── お父様は拷問のことはお話されていましたか?

 随分してました。竹刀で、それもわざと糸をほぐして先がバラバラにササラ状態になったやつで叩く。そして言うんだそうです、「小林多喜二の二の舞になりてえのか」(註11)。失神すると冬でもバケツの水をかけて、気がつくとまた竹刀です。帰って来た時は、父親の背中は傷だらけになっていましたから。1年間の拘留で、拷問のピークからは結構時間が経っていたと思うんですけれども。やっぱり痕が残っていましたね。一番多かったのは股かな。紫色の痣だらけでした。下に割った薪を、三角に尖った薪を並べて、その上に正座させといて、石を抱かせるんです、重い石を。典型的な拷問ですよ。
 それで「こういうことがあっただろう」「誰それはもう白状しているんだ」「お前だけが言っていないんだ」というようなことを言って、どんどん自白に追い込むわけですよ。

─── 何を言わせたいんですか、特高は?

 「木村が何をしていたか知っていただろう」「相談に乗っただろう」「木村を援助したんじゃないか」「日本共産党の再建に繋がるということを知っていてお前は援助したんだろう」というようなことを認めさせようとするわけですね。筋書きはできちゃっているんですよ。
 逮捕当時は、父親は編集長です、「中央公論」の。若くして、40代の初め頃、編集長にされちゃったんです。その前の編集長の畑中繁雄さんがちゃんとした方で、雑誌の表紙に「撃ちてしやまん」という標語を刷らなかったんですよ。(1943年3月号から)全雑誌が「撃ちてしやまん」という標語を印刷することになっていたんです、大きい字で。それを「そんな馬鹿馬鹿しいことをやったって何の意味もない」って言って、印刷しなかったんですよ。それがためにクビが飛んだんですね、編集長のクビが。そういうナンセンスなことがあったわけで、それで父親が、若くして編集長になった。

─── そうすると中央公論社は、言うことを聞かないというイメージはあったわけですね。

 マークはされてるんです。捕まったところはみんなマークされていたんですよ。(註12)中央公論でしょ、改造でしょ、日本評論でしょ、それから、岩波書店と朝日新聞も入っているんですよ。みんな誰かしら捕まっているんです。

─── 見せしめ的な。

 もちろん、もちろん。たぶんね、これは推測ですけども、これらの雑誌を出しているところを廃刊に追い込むっていう狙いがあったんだろうと思うんです。事実、廃刊になるわけですから、中央公論と改造は。
 廃刊になるまいと思って必死でしたけどね、会社の方は。うちの母親が「こういう事情で捕まりました」と会社へ報告に行ったわけ。報告に行ったらば、逮捕の前日の日付で辞表を書いてくれと言われて。

─── 社長から?

 あの名社長が言ったんですよ、嶋中雄作さんが。
 さすがに堪えかねて、返事を保留にして帰って来て。面会に行って、どうしましょうと聞いたら、父は「退職金、もらっとけ、もらっとけ」って。

─── 退職金はお幾ら位だったんですか?

 それを元手に戦後、出版社をやるんで、それなりに結構なお金は出たと思いますが。手切れ金ですよ。
 「もらっとけ、もらっとけ」と言ったけれど、やっぱり、父親は許してなかったんですね。だって、その時40代半ばでしょう。死んだのは92ですけど、92になる年に、どっかドライブしようと家族で都内をドライブしたんですよ。ちょうど丸ビルがなくなるというのが話題になっていた時で、父が勤めていた当時、中央公論は丸ビルにあったんですよ、そしたら戦後初めて丸ビルに行ってみようって言って、それまで考えてみたら全然行ってないんですよ。行ったら中央公論の特定の部門がまだ残っていましてね、5階の昔の事務所のところに。そこを開けて、覗き込んで「実はここに昔いたんですよ」と懐かしそうに見てました。僕は側にいてね、ちょっと感慨無量でしたけどね。なにしろ、そのフロアでうちの母親とも出会って、結婚してということがあるもんですから。社内結婚第1号だったんですよ。

─── 辞表を書かせて、会社を救おうということだったんでしょうが、結局、潰されちゃうわけですよね?(註13

 そう。雑誌は潰されました。自由な言論が気に入らなかったんでしょうね。


神奈川県の特高は手柄を焦っていた

 これは神奈川県の特高がやっている仕事だっていうことが重要だと思うんですよ。東京の特高じゃないんです。神奈川県の特高は手柄を立てていなかったんですよ。東京の特高は結構色んなことをやっていて、小林多喜二を捕まえて殺したりなんかしてますけど、神奈川県はいい手柄を立てていなかった。だから横浜に帰って来た交換船というのはいいエサだったわけですよ。で、そこから始まって、東京の色んな連中を検挙できるっていうことになって勇み足になったわけですね。

─── 手柄を立てることで特高の上層部が出世をしたりとかあったんでしょうか?(註14

 当然あったでしょうね。ただ、さすがに勇み足だということはわかっていたんでしょうね。看守の中に結構同情する人間が現れてね。うちの父親なんかも非常に世話になったんですよ。「検事調べになったら否定しなさい、引っくり返しなさい」という秘策を授けてくれたのは土井さんという看守なんですよ。

─── ひっくり返すというのは何を?

 それまでに手記を書かされているわけですよ。自白したことにされてるわけね。父親もその辺になるとね、突然曖昧になっちゃうんですけれども。まあそれはやむを得ないと思うんだけれど。つまり(拷問で)人事不省状態にまで追い込まれて、健康だったんで「最後まで意識を失わなかった」って言ってるけど、でも、結構怪しかったと思うんですね。その(拷問と人事不省の)挙げ句、拇印をつかされている。それは敵の書いた作文に拇印をつかされているわけですよ。
 最終的には手記を書けと言われて、みんなそうなんですよ。書いても気に入らないと突っ返されるわけですよ。お前は自白じゃこんなこと言わなかったじゃないかと、もっとちゃんと書けと。それでどうしても書かないと、できてる作文を持って来て「このように書け」と。そのやりとりで1年かかるわけですよ。それで、それができあがると検事調べになる。
 結局、うちの父親は検事のところで全部引っくり返して、「そんなことありませんでした。共産党員だったこともないし、そういうものにも関与していない」ということを言ったら、即日そこで「じゃあもう帰す」ということになった。

─── それまで自白をしたり手記を書いたりしてるわけですよね? でも釈放された。

 釈放ではなく起訴猶予というんでしょうか、不起訴というんでしょうか。それは何人もいるんです。90人捕まってですね、裁判になったのは30人ですから。30人は結局、自白をしたということになっちゃったわけですよ。引っくり返しきれなかったんでしょう。
 裁判になったら引っくり返す、検事調べで引っくり返すということを、監房と監房の間で「(秘密)レポ」が回ったりしてね、細川さんからの手紙が来たりなんかするんですよ。そういうのを看守が運んでるんだね、きっとね。
 (本を読み上げる)「1944年7月初め頃から、被拘置者間の「秘密レポ」が可能になった。「下肚に力を入れよ、暴言を吐くな」」という細川の言葉を木村さんが受け取るんですよ。これ木村さんの文章にも書いてありますけどね。
 それで今度は木村さんは、予審に際しての申し合わせを全員に送ってるんですよ。「拷問の事実を暴露しろ」と、「泊会議が虚構であること」「自分たちは民主主義者で、共産主義者ではない」。この三つをみんなで口裏合わせようということをね(註15)。廊下を「レポ」が動いているんですよ。面白いね。

─── 不思議な気がしますよね。

 あまりにもひどいでっち上げだっていうことを看守は全部知っていたわけじゃないですか。わざと(泊グループのメンバーが)行き合うように、運動場の出入りなんかをタイミング合わせたりしてたんじゃないですかね。よくそういう時に顔を合わせるという話をしてましたから。
 


註1:横浜事件
 神奈川県警察部特別高等課(特高)が、検挙した十余りの事件の総称で、被害者が横浜各地の警察署・拘置所に拘束され、横浜地裁が裁判にあたったため「横浜事件」と呼ばれる。「米国共産党員事件」「ソ連事情調査会事件」「党再建準備会グループ事件」「政治経済研究会事件」「改造社並びに中央公論社内左翼グループ事件」「愛政グループ事件」などがある。
 氏名が確認されているだけで、編集者・研究者ら64人、未確認者を合わせると90人に及ぶ人が逮捕され、約30人が起訴・有罪(懲役2年、執行猶予3年)となった。虚偽の自白をさせるための拷問で4人が獄死、保釈直後の死者1人、負傷者は30人以上。
 背景に、1941年10月のゾルゲ事件の尾崎秀実逮捕で倒れた近衛文麿内閣後、近衛勢力打倒のため、そのブレーン機関である昭和研究会に関連する細川嘉六氏や研究者、官僚、企業人を検挙したという説もある。
 特高(特別高等警察)は、無政府主義者による天皇暗殺計画とされた大逆事件(幸徳事件)を受け、1911年(明治44年)、警視庁に、従来より存在した政治運動対象の高等警察から分かれて、社会運動対象の特別高等警察課が設置されたのが始まり。
 
註2:川田さんというご夫妻
 1942年9月11日、外務省の外郭団体の世界経済調査会で、資料室長をしながらアメリカ班で研究をしていた川田寿氏と定子夫人が神奈川県特高に検挙された。1942年は日本の敗色が兆し始めた頃だが、報道統制、偽りの大本営発表で大多数の日本人はその変化にまだ気づいていなかった。
 川田氏は満州事変以来の日本の中国侵略に反対し、ニューヨーク寄港の日本艦隊乗組員に反戦ビラを手渡したりしたが、夫妻が共産党員になったことはない。1943年1月には夫妻の同僚、知人、親族や、無関係の帰米者も検挙され、世界経済調査会の同僚でソ連研究班員の高橋善雄氏は獄死、他は不起訴、釈放になる。川田夫妻は1回だけの公判で有罪となる。「犯罪事実」のうち、日本共産党再建やスパイ活動は消え、在米時代の活動のみが治安維持法違反とされた。

註3:治安維持法
 国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。1925年(大正14年)に制定され、1941年(昭和16年)に全面改訂され、1945年10月15日に廃止される。治安維持法による検挙者は官庁統計でも10万人近く、朝鮮、満州、台湾でも適用された。全被害者への謝罪と補償、国による全犠牲者の調査・公表を求める治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟が1968年に結成され、現在も活動を続けている。

註4:共産党再建
 日本共産党は1922年(大正11年)に結成されるが、創設当初から治安警察法(1900年・明治33年、労働運動を取り締まるために制定)などの治安立法により非合法活動であった。(大日本帝国憲法29条で法律の範囲内で言論、著作、印行、集会および結社の自由を有するとされたが、不敬罪・出版法・新聞紙法・治安警察法・治安維持法などが制定され、それらの立法に基づく制約が本条による自由の保障に優先したことから、現代的意味における言論の自由・表現の自由・出版の自由・結社の自由は存在しなかった)1935年(昭和10年)3月に最後の中央委員だった袴田里見氏が検挙され、日本共産党中央部は完全に壊滅したことが公式に確認されている。

註5:細川嘉六さんを囲む編集者たちの写真
 1942年7月5〜6日、富山県の泊町の料理旅館「紋左」に、同町出身の細川氏が近著『植民史』の印税で、日頃世話になっていた編集者・研究者を招待し、「紋左」の中庭で記念写真を撮った。
 細川嘉六氏の他、満鉄調査室の平館利雄氏と西沢富夫氏、中央公論社の木村亨氏、元東洋経済新報で東京新聞に移った加藤政治氏、改造社の相川博氏と小野康人氏の計7名が写り、撮影者は満鉄調査室の西尾忠四郎氏。(この8名は全て検挙され、拷問の末、有罪となった)
 
註6:検閲
 1940年、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、各省に分かれていた情報事務を統合して「情報局」(内閣直属の機関)が設置され、新聞・書籍・脚本・フィルム・レコード・絵画彫刻の検閲を行った。著作物は、出版法(1893年・明治26年制定)による文書、図書を発行した時は発行3日前に内務省に製本2部を納本する必要があった。内容が皇室の尊厳を冒涜し、政体を変改しその他公安風俗を害するものは発売頒布を禁止し、鋳型および紙型、著作物を差し押さえ、または没収し得た。情報局は紙の配給権を掌握しており、新聞・出版物の言論統制をすることが容易であった。

註7:ある人のところで見つかる
 ソ連研究会に参加していて捕まった満鉄調査室の平館氏と西沢氏の検挙時の家宅捜索で、「紋左」での記念写真を押収。(残されたアルバムには慰安旅行のスナップ写真も貼られていた)

註8:川田さんご夫妻の友人(同僚)関係で捕まって
 1942年9月の川田寿氏逮捕の繋がりで、1943年1月、川田氏の同僚のソ連研究班員の高橋氏が捕まる。(ソ連研究会には、陸軍、海軍、満鉄調査室、外務省などが参加していたが、特高は研究者を検挙し、陸海軍将校の参加には触れず、ソ連に有利な資料を収集、宣伝した「ソ連事情調査会事件」とした)
 1943年5月11日、高橋氏の上司の益田直彦氏とソ連研究会に参加していた満鉄調査室の平館氏と西沢氏が捕まり、「紋左」での記念写真から、1943年5月26日、他5名が捕まる。(細川嘉六氏は既に『改造』に載った論文が理由で1942年9月14日に検挙されていた)

註9:捕まえるかどうかの区分け
 1944年1月29日、改造社と中央公論社の現・元編集者が一斉検挙された。
 改造社は、海軍省嘱託の青山鉞治氏、元「改造」編集長の水島治男氏、編集者の小林英三郎氏、若槻繁氏も捕まる。(細川論文掲載時の編集長の大森直道氏は退社して外務省上海大使館報道部嘱託となっていたため、1944年3月12日に上海で検挙)
 中央公論社は、日本出版会に移っていた元「中央公論」編集長の小森田一記氏、その後の編集長の畑中繁雄氏と、検挙時の編集長の藤田親昌氏、編集者の沢赳氏、翼賛壮年団に移っていた青木滋氏も捕まる。
 
註10:裁判所の令状
 近代国家は強制処分(逮捕・勾留・捜索・押収など)の多くについて令状主義(裁判官が事前に発した令状に基づかなければならない)を採用するのが一般的。捜査機関が捜査に名を借りて権限を濫用し、不当に人権を侵害することを予防する目的を持つ。
 しかし、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降、ブッシュ元大統領は令状を取らない大規模な通信傍受を米国家安全保障局(NSA)に認めていたことが、2005年のニューヨークタイムズのスクープで明らかになる。2013年、スノーデン氏のリークにより、NSAは令状なしに米国人の国内通話の内容を傍受でき、分析員の判断によって大規模な収集および閲覧がされていることも明らかにされた。NSAは、世界各国(アメリカの同盟国を含む)の要人などへの盗聴を行っていたことがリークされ、大きな国際問題になっている。

註11:「小林多喜二の二の舞になりてえのか」
 小林多喜二(1903年(明治36年)~1933年(昭和8年)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家。1929年に発表された『蟹工船』は戦中も戦後も多くの国に紹介されている。1933年、共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉の手引きで、張り込んでいた特高により逮捕。築地警察署では、小林を寒中丸裸にして、握り太のステッキで打ってかかった。警察当局は「心臓麻痺」による死と発表したが、遺族に返された小林の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていたが、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断った。
 『ドキュメント横浜事件』(資料刊行会)の被害者の口述書でも、特高は「お前らの一人や二人殺すのは朝飯前だ。小林多喜二がどうして死んだか知っているか」と絶叫しながら拷問を加えたという。
 
註12:捕まったところはみんなマークされていた
 出版関係は、中央公論社、改造社、東洋経済新報(検挙時は東京新聞)、日本評論社、岩波書店、朝日新聞の編集者が捕まり、敗戦がなければ、朝日新聞社の同僚や、大阪毎日新聞にも広がった可能性が高く、読売新聞外報部次長・論説委員だった鈴木東民氏も、1944年9月22日、『改造』の小林英三郎氏との関係で磯子署に召還され、休職処分・執筆停止・東京退去で起訴猶予となった。

註13:結局、潰されちゃう
 1942年細川氏が検挙され、「改造」が発売禁止になると、「改造」は、編集長・大森直道氏と、細川氏の担当編集者の相川氏が退社し、その他の編集部員も総入れ替えとなっていた。(その後、相川氏は1943年に、大森氏は1944年3月に検挙される)
 1944年7月10日、東条内閣の閣議を経て、内閣情報局の改造社、中央公論社への解散命令(自発的廃業を勧める)により、両社は解散させられる。理由は「戦時下国民の思想指導上許しがたいものがある」というもの。

註14:特高の上層部が出世
 神奈川県警の平城国義・特高課長は1944年6月、島根県警部長に栄転、1945年8月時点では情報局情報官に、拷問の指揮者の松下英太郎警部は警視となり、1945年4月には寿警察署署長に、のち藤沢署署長になり、柄沢六治警部補は警部に昇進した。(神奈川特高の暴走の背後には内務省、司法省、情報局の追認や激励もあったという)
 東京地裁で予審判事の尋問を受けていた細川氏も、1943年5月の神奈川県警の「泊事件捏造」以後、1944年10月、横浜地裁に身柄が移され、容疑も治安維持法第五条「共産主義の啓蒙・宣伝の禁止」違反から、第一条「国体の変革」と第十条「私有財産制度の否認」違反に切り替わった。

註15:みんなで口裏合わせよう
 1944年10月、予審尋問で、細川氏は全否認し、暴行による自白の強要を主張し反撃し、泊グループの他のメンバーも予審では手記の否定・訂正をした。

Index   戦後の「冤罪究明・無罪獲得」のための再審裁判

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