Japan Playwrights Association’s New Playwright’s Award
第30回劇作家協会新人戯曲賞 選評

《受賞作》
斜田章大『4047(ヨンゼロヨンナナ)


[主催] 一般社団法人 日本劇作家協会

[後援] 公益財団法人 一ツ橋綜合財団
   [協賛] 小学館、北九州市芸術文化振興財団


最終候補作

◯『4047(ヨンゼロヨンナナ)』 斜田章大(愛知県)
◯『春の日の花と輝く』 辻本久美子(京都府)
◯『夜の初めの数分間 ~画子とひまわりの場合~』 渋谷 悠(東京都)
◯『旅の支度』本橋 龍(東京都)
◯『光を踏んで走りはじめた』 波田野淳紘(神奈川県)

最終審査員

 長田育恵 鹿目由紀 シライケイタ 瀬戸山美咲 平田オリザ
 最終審査会司会 山田裕幸


選評

長田育恵

■ 斜田章大さん『4047(ヨンゼロヨンナナ)』
 現代社会の中でひとは映像との関係性を問い直されている。故人を再生したAIの画像も珍しくなくなった。それは実在ではない、でも虚像とも言い切れない。だが生身の人間が滅びた後も映像や音声は残っていく。そんな現代を照らす、意味のある一作と出会えた。
 本作の装置は、画面アスペクト比を現す空間に、一本の対角線、そしてチョークで数字を書き換えていくだけ。それだけで映像と生身の人間の間で、指数関数で加速していく4047年先の未来までを軽やかに提示してみせた。「画面アスペクト比」「数字」「境界線」、シンボルは媒介として観客に自主的な思索を促す。そして「見立て」や「補完」―― 誰もいなくなった無人の空間にも観客の想像力で補完させるなど演劇の根源的な楽しさを呼び覚ます。本作がもたらす最大の魅力は、この「体験」にあると感じた。観客は、高圧的なストーリーテリングで縛られることなく、観客自身が余白に積極的に参加していくことで、自分だけの観劇体験が得られる工夫に心躍った。
 人類が滅びた遙かな未来まで描くというのは魅力的な試みだが危険性は伴う。手数をかければかけるほど違和感やチープさが目立ってしまうのだ。本作はシンプルだからこそ成立するという活路を見いだした。そんな、演劇の特性を最大限に生かすアイディアを提示したことに心から敬意を抱いた。
 一方で、本作がアイディア特化型であることは否めない。作者がこの先、研究していくべき点は多々ある。時代が飛んでも人物の関係性や思考のスケール感が変化しない、登場人物の描写力や台詞の甘えなど筆力に関わる部分。そして作者自身の価値観も。だが演劇人として素敵なアイディアを結晶化させた今作は揺るぎなく光っていて、作家としてのびしろが見えている期待値も含めて魅力だと感じた。受賞おめでとうございます。

■ 辻本久美子さん『春の日の花と輝く』
 ミステリー仕立ての構造で、女性芸術家たちを主人公に2.26事件前夜から戦後までを描こうとする意欲作だった。その着想、ねらいも誠実だった。だからこそ歯痒かった。着想とねらいは確固としているのに、実際の作品がそうできあがってはいなかったからだ。
 まずこの時代に生きた女性芸術家たちの輪郭の薄さが気になった。芸術家同士の嫉妬や書きたいという意欲なら現代を舞台にしても変わらない。その点で本作は、時代のうねりを背骨とすることを特徴としている。なのに象徴的な出来事が、まるで年表の役割に留まっている。たとえば2.26事件が勃発したところで、ト書き指示で「暗転」。2年後「昭和13年」となる。思想と芸術の自由に対する抑圧を象徴する出来事であり、青鞜を越えて生まれた当時の女性芸術家たちがそれをどう視て、どう変化していくかなど、彼女たちしか語れないことがそこから生まれるはずだった。ドラマは変化の最中にこそ色濃く描けるのだと思う。
 同様に、時代の痛みを背負った人物は周辺に配置されている。たしかに重要な事案は男たちのもので、女は蚊帳の外に押しやられる時代ではあった。でもその枠組みを踏み越えるために意志を表現できる女性芸術家たちを描こうとしたのではなかったか。彼女たちを、時代の当事者として、粘り強く書いてもらいたかった。

■ 渋谷悠さん『夜の初めの数分間 〜画子とひまわりの場合〜』
 「鏡に人が映らなくなる」という設定のオリジナリティ、視覚イメージの美しさ、フィクションが実現できるロマンチシズムが心に残った。題材が呼び起こすテーマ性も、ルッキズムへの疑念や自己同一性の喪失など、現代を照射する問いは射程に入っていたのだが、そこまで踏み込むことなくストーリーテリングに従事したことが戯曲としては物足らなかった。登場人物の造形も、往年の大女優とその娘、女優を囲む付き人など懐古的でステレオタイプなキャラクターの表層を破壊するところまでいかず、設定とストーリーの強制力に対し、人物が負けていると感じた。
 本作で最も興味を引かれたのは、タイトルにもなっている娘と母の関係だった。老いを拒絶し常軌を逸して、今も大女優であるかのごとく振る舞う母を、娘は現実を直視させないよう注意深く周囲と結託し、やわらかな檻に閉じ込めている。それはまるで母と自身へのセルフネグレクトにも見える。なぜそんな関係が構築されたのか。母と娘の関係は生易しいものじゃない。聖なるものでもない。世にありふれた言葉やテンプレートでは語りきれない、心理をえぐりあう対話があるのだと思う。
 「自己同一性が喪われる世界」というフィクションの器を用意したからこそ、さらに「喪ったものは相手の瞳の中に見つけられる」という美しいエンドシーンが担保されているからこそ、そこに至る手段は、醜くとも内奥をさらけだす対話によって互いを刻印してもらいたかった。

■ 本橋龍さん『旅の支度』
 審査会には本作を最も推したい気持ちで挑んだ。台詞と会話の上手さ、モノローグの魅力、さらに基本は弟と姉のふたり芝居でありながら、他の役も演じた際に脱ぎ捨てられた服などで「ぬめり」が残るように作られている演劇としての面白さ。それによって弟と姉に、たとえばセクシュアルな匂いやエディプスコンプレックスの気配が立ちこめたり、権力構造の逆転が生じたりなど、関係性に絶えず揺らぎが生じるように組み込まれている。危うさを孕んだふたりは一体どこへ行き着くのか、作品に引力があった。
 また現実の尺度で捉えれば、本作はぎこちない最初の一歩を踏み出しただけの話なのだ。その、一歩を踏み出す行為が発生するまでに最大のドラマを見い出そうとする作者の視点に共感した。社会と接点を持つ弟と引きこもりの姉、そして姉が執着するぬいぐるみと、『ガラスの動物園』に類似しているが、姉の人物造形によってアップデートされて、あのローラを解放する物語だと清々しさも感じた。
 だが審査会で、本作の家族設定がある著名人家族を踏襲していると指摘された。他者の人生を、知る人が観れば分かるそのままのかたちでエンターテインメントの素材とすることは避けなければならない。観客も自由に発信し、その文字が残り続ける現在は特に。
 作者に台詞の筆力があるのは間違いない。すべての観客に安全に作品を楽しんでもらうためにも、今作を経験として心に刻み、次作に向かってもらいたい。

■ 波田野淳紘さん『光を踏んで走りはじめた』
 本作は、最終候補作となり作品名の公表が決まった時点で、作者からタイトル変更の申し入れがあった。元のタイトルは歌詞を引用・改変したものだったが著作権者の合意が得られなかったとのこと。私にとってタイトルは重要な要素であり、経緯も含めて、瑕疵を感じずにはいられなかった。
 また学校の1クラスの日常を描きながら、うちひとりがタイムリープしている筋立てはSFとして先行作が多い。ことに演劇作品においては、真相開示を基点に、同じ場面をほんの少し位相を変えながら繰り返すという一幕・二幕構造まで、まったく酷似してしまう。先行作と骨格が同じなら、そこを気にさせない、補って余りある独自の魅力的な肉体――新たなテーマ性の提示や人物描写力、厚みある台詞など――が必要だが、そのあたりの膂力がまだ足りないと感じた。
 けれど17歳特有のきらめきを作品に書き込みたいという作者の本願は、きちんと伝わってきた。演劇を書く等身大の喜びも感じられた。「楽しんで書く」という最大の武器はもう手にしているのだから、改めて今後の飛躍に期待したい。


鹿目由紀
 
 今年の最終候補の5作品に出会いまして、「独自性」という言葉について深く考えました。いずれの戯曲ももちろん、独自の視点や描き方を大事にしながら積み上げた戯曲だとは感じつつも、さらにその高みを目指すにはどうしたらいいのか、というのを思い巡らせることになりました。受賞された斜田さんの作品は、5作品の中で最も独自性、唯一の世界観を感じた作品でした。斜田さん、おめでとうございます。

 『4047(ヨンゼロヨンナナ)』は、演劇的な面白みを存分に活かした戯曲でした。時間・空間がどんどん飛んでいくところ、それを表す表現、映像の画角を舞台に利用することも含めて、遊び心に満ちていました。また淡々と時代が移り変わり、物語が加速して次の世代へと進むからこその悲哀があり、面白く感じました。有名なSF映画作品への敬愛も感じ、SF作品を愛する自分にとっても娯楽として楽しめる部分が多々ありました。
 ですが、映画関連の事柄が少し平たく描かれてしまったと感じました。映像研究会、映画マニアなどをメインに置いて展開するにしては、主軸の人物の映画に対する掘り下げが甘く、名前の付け方や好きな映画についてのこだわりなどの描き方が通り一遍だったと思います。でもうっかり一年、映像鑑賞を飛ばしてしまって、それからその年数飛ばしを倍々に踏襲していく、という動機と構造は本当にありそうで面白かったですし、大事な鑑賞会を飛ばしてしまう人間なら、映画愛が多少平たくなってしまうのもあり得るのかな、とも思いました。
 他の方も指摘されていましたが、ジェンダーの描き方に少し引っかかりました。これは斜田さんの今後のひとつの課題と言えるかもしれない、と他作品も多数拝見している身として感じております。
 何はともあれ、同地域で活動する劇作家の満場一致での受賞は、個人的に大きな喜びでした。おめでとうございました。

 『春の日の花と輝く』は、大変丁寧に、かつ誠実に描かれた戯曲でした。過酷な時代の中で強く生きようとする女性たちが魅力的に描かれ、国籍を隠すため口をきかずにいるピアニスト・シンの存在も効いていました。しかし時代背景ともっとリンクさせて欲しかったと思いました。2.26事件が時代を表す設定のみになっていると映ったのと、この時代だからこその特異性と物語の関連が薄いように感じたからです。
 また構造としての面白さが欲しかったです。戯曲において「絵」を扱うのはなかなか難しいものだと思います。絵という動かぬ視覚的な存在を舞台に活かすのは工夫が必要です。この戯曲において絵の説得力は重要だと思いましたので、舞台化時に「絵そのもの」をきちんと出すにしても、実際の絵を見せず例えば額縁だけのような形にしても、その求心力は大きく、また最後の場面で現代の人間が絵を観るのがゴールになるわけですから、やはりあとひとつ、なにかこの戯曲なりの絵の扱いに対する構造ないし扱いのオリジナリティが必要だったように思います。

 『夜の初めの数分間 〜画子とひまわりの場合〜』は、その着眼点と独創的な設定にたいへん興味を惹かれました。実はそのアイディアだけで心掴まれました。自分が鏡やレンズなどに映らなくなる、という現象の面白さもさることながら、人が映らない写真の個展をやる百目木に、画子が自分の映らない写真を撮ってもらう、という流れも、画子の逡巡が感じられて効果的でした。ひたすら設定に独創性を多々感じました。最終的なひまわりの着地点が、ルッキズム問題などの大風呂敷に落ちていかず、あくまで個人的な母娘の話に集約したのも良かったです。ただし後半、説明的な台詞、描かなくても分かる台詞が増え、アンサンブル役などに進行を頼ったのがもったいなかったと感じました。「それは母親のために幻想を作り続けた娘の顔だった」という台詞は、不要であり、言わなくても十分に伝わる流れになっているはずだと思いました。けれどとにかく生み出された設定の強さに心躍りました。

 『旅の支度』は会話の運び方やその言葉の選び方がとても面白くて、新しいリズムを感じましたし、非常に巧みでした。その会話と言葉の点においては、最も評価した作品でした。例えば「消えるんなら徹底的に消えてくれよ、できないんならもうちょっとなんとかしてくれよ」という台詞の人間味に、深く惹かれました。それぞれが父と母を演じるのも演劇的に面白いだろうという想像性が働きました。物語がミニマムに姉弟の関係に集約しているところも良かったのですが、そこを突き詰め、一歩も家から出ずに終わるとか時間縛りをさらに明確にするとか、もっともっと極小な物語にしたほうが、さらに独自性が上がるのでは、とも思いました。

 『光を踏んで走りはじめた』については、くり返していく構造的な面白さと、『漂流教室』のような持ち味に惹かれたのと、独特の言葉を発する登場人物数名に魅力を感じつつも、多人数の人物の描き分けが甘い部分は否めないように思いました。このような群像の場合、なおかつ各場面が同じような長さで次々と進む場合、かなり大事になることだと思います。もちろん現場で俳優が演じればその個性により棲み分けられるものだとは思うのですが、戯曲での棲み分けがはっきりすれば、その人物の必要性・必然性が増すと思います。波江は話さぬ時が魅力的に映りまして、話してからは物語を動かすための存在に終始してしまったような印象でした。また最初の場面場面で繰り返し言及していた「けもの」がキーワードになり深まっていくのかなと読み進めたのですが、そうならなかったのが少しもったいないと感じました。



シライケイタ
 
 本年の最終審査会では、多くの審査員が『4047(ヨンゼロヨンナナ)』に高得点を付け、非常にすんなり受賞作が決まりました。それだけ『4047』が突出していたと言えると同時に、『4047』以外に大きな野心とオリジナリティを感じる作品がなかった、とも言えると思います。
 また、最終候補に残れなかった作品の中に、現実世界の会社名や人物名をもじった存在を登場させた作品がありました。そのこと自体はよくある手法で問題はないのですが、その扱い方に関して、現実の存在に対して名誉を棄損しかねない書き方ではないか、という議論がありました。近年大きな問題になり得る「引用」や「オマージュ」といった、著作権に抵触しうる問題と同様に、これまで以上に書き手に倫理観が強く問われる時代になったと実感しています。私自身は高く評価していた作品だけに、大変惜しい思いがしたことを書き添えておきます。

『4047(ヨンゼロヨンナナ)』
 壮大な時間の中で人類の営みをとらえる意欲作。スケールの大きな題材を、スケールの大きいまま扱うことの難しさに挑戦し、見事に成功していると思いました。究極の映画を作るという登場人物の目的は、人類の究極の目的とは?という問いかけに重なりました。大きく時間が飛んでいく構造で、最終的には想像もできない程の遠い未来を描いていますが、強い意志と筆力で描き切ったという凄味を感じる作品でした。舞台上に書かれたチョークの線を跨ぐだけで時を超えていくアイデアは、演劇的な企みに満ちた秀逸なアイデアだと思いました。小さな命の出会いから始まるこの物語は、人間存在に対する大きな賛歌に満ちていると思いました。受賞、おめでとうございます。

『春の日の花と輝く』
 戦前の思想弾圧の時代から現代までを、二人の女性画家とその周囲の人たちの視点で描く良作。千重とシンがそれぞれの本心を言い合うシーンは秀逸でした。それぞれの人物もよく書きこめており、無駄がないと思いました。ただ、無駄がないということは同時に、ゆとりや遊びが無いということで、作品としては多少窮屈に感じました。描こうとしている世界の大きさや時間の長さからすると、あと一時間くらい書き込んでも良いように感じ、そうすれば、より女性たちの人生が深まったのではないかと思いましたし、それに十分耐えられる強度があると思いました。

『夜の初めの数分間 〜画子とひまわりの場合〜』
 自分の姿を自分で観ることができない世界という設定が、とにかく魅力的でした。カメラにも鏡にも映らず、他者の書く似顔絵(=他者が自分をどう見ているか)でしか自分の姿を自分で観られない世界。奇抜な設定ですが、現実世界に対する皮肉のこもった、非常に示唆に富む設定だと思いました。日が沈んだ後の数分間だけ他人の目に映る自分が見えるというラストは、作者の祈りとも願いともとれる、とても美しいシーンでした。ただ、数あるシーンそれぞれの設定の仕方に拘りが感じられず、もったいなさを感じました。それぞれのシーンに、そこじゃなきゃいけない理由がもっと強くあると、説得力とオリジナリティが更に増すと思いました。台詞も同様で、作者固有の魅力を感じる台詞が少なく、今後書き続けていけば、更なるオリジナリティを獲得できるのではないかという、大きな伸びしろを感じました。

『旅の支度』
 二人芝居の構成で四人家族を描く構造が面白いと思いました。姉弟のキャラクターの造形が秀逸で、特に姉の造形にオリジナリティを感じました。姉弟の会話で、失った時間を取り戻していく過程が丁寧に描かれており、二人の俳優が子供と両親の両方を演じる構成によって、家族の状況がより際立つ仕掛けでした。安易な救いは用意しないが、それでも希望を感じられるラストシーンを用意した作者の手腕が素晴らしいと思いました。ただ、現実世界の出来事を想起させる設定が仕組まれており、その扱い方に関しては、より配慮が必要なのではないかと思いました。

『光を踏んで走りはじめた』
 登場人物を、敢えて全員十七歳に設定し、きらめく青春の断片が散らばっている作品と見せかけて、二幕でにわかに教室に戦争が押し寄せてくる、というある種恐ろしい構成が面白いと思いました。虚実が薄い皮膜で隣り合わせの世界であり、観念や抽象的なモチーフが多いことがこの作品の特徴ですが、その反面私には、作者の描こうとしている実像をとらえ切れませんでした。登場人物の名前から、ここで描かれる教室を世界に見立てていることは分かりましたが、もう少し作者が、作者自身の感覚を具体的に変換して文字を置いていけると、更に作品に普遍性が帯び、強度が増すのではないかと思いました。また、俳優の演技ありきで書かれていて、文章だけではキャラクターの書き分けが読み取りづらく感じました。



瀬戸山美咲
 
 昨年から最終審査員が二次審査も務めることになった。最終審査員が多くの作品にあたって、一作品ずつを深く論じるという意味でこの取り組みは成功していると思う。今回、二次審査が終了した時点ですでに『4047(ヨンゼロヨンナナ)』が圧倒的な得票を集めていた。
 私もこの作品をもっとも面白く読んだ。まず、「映画を撮ること」を未来につないでいくことを題材としながら、どこまでも演劇的な手法でそれを実現しているのがよかった。長方形の舞台を画面に見立てつつ、線一本で異なる時空間を同時に出現させるスタイルは鮮やかだった。また、時間を指数関数的に未来へ飛ばしていく展開に胸が躍った。遥か未来では、スマートフォンが人間にとってかわり、宇宙空間へ飛び出す。そして風呂敷を広げ切ったところで、この計画の出発点である映画館での出会いに戻る。ロマン溢れる構成にも惹かれた。
 瑕疵があるとすれば、ジェンダーの描き方で気になる点が三点あった。一つ目は未来で、結婚した夫婦の妻が男性の姓を名乗っていること。テクノロジーが進歩しても、婚姻や改姓の制度が現代日本と変わらないのが気になった。二つ目は、女性の登場人物が男性の登場人物に比べ、結婚や生殖を意識するセリフを多く口にしていること。三つ目は「映画」を撮ろうとする性が男性に集中していることである(女性は映画を撮ることより、プロジェクトの継続を目指している)。前世紀、映画は主に男性が「撮る」もので、女性は「撮られる」側だったかもしれない。でも、せめて現代では、未来では、違う可能性を見たい。そのあたりを留意してリライトしたら、長く生き残る作品になると思う。

 『光を踏んで走りはじめた』も一気に読んだ。中学生たちの日常が描かれた前半はセリフのやりとりがビビッドで面白かった。ただ、女性のキャラクターがエキセントリックなことを言い出すパターンが続いたのが気になった。少しずつ日常に不穏な影が迫ってきて、崩れ始める後半はとてもスリリングだった。この作品のポイントは、現実では何も起きていないことにある。唯一本当の出来事のように語られる「通り魔」すら、伝聞でしかない。しかし世界は中学生たちの内側から確実に壊れていく。誰かひとりが見た夢にも見えるし、集団が見た夢にも見えて、興味深かった。

 『旅の支度』は、会話の運びがとてもうまいと思った。一晩の、姉弟の「行きたくない旅」の支度を描きながら、親も含めた家族の問題が見えてくる構成もいい。俳優2人だけで5人の役を演じるのも演劇的でよいが、母と父を姉と弟が演じることには意味が見えたが、弟の恋人の役を姉が演じることの効果は伝わってこなかった。また、読み進めるうちに、中心になる家族の物語が借り物の題材なのではないかという疑念が生じた。もしそうだとすれば、その人たちの現実の人生が続いていくことに対する想像力が足りない。筆力がある方なので、「自分にしか書けないもの」「自分が書かざるを得ないもの」を追求してほしいと思う。

 『春の日の花と輝く』 はまっすぐに書かれた作品だった。しかし、登場人物たちの行動に意外性がなく、全体として予定調和な印象にとどまった。まず、外枠として存在している「現在」パートが説明的だった。また、「現在」があることで、「過去」の人々の物語が中途半端なところで終わっているように感じてしまった。もう少し先まで、彼女たちの人生を見つめたかった。芸術以外に興味がない天才画家・弓子と、コンプレックスの塊ゆえに戦争画にたどり着いてしまう美緒の対比はわかりやすかったが、彼女たちの変化があまり見えなかった。審査会でも出た意見だが、弓子が戦争画にたどり着くほうが現実に近いかもしれない。また、”るり”という登場人物に対して美緒が差別発言を繰り返すのが気になった。美緒の浅はかさや自信のなさを表現するためだとしても、その言動に対する批評的な視点がなく、真意が見えづらかった。

 『夜の初めの数分間 ~画子とひまわりの場合~』の「人の姿が鏡やレンズに映らなくなった世界」という設定は秀逸だった。ここからどんな物語が始まるのだろうと期待したが、「モラハラを繰り返す、老いを受け入れない大女優」など、出てくる人物たちが類型的で興味を失ってしまった。いかにも言いそうなことを長く喋るセリフも新味がなかった。ここまで戯画的にするなら、レンタル彼氏などの現実的な設定は排除して、お伽話レベルまでフィクション度をあげたほうがよいかもしれない。もしくは、同じ設定で、人間の細やかな心の揺れに迫ってほしい。この作品には自分の姿が見えなくなってもルッキズム、エイジズムにとらわれている人間が出てくるが、容姿の呪縛から解放される人もたくさんいると思うし、逆に過剰にコンプレックスを加速させていく人や、見えないことで自分を見失う人もいると思う。今回の設定はとても面白いと思うので、同じ世界観でまったく別の人間を想像した物語も読んでみたいと思った。



平田オリザ
 
 今回は『4047(ヨンゼロヨンナナ)』を第一候補に、『旅の支度』を第二候補に考えて審査に臨みました。他の審査員もおおむね同じ感想だったようで、この二作品の水準の高さが群を抜いていたように思います。
 まず全体を通じて、偶然なのかトレンドなのかはわからないのですが、二次審査の段階から、肯定的な意味で荒唐無稽な設定の作品が多く揃った印象を受けました。

 その中でも『4047(ヨンゼロヨンナナ)』は破綻が見えず、きわめて完成度の高い作品でした。日常から非日常への移行の加速の仕方が素晴らしく、スピード感のある戯曲でした。
 また、演劇でしかできない仕掛けが功を奏しており、実際の舞台を観てみたい気持ちにさせてもらいました。
  他の方も指摘するかと思いますが、ジェンダーの描き方がスレテオタイプに見えてしまうのは、演劇の仕掛けが秀逸であるだけにもったいない気がしました。しかしこの点は、「もったいない」というだけでは済まされない、プロの劇作家として生きていくための本質的な部分を含んだ問題のようにも思います。斜田さんには、是非これを機会に、きちんとこの点と向き合っていただければと願います。

 『夜の初めの数分間 〜画子とひまわりの場合〜』も壮大な「仕掛け」を持った作品でした。人が鏡にもレンズにも映らなくなるという設定は秀逸でした。自分のことが見えなくなったときに人はどう行動するのかという主題も素晴らしいと思います。また、陽が沈んだ後の数分間だけ他者の瞳に顔が映るようになった、そして人々はその時間だけ、お互いの目を覗き込むようになったというラストシーンも美しいイメージを喚起させるものでした。
 ただ、私自身は読み始めてすぐに、「なぜ、この人々は似顔絵を描くことに拘るのか? シリコンなどで型を取れば、立体の自画像が、より正確にできてしまうのではないか?」と感じてしまったのです。もしかすると私が何か大事な部分を読み落としてしまったのかもしれませんが、こういった壮大な仕掛けは、一方で小さなほころびが見えてしまうと、それが気になって少し冷めてしまうところがあります。その点で、私はいい読者ではなかったかもしれません。申し訳なく思います。

 『春の日の花と輝く』は正攻法の好感が持てる作品でした。ただ、天才肌の画家である牧田弓子と、その才能に嫉妬する森下美緒という対比ならば、戦争協力するのは弓子の方ではないかと感じました。そして、その方が戯曲にも人間造形にも厚みが出たように思います。 

 『光を踏んで走りはじめた』は、とてもテンポのいい作品でした。ただし登場人物それぞれの体と知性と、そこから発せられる言葉のバランスが整っておらず、どうにも十七歳の個々の身体が感じられない点が残念でした。

 『旅の支度』は設定も台詞も魅力的で楽しく読みました。シンプルで小さな作品ですが、人物描写が的確で破綻のない構成になっていました。
 姉が母を、弟が父を演じる点も演劇的仕掛けとしては面白いのですが、途中で姉が弟の彼女の役にまでなってしまうのは必要ないように感じました。また、些細なことですが、なぜレンタルオフィスで仕事をしているのか。今どき紙の航空券を破っても問題なく渡航はできる。こういった細部のぞんざいさが、少し気に掛かりました。

 いずれの台本も、上演の時には様々な制約があって、このようになったのだろうなと感じる点がいくつかありました。是非、戯曲賞に応募する際には、そこからもう一度、俯瞰的な視点に立って戯曲としての完成度を高めてもらえればと思います。さらなる刺激的な作品を期待します。


 


<上・審査会の模様>
左上から:長田育恵、瀬戸山美咲、シライケイタ、
鹿目由紀、平田オリザ、山田裕幸(司会)