言論表現の自由のよって立つところ  

 言論表現の自由のよって立つところ

 ── なぜ劇作家協会は「安全保障関連法案」に反対するのか。
    言論表現委員の永井愛に聞く ──




── 6月に日弁連の宣言に賛同表明をし、8月に撤回を求めるアピールを出しました。理事・運営委員会への問題提起やアピール文の作成などは言論表現委員会がされています。どのような主旨で今回の賛同表明とアピールがなされたのでしょうか?

 言論表現にかかわる問題について、協会がアピールを出したのは2003年が最初です。その後もアピールや賛同表明を続けてきました。表現の自由や知る権利は、劇作家の活動に深くかかわる問題だと考えるからです。「集団的自衛権」の問題は、昨年6月に日弁連の反対決議に賛同表明をしたのが最初で、続けて昨年7月にアピール(『集団的自衛権行使を認める閣議決定に抗議し、撤回を求める緊急アピール』)を発表しました。そのアピール文の結びで「この閣議決定に基づく全ての法案提出にも反対します」と宣言しました。今回の賛同表明とアピールはそれに続くものです。


── どういうところが言論表現にかかわる問題なんでしょう?

 問題点については、アピール文に書いてある通りですが、まず、この法案は憲法違反だということ。政府が改憲手続き抜きで憲法を解釈で変えていいなら、表現の規制にも歯止めがなくなって、政府に都合の悪い表現や言論が抑圧される恐れが出てくる。立憲主義が崩されると言論表現の自由にかかわってくるというところで危機感を抱きました。それと、アピールの前文でふれていますが、先にアメリカの議会で成立を約束してきて、後から国会の承認を得ようとするなんて、日本の国民主権や言論の場である国会での議論を甚だしく軽視していると言えるんじゃないでしょうか。


── 今回の賛同表明に対して、政治的な不一致がある事案なのに協会として行う必要があるのか? との疑問が会員から寄せられました

 はじめにも言いましたが、劇作家の活動、つまり、取材や表現を支える市民的自由を守るために必要な意見の表明は、協会の重要な役割だと考えています。協会がかかわる問題には、政治的なことも多いですが、政治的な不一致があるので沈黙するということはありません。そのために協会は意思決定の方法として選挙による代議制をとっています。ですから、発表されるのは法人としての協会の意見です。これまで10年以上にわたって、協会は劇作家の市民的自由を守るために必要と判断した意見表明を行ってきました。それは会員の皆さんから託された仕事の一つだと考えています。


── 先の疑問は、協会の賛同表明・アピールとは異なる政治的立場に立つ者は、どうやって自分の思想信条の自由を協会内において保っていけばよいのか、ということでもありましたが。

 たとえば、上演料のこと一つとっても、会員の意見や考え方はいろいろあるでしょ? でも、最低上演料の決議は劇作家の著作権、その価値を広く認知してもらうために、協会として必要だと判断したことでした。上演団体相手に一人で劇作料の交渉をしなければならない劇作家にとって、劇作家協会が公にした最低劇作料とモデル契約書は大きな助けになるはずです。もちろん、これはあくまでも協会が推奨するプランであって、会員全員に縛りをかけるものではありません。ただでも書きたい劇団があるなら、ただで書いたっていいわけです。
 今回の賛同表明とアピールもこれと同じで、理事会で決定したことなんだから、会員は全員このアピールに従えということではありません。会員個人の政治的な活動や意見表明を縛ったり制約するものではないというようにご理解いただければと思います。


── さて、今日は8月31日ですが、9月中旬には参議院で「安全保障関連法案」が可決されると言われています。今後について、言論表現委員として、どうお考えですか。

  劇作家協会は、「安保関連法案は危険だから反対」という言い方は基本的にしていません。この法案が現行憲法に違反しているのは明らかだから、どうしても成立させたいのであれば、まず国会で改憲の発議をして、国民投票に問うべきだというのが協会としての主張です。ですから、もし強引に可決されたとしても、そのつど理事・運営委員会に諮って、憲法違反という観点から反対を表明し続けていくことになるでしょう。
 ただ、将来的には別の方法も探ってみたい。これは、言論表現委員会内でも、まだすべての委員に共有されている考えではないけれど、「武力行使もしくは武力による威嚇を最終的な問題解決の手段」 とする考え方自体が、「言論表現の可能性をあらかじめ否定するもの」であるとして、憲法を介さないでも、直接関連づけて反対表明できないだろうかと思うのね。
 言論表現というのは、自分が考えたことを「どう思いますか?」と相手に差し出す行為だから、相手とはあらかじめ違っていることを前提にしていますよね。その上で、相手の理性と知性を信頼して共感を求めようとする行為なんだよね。だけど、武力行使っていうのは、その可能性の全面否定。「最終的に人間はわかりあえないかもしれない。だから、恐怖によって押さえつけるか、殺し合いによって降参させるのも止むを得ない」とする考え方で、人間の変化や歩み寄りの可能性を全否定している。それは言論表現行為の前提そのものと先天的に対立していると考えてもいいんじゃないか。だから、「安保関連法案」に対する反対は、単なる政治的意見の表明だと私は考えていないし、この法案が容認する武力行使は、言論表現と実は深いところで相反関係にあると思う。


── 法案に賛成する人たちは、「法案によって平和が保たれる」「抑止力がなければ日本の独立が侵され、言論表現の自由もなくなる」というような言い方をします。

  「抑止力」によって平和が保たれるという考え方は、やはり武力行使を前提にしている。「最終的には殺すかもしれないぞ」という脅迫をちらつかせながら外交交渉をしたとしても、それはお互いを信頼しあった上での意見交換にはなりにくいし、いい解決策も出にくいのではないか。やっぱり、武力という生命否定は、 相手を自分と同じ人間とみて、理性と知性に働きかけて対話しようとする精神を真っ向から否定するもの、言論表現の究極的な否定であるという言い方は成り立つんじゃないかな。
 でも、言論表現と武力の対立をもっと鮮やかに証明するためには、そもそも「言論表現行為というのは、いったい何を求めてするものなのか」という芸術論的なアプローチが必要なのかもしれない。まだ勉強不足でうまく言えないけど。


── ジャーナリズム的な言論表現の捉え方とはちょっと違うということですか?

  ジャーナリズムもそうだけど、そもそもすべての言論表現というのは、相手に伝達することによって相手に影響を与えることを目的にしている。知らない情報を共有することによって相手からもフィードバックがある、一方通行ではない双方向を考えてる。つまり、相手から返ってくることにより、こっちがまた新たな情報や発想を得て相手に返す。そういうことを繰り返しながら、私たちは「真理」の発見を求め合っているのではないか。言論表現というのは、お互いの知恵を交換しながら、真理に近づこうとする行為なのではないか。人間は常に真理を求めていて、それを投げかけ、受け取るという双方向の循環の中で新たな知に目覚めていく。言い換えれば、人間は生命を維持するために、真理を求める必要がある。生命維持のための、双方向の知恵の出し合いを永久に遮断するのが武力行使。そんな方向で考えを深めながら、ゆくゆくは現行憲法を引き合いに出さなくても、劇作家として武力行使に反対できないだろうかと私は思うんですけど、どうでしょう?


2015年8月31日 
(聞き手・構成 勢藤典彦)

言論表現の自由のよって立つところ

二十一世紀戯曲文庫