Japan Playwrights Association’s New Playwright’s Award
第28回劇作家協会新人戯曲賞 選評
第28回劇作家協会新人戯曲賞 選評
佳作
仁科久美『わたしのそばの、ゆれる木馬』
[主催] 一般社団法人 日本劇作家協会
[後援] 公益財団法人 一ツ橋綜合財団
[協賛] 小学館、北九州市芸術文化振興財団
仁科久美『わたしのそばの、ゆれる木馬』
[主催] 一般社団法人 日本劇作家協会
[後援] 公益財団法人 一ツ橋綜合財団
[協賛] 小学館、北九州市芸術文化振興財団

<上・審査会の模様>
左上から:中屋敷法仁、川村毅、渡辺えり、関根信一(司会)、
鹿目由紀、瀬戸山美咲、平田オリザ
最終候補作
『犬のペスト』くるみざわしん (大阪府)
『妄膜/剥離』川津羊太郎 (熊本県)
『ガンダーラ、愛の国』田中浩之 (京都府)
『僕らの城』八木橋努 (東京都)
『わたしのそばの、ゆれる木馬』仁科久美 (広島県)
** くるみざわしん氏から、最終審査を拒否するとのお申し出があり、『犬のペスト』以外の4作を対象に最終審査を行いました
最終審査員
鹿目由紀 川村 毅 瀬戸山美咲 中屋敷法仁 平田オリザ 渡辺えり
司会:関根信一
最終候補作5作品全文掲載の「優秀新人戯曲集2023」(ブロンズ新社刊/2,300円+税)
Amazon、楽天ブックス、紀伊國屋書店Web、TSUTAYA、ほか各種書店で取扱あり
*第28回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら
『犬のペスト』くるみざわしん (大阪府)
『妄膜/剥離』川津羊太郎 (熊本県)
『ガンダーラ、愛の国』田中浩之 (京都府)
『僕らの城』八木橋努 (東京都)
『わたしのそばの、ゆれる木馬』仁科久美 (広島県)
** くるみざわしん氏から、最終審査を拒否するとのお申し出があり、『犬のペスト』以外の4作を対象に最終審査を行いました
最終審査員
鹿目由紀 川村 毅 瀬戸山美咲 中屋敷法仁 平田オリザ 渡辺えり
司会:関根信一
最終候補作5作品全文掲載の「優秀新人戯曲集2023」(ブロンズ新社刊/2,300円+税)
Amazon、楽天ブックス、紀伊國屋書店Web、TSUTAYA、ほか各種書店で取扱あり
*第28回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら
選評
鹿目由紀
このたび、初めて劇作家協会新人戯曲賞の最終審査を担当いたしました。これまで一次審査、二次審査には関わったことがありましたし、また自分自身もこの賞の審査される側だったことがあります。
審査すること、されることの重みをそれぞれ受け止めながら、今回の審査に臨みました。
全体として感じたのは、戯曲には作家の価値観がどんな形であれ表れるものだし、その価値観は、日々さまざまなものから影響をもらいながら、磨かれながら、同時に刷新されていく「時代の捉え方」とのバランスで成り立っていくものなのだろう、ということです。
今回の候補作には、紋切り型の人物造形が多いと感じました。たとえば作品の芯の部分に、ご自身が本当に描きたいものがあるとしても、ステレオタイプな関係や会話や行動の扱いがまず入ってくると、「なぜ?」「どうして?」という疑問が湧いて芯までたどり着けない、ということが今回の作品たちには幾度かありました。そしてその関係、会話、行動は、男性・女性の捉え方、人間関係の捉え方の浅さから生まれてしまっていると感じられました。もし偏った人間を描くとしても、捉え方を知って描くのと知らないで描くのでは、だいぶ話が変わってくると思います。
自分も陥ることがあったりするかもしれないと思いましたので、気を引き締めながら読みました。
『妄膜/剥離』は、他の方からのご指摘にもあったように、岡田利規さんの影響を大きく感じる作品でした。その意味では既存の優れた岡田作品とはっきり比べてしまう形になり残念でした。ですが、言葉の選択の端々に好感を持ちました。本来の視覚→視力を越えた視覚、自分の内面を見つめていく作品になっていて、最終的に小さくまとまってしまったのが勿体なかったですが、眼科に行くとき思わずスーツを着てしまう器の小ささや、物語の小ささが、逆に潔くて、岡田作品の手法を取らずにこの物語を紡いだ場合、もっと面白いものになるように感じました。
『ガンダーラ、愛の国』は、大麻草を露出過多の女性で擬人化すること、それ自体がまずいというより、それをあくまでその姿形の擬人化としてのみでなく「消費」してしまったように思えたのが気になりました。最終的には大麻草たちに手のひらで踊らされていた、となるのですが、それ以上発展することもなく、ただ使われたという印象でした。また男たちや消防団員たちの女性の見方が意図的なものなら、それが後半の大麻草に操られていた、でひっくり返されるためであるなら、あまり上手く作用していないと感じました。「 “死者が恨んで自分が恨まれている”と思いたいのは生きている人間のほうなのかもな、そう思うことで救われる」という台詞は良くて、印象に残りました。
『僕らの城』、始まりは面白かったです。出てくる人たちが皆ちょっとずつ嫌なヤツで、お、ここからどうぶつかっていくのだろうと興味を持ちました。けれどかなり早い段階で、ほとんどが紋切り型の関係になってしまったのが残念でした。イヤミスのような嫌な部分を抱えた者たちの集まりかと思えば、割合ストレートに言葉の拳で殴り合う感じになり、ひねりが無くなったというか、人物造形が浅くなってしまった気がしました。また、三段分割形式の台本が活かされていると思えませんでした。あの形式だともっともっと複雑に絡み合っていくのを期待しましたが、一段でも十分理解できる流れだったかと思います。坂本が関西弁になり調子に乗ってくる感じなどは変化があり面白かったのですが、活かしきれず終わってしまったな、という印象でした。
『わたしのそばの、ゆれる木馬』は、女性の【揺れる】生き様や実際の身体の変遷を「木馬」で具現化したのが面白かったです。ばあやというよりは木馬に惹かれました。各時代の流行を表しながら進むのも悪くなかったですし、丁寧にひとつひとつ描いている印象を受けました。ただし、そこからもうひとつ発展して欲しかったです。花子と幸子は対象的に描かれていましたが、そこからもう一歩進んで、幸子がもっと現代と繋がる人間に変化していっても良かったように思いました。というのも、登場人物の在り方が全体的に刷新されていかない印象だったからです。特に男性の登場人物に関して似たような立ち位置になってしまっていました。時代が進んでいく昭和平成史のようなところのある話なので、余計に旧時代的ステレオタイプな人物たちが関わることで終わってしまっているのが勿体ない気がしました。また、周りの変化があったほうが花子の死についても対比が感じられて、良かったのではないかと思います。時を経ても、変化するところとしないところが存在するということが如実に分かったほうが、それでもやっぱり死んでしまったという事実を受け止められそうな気がしました。けれど全体的に丁寧に紡いでいることに好感を持ちました。それで総合的な評価として、この作品を最も推しました。
川村 毅
冗談でも皮肉でもなく、審査を引き受けると、今回はどのような新しい世界、文体、いかような不思議な、あるいは奇天烈な世界、文体を発見できるだろうかとわくわくする。「あったあった」とうれしい時もあり、最後の候補作のページを閉じてがっかりする回もある。
『妄膜/剥離』は、いくらなんでも岡田利規氏の影響が強すぎやしないか。まず語りのテイスト、文体がデビュー時の岡田節である。さらに読み進めると、語り手の主体の意図的逸脱、混乱があり、これもまた岡田得意の岡田調ではあるまいか。次に幽霊まで登場するが、幽霊は最近の岡田キーワードではないだろうか。
先行世代の影響が認められるから、良くないと一刀両断にする気はさらさらないが、この作品の露骨な影響の発露は戦略がなさすぎで、単なる模倣としてしか読めない。
戦略とは、先行世代のやり口を利用して、最終的にはちゃっかり自家薬籠中の物としてしまう、狡猾さに満ちたリスペクトの方法だ。無論、これは一例に過ぎない。
この戯曲には、岡田節特有の、読み切った後にじわじわ立ち現れる独自の形而上学の影も形もない。岡田節形而上学までを模倣せよと言っているのではない、岡田調をここまで恥ずかしげもなく披露しながら、まるでこの作家本人の世界観の影が薄く、後半、完璧な男性目線によるセックス描写の印象ばかりが強く刻まれ、この戯曲の肝は、そこにあると読んだ自分は、気取った知的ぶったタイトルとは裏腹に、要するに性的欲求不満の一男性のポートレイトに過ぎないのではないかとまで思い至らざるを得なかった。その肖像の彼が面白い人間であるのならば文句はないが、この彼はあまりに幼稚だ。
『ガンダーラ、愛の国』はまず長すぎる。コメディを志向していると思われるが、台詞に笑いのリズムがなく、しかもやたら長い説明台詞があるので、テンポが出ない。演出された舞台を見れば、笑える方には笑えるのだろうが、このダラダラと長い変形コメディに、80年代小劇場の周辺で見たという既視感が生まれる。うんざりするような長い時間、小屋に座っていたという記憶が蘇る。しかもけっこう周りはへらへら笑っているのだが、自分はくすりとも笑えない。おかしくないからだ。
最終的にこの戯曲には何も書かれていない。そう言えば、何も書かれていないことを書くのもまた、80年代には多く見られたと記憶する。
『僕らの城』の舞台の老舗居酒屋のモデルとなっている実在の店舗は明白である。あたかも作者はそこでアルバイトでもしていたのではないかと思わせるリアルさを基礎にした筆致から、もらった戯曲の表紙に書かれた、タイトルの上の“俺は見た 第五回”という表題に、なるほどバイトの実体験をもとに、作者はこうした現実体験を「俺は見た」シリーズとして五回まで書いたのであろうと合点していたら、審査会で“ 俺は見た”は劇団の名前だと指摘された。
それにしても、見てきたような筆致で、モデルとした居酒屋への悪意がどこか感じ取れる。登場人物への愛がまるでないからだ。誰もかれも見事なまでに類型である。しかも、店舗は最後に中国人オーナーの手に渡り、取り壊される未来が示唆される。
これを読んだ店舗の関係者、特に従業員、そして店を愛する常連客がいかに困惑するか、作者は考慮に入れていたのだろうか。それとも確信犯なのか。
なぜ三段組で書かなければならないのかという、その必然性を問う気力も失せてくる。
ここには、新宿界隈で働いている演劇人、映画人なんてもんは、こんなもんだろうといった、悪意の類型でいっぱいだからだ。
『わたしのそばの、ゆれる木馬』は、面白いと思いつつ読み進んだ。現在50代半ばの女性を主人公にした戯曲をあまり目にしたことがない。単純に、その世代のたまりにたまった鬱憤が発散されていて、しかもその発散は、ある種現代史と並行する書き方という作為の意識によって独りよがりを免れている。この書き進め方は決して新しいものではなく、いうなれば使い古しの方法なのだが、あまり書かれていない世代を登場人物にしたために有効となっており、時代をいっちょう俯瞰してやろうじゃないのという、最近の新人では滅多に見られなくなった大風呂敷の志がいい。
しかし、最後に主人公を死なせてしまうというのは、どうしたものだろう。審査会で指摘すると、これが現実なのですという趣旨で反論されたが、現実に寄り添えばいいというものでもない。今や、どんな現代人を書こうとも現実に寄り添えば悲惨になる。それが現在の類型というものだ。
このラストは作者が汗をかいていない。もっと想像力を駆使した終わらせ方をしていただきたい。
そういうわけで、全面的に『わたしのそばの、ゆれる木馬』を推したわけではない。受賞作として推すまでには至らない。しかし、四作品のなかにおいては、一番、「書きたいこと」と文体と方法が素直に合致しているところが、いいと思った。受賞作ではなく、佳作とするという案に賛同した。
瀬戸山美咲
今回の最終候補作品はジェンダー描写において疑問の残るものが多かった。社会を覆う価値観と自分自身の価値観をもっと疑ったほうがよい。そして、創作物が世の中に及ぼす影響力について意識的であってほしいと感じた。
『妄膜/剥離』はモノローグ主体の作品だ。まず、その語り口が既存の作家のものと似過ぎていると思った。その作家の作品を観たことがある人なら、おそらく誰でも気がつくレベルだ。影響を受けるのはよいと思うが、同じようなモノローグ主体の作品を書くならば、自分の文体を見つける必要がある。内容的には、性欲を抑えられない男と、人を救いたいがゆえに男とセックスする女が歪んだ形で依存し合う物語で、およそ社会では理解されないふたりの関係自体は興味深かった。ある意味、ふたりとも等しく不快な存在であり、ぎりぎり均衡は取れていた。しかし、終盤、男にレイプされた女が故郷に戻る描写以降、女のエピソードが登場しなくなってしまう。女は結局、物語上の装置で、しかも加害されて終わってしまうことに落胆した。故郷に戻ったあとの彼女のことまで想像してほしかった。
『ガンダーラ、愛の国』は、男2が幽霊であり、最終的にはその死の真相がわかってくるという構成は面白かった。消防団たちのサブストーリーも先を読ませる力があった。ただ、女4人が担う「風俗嬢」「大麻草」の役が集合体としての描写に留まり、生身の人間が演じるには演じどころがないと感じた。このようなアンサンブル的な役も必要な場合はある。ただ、それが一方のジェンダーだけに偏ると、ジェンダー規範の強化になる恐れがある。また、男に囚われていた大麻草が受粉して(妊娠して)自由になるという描写も、ほかに女性が自由を獲得する方法はないのかという疑問が生じた。
『僕らの城』は洋風居酒屋の経営者交代をめぐる話で、世代間の意識の違いや世代交代の難しさなど、現実を反映したものとして読めた。ただ、全体的に露悪的なだけで、それらの現実に対する批評性は感じられなかった。また、女性の描き方については、この作品がもっとも問題があった。途中で出てくる若者の集団を除くと、女性と思われる役は17人中3人のみ。そのうち2人は性的な関係を結んで男性に取り込まれていく役だ。残りのひとりは他の役に比べて職業などの描写がない。この3人の役名の表記がすべて下の名前であることも気になった。(男性は苗字の人、下の名前の人、フルネームの人などがいる)。以上から、無自覚な差別意識(差別はほとんど無自覚だが)を強く感じた。
『わたしのそばの、ゆれる木馬』は、1960年代後半に日本で生まれたある女性の一生を描きながら、女性が求められてきた社会規範などを浮き彫りにする作品だった。この作品も男性の描き方が類型的ではという意見もあった。しかし、それを持ってあまりある魅力がこの作品にはあった。この作品に出てくる「木馬に乗ったばあや」は女性ホルモンのエストロゲンである。はっきりと言及されていないので、最初は月経そのものかと思って読んでいたが、このばあやと主人公の距離はまさにホルモンと女性の距離であった。自分の体の一部でありながら、自分ではコントロールできない、味方にも敵にもなる存在。それを人間の姿で描き、可視化させるのは画期的だと思った。
また、この作品の魅力はこの50年強の日本の社会風俗を描いていることだと思う。「ノーパンしゃぶしゃぶ」など久しぶりに字面を見たが、そんなものが存在していて、ワイドショーに興味本位で取り上げられていた異常な世界で自分が育ったことを再認識した。作中に多く出てくる歌謡曲の歌詞からも女性たちが社会に何を求められてきたのかを汲み取ることができた。そういう表象を飲み込みながら、はねのけながら女性たちは生きてきたのだ。最後に彼女が命を落とすことについては、審査員の中でも意見が割れた。私は、彼女が死ぬという描写が痛烈な社会批判になっていると感じた。今も変わらない現実への異議申し立てだ。というわけで、『わたしのそばの、ゆれる木馬』を推した。ばあやの描き方や、男性の描き方などまだ改善できる点があるのでは、という他の審査員からの意見も踏まえ、佳作受賞がふさわしいと判断した。
今回は残念ながら作品の内容以前の、倫理的な部分で問題を抱えた作品が多かった。なぜ、そのような作品が最終候補に残ったのかということを改めて検証し、改善していきたい。私たち劇作家は現実に刺激を受け、作品を書く。しかし、書いた作品が現実にある差別を再生産してはいけない。フィクションを書くことの責任について、私自身ももっと慎重に考えていきたい。
中屋敷法仁
選考において最も重視したのは、俳優と観客、つまりは劇場空間へのたくらみです。さまざまに変化していく時代の中で、演劇の形式や俳優の身体もまた変化しています。それらの動きを敏感に察知し、次の時代へ向けた鋭い考察や、新たな挑戦が見られる作品を期待しました。最終選考で出会った戯曲からは、残念ながら、そのような息吹を感じることはできませんでした。いずれの作品も、戯曲上の文字や物語への興味に終始し、劇場空間に対する意識が弱い印象を受けました。戯曲に書かれた言葉が、生きている人間を集め、演劇となるための本質的な核が見つかりません。俳優として演じたい。観客として劇場で観たい。演出家としてこの戯曲を手がけたい。そんな欲求を阻害する要素が多すぎました。
『妄膜/剥離』は、好意的に読めば、劇中人物の感覚が軽妙なモノローグによりじわじわと観客に伝播していくスリリングさがあります。後半部分の性暴力に関わる描写に劇作家の覚悟を感じます。声に出して読んだ時、音として聞いた時、この部分が最も劇場空間で緊張を与えると予感します。それ故に、それまでの言葉、医療用語、ボクシング、労働などに関する台詞が淡白で、冗長に思えました。となると、この戯曲は男と女というありきたりな対比に帰結してしまいます。個人の感覚から飛躍する要素が欲しかったです。
『ガンダーラ、愛の国』は、好意的に読めば、性差別的な描写をあえて繰り返すことにより、愛や宗教への疑問を観客に突きつける衝撃作です。しかし、マリファナや幻覚という非現実的なモチーフを盾に、主題から逃げているように思えてなりません。作品がトリップするのではなく、観客をトリップさせるべきです(もちろん、ドラッグやアルコールではなく、演劇のマジックによって)。独創的なト書きや独白が多い反面、会話の妙味がほとんどないのも気になりました。それぞれの人物の背景やそこに存在する理由が定義できていないからだと思います。
『僕らの城』は、好意的に読めば、人物を表層的に描くことで、新宿という街の中に流れる孤独やディスコミュニケーションを表現しているのでしょう。ただ、人物描写があまりにも軽薄です。登場人物をこのように「見せたい」という作為ありきで書いているためか、人物同士の対話による緊迫感がいつまでも生まれません。また舞台の構造を三場面の同時進行という形式にしていますが、効果的とは思えませんでした。
『わたしのそばの、ゆれる木馬』は、好意的に読めば、日本で生まれ育った女性たちに巻き起こるさまざまなライフイベントを余すところなく網羅している大作です。「日本花子」という主人公の名前に野心を感じました。ただ、さまざま事象を描く中で、女性だけでなく、男性もステレオタイプな存在となり、結果としてはよくある話の羅列になってしまっています。主人公のそばに存在し続ける「ばあや」のみが特異性を放っていますが、木馬に乗るおばあさんというキャラクターや隠喩が、戯曲全体で扱われている諸問題を引き受けられるほど万能とは思えませんでした。ファンタジーのような登場人物の要素を利用し、現実の問題が肉感的に迫る瞬間が欲しかったです。
どの作品も、俳優、観客、劇場といった演劇的行為に関わる肝心の部分が描かれていないように思いました。物語や台詞の形にこだわるあまり、演劇の形式や演技プラン、そして何より、観客という一人一人の人間への興味が薄く感じます。それは、稽古を進め、劇場で上演する中で、解決していくこともできるでしょう。しかし、優れた戯曲は戯曲内でその解決法を示し、読み手、作り手の想像力を自由に羽ばたかせてくれます。今回出会った戯曲は、書き手の意図が色濃く出るあまり、劇場空間でどのように立ち上げるべきか、戸惑うものばかりでした。
平田オリザ
劇作家協会新人戯曲賞は、劇作家による劇作家のための劇作家の賞という主旨から「該当作なし」は出さないという不文律があった。今回、初めてその禁が破られたことは審査員一同にとってもきわめて厳しい決断だった。
全体の印象としては、Wikipedia をそのまま貼り付けたような作品が多いように感じた。これは今回に限ったことではなく、最近の様々な戯曲賞の審査や、若い劇作家たちの作品を読むたびに感じる印象でもある。資料収集は大事なことで、インターネットの発達によってそれが飛躍的に便利になったことは素直に喜ばしいことだと思う。私はその便利さを否定しないけれども、落とし穴も大きい。
本来、戯曲を書く際にどれくらい取材するか、資料を集めるかは諸刃の剣で、資料に振り回されすぎると身体性が欠如したせりふになる。ネットの急速な発達によって、いまそのバランスが、各自まだとれていない状態にあるのかもしれない。
八木橋さんの『僕らの城』は構成がしっかりしており、読み応えのある戯曲だった。一つの組織が壊れていくときの殺伐とした人間関係や薄気味悪い雰囲気の描写も強く目を引いた。
ただ残念なことに、主要な役割である麗奈の描き方に代表されるように、一人ひとりの人物造型がステレオタイプなことは否めない。曖昧であったり、揺れ動いたり、戸惑ったりする人物が少なく、演劇ならではの醍醐味に欠ける。筆力のある方なので次回以降にも期待したい。
川津羊太郎さんの『妄膜/剥離』も力強い作品だった。しかしながら、主体-客体が微妙にずれていく特徴的な長せりふが、あまり効果を生み出していない。登場人物が二人だけなので、結局、主体-客体が入れ替わるだけで、この手法の魅力を生かすまでにはいたっていないように感じた。
田中浩之さんの『ガンダーラ、愛の国』は、要所要所に入る蘊蓄が、逆に全体の勢いをそいでしまっている。蘊蓄が悪いというわけではなく、登場人物一人ひとりの持っている(想定されている)知的レベルと発言が大きく乖離し、その乖離が物語全体に有効に働いているわけでもない。そのために身体性の薄いせりふが物語を中断してしまう感覚が強い。後半、短いせりふの応酬の部分はとても魅力的なので、もったいない印象が強く残った。蘊蓄に逃げずに、粘り強く、言葉をつむいでほしかった。
仁科久美さんの『わたしのそばの、ゆれる木馬』は、戯曲としては多くの欠点があるが、全審査員にとって候補作の中ではもっとも好感の持てる書きぶりが評価された。
高度経済成長期に生まれた日本の典型的な一女性の生涯を女性ホルモン「エストロゲン」の分泌を縦軸にして描く。しかしそれは、過不足なくというよりも、あまりに均等に描かれるために深みを欠いている点は否めない。
時間に制限のある戯曲という表現は、何を書くかと同時に何を書かないかがきわめて重要だ。その取捨選択こそが執筆の要諦とさえ言える。場面の想像しやすい魅力的な筆致と、構成の稚拙さのアンバランスは読み手を不安にさせる。経験を積めば、すぐに解決される部分も多く感じるので、ぜひ創作を続けていただきたい。
渡辺えり
今まで40年近く戯曲賞の審査をやってきて今回ほど残念なことはない。
最終候補に残っていたくるみざわさんが直前に審査を拒否なさったこと。そして応募した劇作家たちによって審査員の一人に選ばれたはずの坂手洋二さんがこれまた直前に選考を辞退したこと。
そして、これが一番残念なのだが、私が二次審査で11本の戯曲を読み、一番面白いと思った山田めいさんの『本当に困りません、って僕が言われてきたとしたら、それは、はかりかねます』という作品が最終候補作に残っていなかったことである。私はこの作品を他の選考員がどう評価して考えをのべてくれるのかとても楽しみにしていた。自分で伝える言葉も考えていた。最終候補作として送られてきた作品には私が二次で読んだ作品は一編しかなく、二次で面白いと思った作品は一本も残っていなかった。
あんなに真剣に大量に読んだのに、こんなにがっかりしたことは近年には稀であると言ってよいほど落胆した。
まず今の戦争中の世の中に対して劇作家として何か伝えたいと願う心の状態を感じた作品は、最終候補の中ではくるみざわさんの作品だけであった。劇作家は昔から世界の状況の中で異変を察知するカナリヤ的存在であったはずである。それが生の芸術の緊張感と面白さでもあるはずである。ある権威に対しての反逆でもあるべきものだとも思う。その今の記録と創作が重なり合って普遍的な作品として残っていくものと考えていた。根底に社会に対する問題意識のない作品は戯曲とは言えないのではないか?
少数の者が観る、感じる演劇と万人の観るテレビドラマでの問題意識と手法の違いはここにあると思って今まで生きて来た。それが今回で覆されてしまったようで、多大なショックを受けたのである。
時代や年代が違うからといった問題ではない気がしている。
『本当に困りません、って僕が言われてきたとしたら、それは、はかりかねます』という作品は、発達障害を持った登場人物たちがかみ合わない会話をしているうちに、自分たちが規制された社会の中で個性をむしり取られながら一生を終えていくといった理不尽さと矛盾さを感じていくミステリーとも言える風刺の効いた作品だった。映画『シャイニング』を思わせる空回りした社会の狂気が浮き彫りなっていた。障害者の立場から書くその視線が新しいと感じた作品だった。
くるみざわさんは選考を拒絶なさったのでここで取り上げるのは良くないと、司会の方や他の審査員の方にも注意されたが、私はそうは思わない。拒絶する自由があるのと同時に、私にも選考する自由がある。劇作家協会新人戯曲賞の審査員は作品を応募してきた劇作家たちの投票によってきめられている。私にも選ばれたという責任がある。選考は忙しい中時間をかけて読み、同業者を評価しなければならないという死ぬ気の作業である。演劇が好きで、新しい作品を生み出そうとしている新人たちを心の底から応援したい、演劇の未来を支えたいと望む者にしかできない作業である。一度応募してきた作品を間際に審査拒否と言われても、こちらも読んだ以上、心に思うものが生まれ、意見が生まれる。それを言うなという方がひとつの圧力ではないのか? こういうことが自由な言論表現の場であるはずの劇作家協会で起こってしまうということの方に、私は大いなるショックを覚える。
この場の正義とはなんなのだろう? 何が正義なのだろう?
ウクライナ、ミャンマー、パレスチナと問題の絶えない現代社会の中で、こんな不自由で規制の強いコロナ禍の状態での不自由。不寛容。
演劇はもっと面白いものではなかったのか?
『ガンダーラ、愛の国』。シュールな展開をしたい場合に、大麻や覚せい剤といった幻覚を起こしてしまう麻薬に頼った展開は安易すぎる。今まで劇作家たちは避けて通ってきたストーリー展開である。麻薬を使えば何でもありになってしまうからである。いくら笑える台詞を書いたとしても最初から幻覚であるという言い訳が入っていると白けてしまう。そして、女性の役も全員男性が演じるという「お笑い」的な演出なのかもしれないが、女性の役があまりに人間味がなく性的対象としてしか描がかれていないのがなんとも残念である。
『妄膜/剥離』は手法が現存する何人かの劇作家に似すぎている感があり、オリジナルな構成を考えたほうが良いと感じた。最初から全体を説明する要素の濃い情報が持ち出されるので、役者の会話や存在が逆に薄くなる印象を受けてしまった。
『僕らの城』は、この作家が演劇を志そうとする根本の視点を知りたいと思った。ご自分がどこにいてどの視点から書こうとしているのか? あまりにステレオタイプのかつて誰かが体験したことの表面的なことを書いている気がしてしまう。もっと自分のことを書いて良いのではないだろうか? そして女性の役の存在をもっと生きた人間として表現していただきたいと思った。
『わたしのそばの、ゆれる木馬』は女性の今も続く悲痛な問題に取り組むという応援したい内容だが、男性の役に面白みがなく存在感が弱い。全体的にもっと個性的でオリジナリティーのある面白い表現があっても良いのではないか?と思う。命を切り刻むような登場人物を描く場合、作家自身の命も切り刻むような追求が必要なのかもしれない。
ここまで書いてきて、今回の最終選考作品を論じる時にこんなにむきになって真剣に、せっかく書いて応募してくれた劇作家たちを傷付け、嫌な思いをさせてしまうような選評を書いて良いのか?とどんどん落ち込んでしまった。
こういう時代だからこそ生の演劇は重要だと身をもって感じるし、劇作家の仕事の大切さを思う。とにかく皆様お疲れさまでした。