Japan Playwrights Association’s New Playwright’s Award
第27回劇作家協会新人戯曲賞 選考経過と選評
第27回劇作家協会新人戯曲賞 選考経過と選評
受賞作
髙山さなえ『あなたがわたしを忘れた頃に』
[主催] 一般社団法人 日本劇作家協会
[後援] 公益財団法人 一ツ橋綜合財団
[協賛] (株)ジャストシステム、小学館、北九州市芸術文化振興財団
髙山さなえ『あなたがわたしを忘れた頃に』
[主催] 一般社団法人 日本劇作家協会
[後援] 公益財団法人 一ツ橋綜合財団
[協賛] (株)ジャストシステム、小学館、北九州市芸術文化振興財団

<上・審査会の模様>
左上から:関根信一(司会) 川村 毅、渡辺えり、佃典彦
赤澤ムック、坂手洋二、瀬戸山美咲、横山拓也


<会長・渡辺えりの挨拶/受賞者・髙山さなえ>

<上・最終候補作の作者>
上段中:鈴木アツト、上段右:ナガイヒデミ
下段左から:深谷晃成、近藤輝一
『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』 鈴木アツト (東京都)
『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』 深谷晃成 (東京都)
『天と地のまなか』 上岡久美子 (広島県)
『あなたがわたしを忘れた頃に』 髙山さなえ (長野県)
『荒野 Heath』 ナガイヒデミ (京都府)
『ナイト・クラブ』 近藤輝一 (大阪府)
** 上岡久美子氏は、『天と地のまなか』公演千秋楽当日だったため授賞式への参加が叶わず、上掲載の写真に入っていません。
最終審査員
赤澤ムック 川村 毅 坂手洋二 瀬戸山美咲 佃 典彦 横山拓也 渡辺えり
司会:関根信一
最終候補作全文掲載の「優秀新人戯曲集2022」
Amazon、楽天ブックス、紀伊國屋書店Web、TSUTAYA、ほか各種書店で取扱あり
*第27回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら
選考経過 関根信一
座・高円寺2の舞台上に審査員が集まっての無観客開催となった。まず一作品について二名の審査員がコメントした。
『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』。川村氏「ていねいに描かれているが、想像によって描かれた部分が弱い。もう一つ仕掛けがあってもよかった。」渡辺氏は「志の高い作品として心にひびいたが、一人の人物に絞り込んだ方がよかった。」
『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』について。佃氏は「今の若い人の距離感がよく描かれている。」赤澤氏は「せりふがうまい。唯一人間ではない海獣の描き方がよかった。」
『天と地のまなか』について。坂手氏は「最適な形式だったか疑問。原民喜を描いた意義は大きい。」瀬戸山氏「心に届くものがあった。原民喜の文章以上のものがもっとあってほしかった。」
『あなたがわたしを忘れた頃に』について。横山氏は「おもしろい感覚が満載。オムニバスの構成として前の場面を超えていく勢いがもっとあるといい。」川村氏は「ジェンダーについて描こうとしたのか、スラップスティックをねらっているのか。楽しく読めたが、笑いがあざとく感じられた。」
『荒野 Heath』について。渡辺氏は「認知症の問題を『リア王』とからめてよく描いているが、リアのせりふを引用したことできびしく読まざるをえなくなった。」佃氏は「父親のどうしようもなさに圧倒された。」
『ナイト・クラブ』について。赤澤氏は「登場人物それぞれの物語を一つずつ見たいと思った。アフターコロナの演劇として提示しているようにも感じられた。」
引き続き1作品ずつのフリートークとなった。
『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』。渡辺氏は「ケストナーの言葉か作者の言葉かが知りたい。」瀬戸山は「タイトルのわりに、ケストナーが描かれていないのではないか。」
『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』。川村氏「タイトルの期待感が大きかったが、けっこうナイーブだった。イヤなヤツの物語としてつきつめてほしかった。」
『天と地のまなか』。横山氏「民喜のノートを朗読者が読み上げていくシーン。都合のいい展開になっていないだろうか。」
『あなたがわたしを忘れた頃に』。渡辺氏「すごくおもしろく読んだ。」瀬戸山氏「母性というものにしばられていると感じた。それも乗り越えてほしかった。」
『荒野 Heath』。川村氏「介護される側の心理が『リア王』と『山月記』になってしまっているのが弱い。」横山氏「現代のこわさがうまく書かれている。引用のしかたに問題があるが胸にせまる」
『ナイト・クラブ』。渡辺氏「なつかしい雰囲気の芝居。」川村氏「80年代小劇場を思い出した。」
意見が出そろったところで、1回目の投票を行った。
『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』川村氏、坂手氏の2票。『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』佃氏の1票。『天と地のまなか』投票者なし。『あなたがわたしを忘れた頃に』川村氏、渡辺氏、赤澤氏、坂手氏の4票。『荒野 Heath』佃氏、赤澤氏、瀬戸山氏、横山氏の4票。『ナイト・クラブ』渡辺氏、瀬戸山氏、横山氏の3票となった。
休憩後、上位3作にしぼりこんで審査を再開した。
『ナイト・クラブ』について。横山氏「導入してすぐ世界に引き込む力がある。」
『あなたがわたしを忘れた頃に』について、佃氏の「一人称の小説とどう違うのか? 誰に向かう言葉か?」という問いに対して、坂手氏「戯曲だと思う。語る必然性を感じる。」渡辺氏「客席の遠くにいる神のようなものに向かっている。」
『荒野 Heath』について。赤澤氏は「執念をかんじるが、『リア王』と『山月記』にいったのは惜しい。」と評した。
『あなたがわたしを忘れた頃に』『荒野 Heath』『ナイト・クラブ』の3作にしぼって2回目の投票を行った。結果は、『あなたがわたしを忘れた頃に』川村氏、渡辺氏、佃氏、赤澤氏、坂手氏の5票。『荒野 Heath』横山氏の1票。『ナイト・クラブ』瀬戸山氏の1票となり、髙山さなえ氏の『あなたがわたしを忘れた頃に』を受賞作とするということに決定した。
評伝劇とオムニバスがそれぞれ二作ということで、引用のしかたについて、作者のオリジナリティについて、作品の構成上の問題についての議論が多く交わされた審査会だった。

<投票結果> 赤丸が1回目、青丸が2回目
投票の挙手
座・高円寺2の舞台上に審査員が集まっての無観客開催となった。まず一作品について二名の審査員がコメントした。
『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』。川村氏「ていねいに描かれているが、想像によって描かれた部分が弱い。もう一つ仕掛けがあってもよかった。」渡辺氏は「志の高い作品として心にひびいたが、一人の人物に絞り込んだ方がよかった。」
『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』について。佃氏は「今の若い人の距離感がよく描かれている。」赤澤氏は「せりふがうまい。唯一人間ではない海獣の描き方がよかった。」
『天と地のまなか』について。坂手氏は「最適な形式だったか疑問。原民喜を描いた意義は大きい。」瀬戸山氏「心に届くものがあった。原民喜の文章以上のものがもっとあってほしかった。」
『あなたがわたしを忘れた頃に』について。横山氏は「おもしろい感覚が満載。オムニバスの構成として前の場面を超えていく勢いがもっとあるといい。」川村氏は「ジェンダーについて描こうとしたのか、スラップスティックをねらっているのか。楽しく読めたが、笑いがあざとく感じられた。」
『荒野 Heath』について。渡辺氏は「認知症の問題を『リア王』とからめてよく描いているが、リアのせりふを引用したことできびしく読まざるをえなくなった。」佃氏は「父親のどうしようもなさに圧倒された。」
『ナイト・クラブ』について。赤澤氏は「登場人物それぞれの物語を一つずつ見たいと思った。アフターコロナの演劇として提示しているようにも感じられた。」
引き続き1作品ずつのフリートークとなった。
『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』。渡辺氏は「ケストナーの言葉か作者の言葉かが知りたい。」瀬戸山は「タイトルのわりに、ケストナーが描かれていないのではないか。」
『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』。川村氏「タイトルの期待感が大きかったが、けっこうナイーブだった。イヤなヤツの物語としてつきつめてほしかった。」
『天と地のまなか』。横山氏「民喜のノートを朗読者が読み上げていくシーン。都合のいい展開になっていないだろうか。」
『あなたがわたしを忘れた頃に』。渡辺氏「すごくおもしろく読んだ。」瀬戸山氏「母性というものにしばられていると感じた。それも乗り越えてほしかった。」
『荒野 Heath』。川村氏「介護される側の心理が『リア王』と『山月記』になってしまっているのが弱い。」横山氏「現代のこわさがうまく書かれている。引用のしかたに問題があるが胸にせまる」
『ナイト・クラブ』。渡辺氏「なつかしい雰囲気の芝居。」川村氏「80年代小劇場を思い出した。」
意見が出そろったところで、1回目の投票を行った。
『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』川村氏、坂手氏の2票。『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』佃氏の1票。『天と地のまなか』投票者なし。『あなたがわたしを忘れた頃に』川村氏、渡辺氏、赤澤氏、坂手氏の4票。『荒野 Heath』佃氏、赤澤氏、瀬戸山氏、横山氏の4票。『ナイト・クラブ』渡辺氏、瀬戸山氏、横山氏の3票となった。
休憩後、上位3作にしぼりこんで審査を再開した。
『ナイト・クラブ』について。横山氏「導入してすぐ世界に引き込む力がある。」
『あなたがわたしを忘れた頃に』について、佃氏の「一人称の小説とどう違うのか? 誰に向かう言葉か?」という問いに対して、坂手氏「戯曲だと思う。語る必然性を感じる。」渡辺氏「客席の遠くにいる神のようなものに向かっている。」
『荒野 Heath』について。赤澤氏は「執念をかんじるが、『リア王』と『山月記』にいったのは惜しい。」と評した。
『あなたがわたしを忘れた頃に』『荒野 Heath』『ナイト・クラブ』の3作にしぼって2回目の投票を行った。結果は、『あなたがわたしを忘れた頃に』川村氏、渡辺氏、佃氏、赤澤氏、坂手氏の5票。『荒野 Heath』横山氏の1票。『ナイト・クラブ』瀬戸山氏の1票となり、髙山さなえ氏の『あなたがわたしを忘れた頃に』を受賞作とするということに決定した。
評伝劇とオムニバスがそれぞれ二作ということで、引用のしかたについて、作者のオリジナリティについて、作品の構成上の問題についての議論が多く交わされた審査会だった。

<投票結果> 赤丸が1回目、青丸が2回目

選評
赤澤ムック
戯曲には、その時の、その作家にしか書けないものが宿ることがある。今回の最終候補作にもその輝きが見られた。がしかし作家がそれを自覚し、掘り下げ尽くしたものはなかったように思う。
『エーリヒ・ケストナー ~消された名前〜』
誠実に紡がれた物語への興味が途切れることはないが、語りだけで説明される描かれていない場面にこそ興味がわいた。それは怒涛の変化を続けざるをえない登場人物たちの変化の瞬間だ。特に、3年間なにも書けなかったケストナーが筆をとり夢中で書いてしまったその瞬間、私はそれが見たいと思う。レニを筆頭に周囲の人物たちは強烈なドラマを備えている。それが(同じく強烈なドラマを持つはずの)ケストナーを霞ませる理由となってしまうのは勿体ない。彼のラストの台詞が彼そのものを現すのならば、なおさらに。
『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』
店の中で集まった(にも関わらず浮き彫りになる)面々の無力感、虚しさ。なかでもイルカの置かれた孤独にぐっときた。この作者ならば、他の登場人物にももっと背景を想像させる力を与えられるように思う。時に露悪的に時に淡々と、様々な差別や偏見が存在し、寛容であり無自覚な日本人を浮き彫りにさせているが、これらの差別への作家の理解は果たして同等なのか。深度の差があるように感じ引っかかる。
『天と地のまなか』
原民喜を読んだのは中学生の頃だったか。改めて、彼の筆の力を思い知る。(青空文庫にもあるので興味がわいた方は是非読んでみてほしい)彼の作品を広く知らしめるための舞台戯曲として完成されているのだが、これを劇作家の作品とするにはより強いアイディアが必要に思う。
『荒野 Heath』
読後しばらく他の作品を拒絶する鈍痛にみまわれた。リア王のごとき「父」は戯曲の中で肉体を持ち、娘二人にゴネリルとリーガンを重ねることで、かえって彼女たちの困難に説得力をもたせるのは巧い。リア王としてどう終わらせるのか期待したからこそ、ラストが腑に落ちない。なぜ『山月記』なのか。あるいは三つ以上の重なりならば気にならなかったかもしれない。
『ナイト・クラブ』
ショートドラマはそれぞれが美しい。それぞれ素敵な作品だった。では数字名の俳優が行きつく先はどこだったのか。タイトルさえも回収する大オチがあるのではと期待したからこそ、あっさりと無言で提示される現実(虚構)が歯がゆい。
と、今回の最終候補作はどれも読みながら期待が膨らむもの揃いだった。そして、その期待が(私個人の勝手なものではあるが)かえって読後の胸にひっかかる要因となった。受賞作には、それがなかったものを推させてもらった。
『あなたがわたしを忘れた頃に』
この作品は、軽やかに架空の世界へと私を誘ってくれた。書き手のセンスだけではなく、描かれていないところまで丁寧に設計し、世界を構築したのだろう。疑わず没入できる安心感がある。「出産後のへその穴は宇宙とつながっている」というワンアイディアだけでもわくわくする。自分が演出するならラストにこの三名が誰の視点でもなく、観客という第四の視点で眺められる時間を束の間設けたいななどと考えたりもした。地に足のついた厳しさと優しさがうまく混ざっている、心地のよい作品だった。
川村 毅 ── 審査会を終えて
公開審査会では語り切れなかったこと、補足説明などを書くのがこの選評の役割だと考える。話したことを繰り返すなら審査を公開している意味がない。
今回、6作品を読み終えての正直な思いは、「受賞作なし」だった。しかし一出版社の賞ならともかくも、これは協会という言わば互助会的性格を持つ組織が設けるものなので、そうはいかない。故に今回は審査会で他の委員の様々な意見を聞いて決めようと覚悟した。
一回目の投票で『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』と『あなたがわたしを忘れた頃に』を推した。審査会の筋道に乗っての消極的な推しである。
『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』は真摯な志を持った作品であることは理解するが、演劇であること・演劇を成すことへの意識が薄く、その薄さがそのまま対象への肉薄度の弱さを露呈させている。有体に言えば戯曲として芸がなさすぎる。薄手の評伝エッセイを読まされている気分だ。
高い志は、いい意味での手練手管を覚えないと、生真面目さばかりが上滑りする。
『あなたがわたしを忘れた頃に』は6作品のなかで一番筆力があると思った。文体を獲得しているということだ。だから受賞作とするのに異存はないものの、積極的に推す理由を私は持たない。その詳細は審査会で語ったので、ここで繰り返したくはない。
他の作品に対しても、公開で多くの批判を並べ立てたので、それをここで繰り返せば、作者たちはそれを今一度文章で読む羽目に陥らされるわけで気分が良くないだろう。審査員といってもたかだか一人間でしかないのであり、たかだかひとりの人間の言うことであるのだから、どうか安易な反省などせずに(しないか)、他人の批判などとっとと忘れて新作に取り掛かっていただきたい。
と言いつつも、すでに『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』の批判を書いている。気になるのだろう。作者には、ここは批判されたからといって審査員に恨みを抱いたりせず、自身の先を見て邁進していただきたい。批判は期待の裏返しでもあるのだから。
それにつけても、賞というのは、まことに時の運に左右されるもので、今回の受賞作が、力を感じさせるものが軒並み揃った去年の作品群のなかにあったとしたならば、などと意地の悪い想像をするのは、この際やめておこう。
今年はこれぐらいしか書くことがない。
坂手洋二 ── 候補作との出会いに感謝します
鈴木アツトさんの『エーリヒ・ケストナー〜消された名前〜』については、評伝劇ゆえの困難さとの格闘は避けられず、あれこれ言い出せば、きりがない。しかし、とにかく自分の興味に基づいてのびのび書いてみたいというこの「肯定性」の姿勢には、賛成である。どんなにネガティヴな世界を描いた作品でも、そうすることは可能だ。そして、全ての登場人物を作者が愛している様子だ。これは、井上ひさしさんもそうだが、その方向での作品づくりを選択した場合に備わる「仁義」のようなもの、がある。作者はその方法論を、自分流で発見しつつある。翻訳調のせりふも馴染んでいる。これから大きく踏み出す何かを、手に入れはじめているのだと思う。かつてこの賞の最終候補になった彼の『グローバル・ベイビー・ファクトリー』が厳しく批評されたのはもうずいぶん前だが、彼はそのことも糧にして、真っ直ぐに、おおらかに、駒を進めてきた。そして、本人も自覚しているはずだが、次作に向けて必要なのは、オリジナリティの強度だと思う。
深谷晃成さんの『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』については、いろいろと引っかかってしまう部分が多いが、それが「わざと」なのだということは、もちろんわかっている。エピソードや設定をステレオタイプに描いていることも、一人一人の人物が、割と似通った感じになっていることも確信犯だろう。残念なのは、「冗談」や「〜な感じの言葉」を戯曲で明確に示さず、現場任せにしていいのか、ということである。細かな「具体」を描くことを厭わず、その過程で発見できるものがあるということを、信じてもいいのではないかと思う。……イルカを想起させる登場人物が出てくるが、イルカ・クジラについては、クジラ関連戯曲を数多く書いてきた私はついつい点が辛くなるのだが、「疑似人間」という設定なら、もう少し丁寧に設定されていた方がいい。そちらもその過程で手に入れられる「具体」があると思うからだ。名前の付け方も含めて、面白みもあるけれど、直観的というほどには突き抜けていないので雑な感じがしてしまい、残念である。ゲーム的であることが、もっと大きなビジョンを示すためのバネになってほしいと思う。
上岡久美子さんの『天と地のまなか』は、時系列の組み方を恣意的に操作しすぎていて、観客はなかなか素直についていけないだろうし、演じる方だってたいへんだと思う。作劇じたいが、原民喜原本の引用に太刀打ちできていない。もっともっと考えてから書くべきだと思う。よりシンプルにできるのではないかという自問自答も、時に大切だ。言葉遊び的な部分も出てくるが、熟練が足りず、ありきたりに感じられて残念である。自分が戯曲を書いていること自体に新鮮さを感じている時期の作品としては、出し惜しみなく「自分にしか書けないこと」を選んでいくことが、作劇そのものを牽引してくれると、信じてほしい。
髙山さなえさんの『あなたがわたしを忘れた頃に』は、「上演順については上演者に任せる」という潔さが身上である。何に対して潔いかというと、この作品はあえて、「三つの夢」を並べている。夢には「所有格」はない。それを演劇に持ち込んでいる意図が明白だからである。演劇というジャンルじたいが、「これは誰某の作品」という段階を遥かに超えたものを手に入れようとするものだ。「表現の所有格」については、それでも、戯曲というものは「書かれたもの」として自立していて、作者は存在する。その壁を突き抜けたいという欲望に、私は共感する。ぬけぬけとしていることと、登場人物たちの苦しさ、これは矛盾しない。あざとく、意図が丸見えであることと、繊細さ、それは両立している。ジェンダーの問題も、ひょいっと乗り越えようとしている。審査の過程で「母性」という言葉が話題になったが、授賞式で作者自身が語ったように、これは登場人物のせりふであって作者の考え方を示しているものではない。そこにある種の保守性が認められるとしたら、三つの視点で見られることによってそれは確実に批評されている。……人間の「無意識」について描こうとする作品にはあまり成功例がない。他人の「夢」は触ることができない。重ならない。連動できない。それを可能とする仕組みが演劇であり、こんなかたちで「宇宙」を登場させることに違和感がないこと自体が、その証左である。付け加えると、既成曲の使用は安直に流れやすいことがあるが、本作の「チャンピオン」には必然性があるし、とてもおかしい。
ナガイヒデミさんの『荒野 Heath』は、部分的に圧倒的な成果が上がっていて、そこを自覚して再構成したら、受賞作となったのではないかと思う。認知症のことは現代社会では誰でも身近な問題であるので、よりいっそう胸に迫るものがある。その迫真力だけでも、この作を推したくなる。だからこそ、残念である。とにかく、引用は不要だった。大事なところに借り物は要らない、ということを知っていてほしかった。『リア』も『山月記』も要らないのである。とはいえ、こうした作品の登場には、励まされるし、同時代の者としての喜びがある。
近藤輝一さんの『ナイト・クラブ』は、気の利いたせりふも多いし、自由でいいが、作者が示したいはずの「空気」が成立する以前に、展開として、はぐらかし、ただ並べる、という印象になってしまうことで、損をしている。「ギャグ、×連発します」というが、具体的にそのギャグを示してほしいという種類のことを、この作品についても思う。細部を丁寧にやることで、確実に発見は、ある。作者に旺盛な筆力と、作品を共有させていくために必要な社会性があることは間違いがない。やはり、丁寧に書くこと、具体的には、もっとシンプルにできるのではないかと自問すること、考えがまとまるまで時間をかけること、ひょっとしたら設定自体を変更してもいいのではないかと書く途中に思い直す勇気を持つことで、「この人にしか書けないもの」は、作者の意図を超えて浮上してくると思う。
瀬戸山美咲
鈴木アツトさんの『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』は、うまくまとまっている作品だと思いました。戦時下、アーティストが何を選択して生きていくかという主題もわかりやすかったです。ただ、主題の切実さに対して、さらりと読めてしまった感もありました。ケストナーが沈黙することで抵抗してきた人物だからか、彼の奥深く眠っている言葉が見えなかったのがその理由かもしれません。ほんの一瞬でもいい、彼の内臓が見える瞬間をほしいと思ってしまいました。また、海外を舞台にした戯曲を日本で創作する場合、物語としてきれいに完結すればするほど「つくりもの感」が出てしまうような気がします。今、日本で創作する意味を持たせる、何かもうひとつ外側の仕掛けが必要かもしれません。
深谷晃成さんの『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』は、「夜だけが僕の味方」や「無職、人を裁く!」など役名がそれぞれの物語を示していることが興味を惹きました。今の日本の若い人のコミュニティの閉塞感がよくあらわれている作品でした。特に「カイジュウたちのいるところ」という名を持った、イルカから人間になった青年が、東京の街で暮らしながら吐く言葉は真に迫ってくるものがありました。最初、コミュニティの外側にいる人ほど自分を客観視できていて、コミュニティにどっぷりつかっている人ほど自分を語る言葉を持っていないように書かれていると感じました。しかし、アジアから来た留学生がそのルールから外れており、彼女のことはわからない対象として類型的に描いているのが気になりました。もしかしたら、作者の思い入れによって人物の描かれ方が違うのかもしれません。日々記憶を失う女性店員や、誰かと結ばれそうになるとタイムループする女性に対してつけられた「時をかける処女」という名前など、どこか女性に対する視点にバイアスも感じました。
上岡久美子さんの『天と地のまなか』は、死を恐れていた人が原爆を体験し、生きる意味を見出すが、その「意味」が重圧となり結局死を選ぶ、原民喜の生き方をそのように受け止めることができて、面白く読みました。彼の実際の言葉がたくさん引用され、声で発したときの強さも感じました。ただ、作者の視点が見えてこなかったのが気になります。評伝劇は、書かれていない部分を想像して書いてこそだと思います。私も何かを知って、そのことをみんなに知って欲しいと思うことはよくあります。でも、その感動だけだと自分が書く必要がありません。どの部分が自分に響いたのか検証して、なぜ響くのか自分自身の中身も覗くことが必要だと思います。
髙山さなえさんの『あなたがわたしを忘れた頃に』は勢いがあって、一気に読むことができました。3つのモノローグ連作で1つの出来事を見ていくという構成もよかったです。特に3人目の看護師のモノローグには、予想外の場所に連れていってもらいました。この作品は男性の妊娠と出産がモチーフとなっているので、男女を逆転して見えてくるものを期待して読み始めました。気になったのは、夫も妻も「母性」を持たなければという強迫観念に囚われていることでした。囚われているところまでは現実の反映として読めたのですが、結局、出産を経て母性的な感情が芽生えてよかったと着地しているように読めました。その後、三人目の登場人物である女性看護師が登場したとき、ああこの人は前のふたりとは別の価値観のもとで生きている人なんだろうと、再び期待しました。実際、彼女はひとりで生きる選択をした人でした。しかし、彼女は週に1日だけ職場の医師に恋することにしていました。そして、恋をしている自分は人間不信ではないと捉えている。人が生きていくとき、恋愛以外の支えはないのだろうかと頭を抱えてしまいました。ただ、この作品のラストで看護師は「この人生を、もう少し続けてみようと思う」と語ります。今が最善というわけではなく、すべては現在進行形でこの先に何かがあるかもしれないという希望が残されているのがよいと思いました。
ナガイヒデミさんの『荒野 Heath』は、コロナ禍の特別養護老人ホームで繰り広げられる認知症の父と娘たちの描写が生々しく、今回の6作品の中で一番のめり込んで読みました。どうにもならない状況に抗う父親の姿は、肉体を伴う演劇で表現してこその力強さがありました。この作品は『リア王』と『山月記』が引用されています。途中までは、あぜ道をさまよう親子3人のシーンなど、リア王とオーバーラップするシーンを面白く読んでいました。ただ、最後、完全に『山月記』のセリフになったところはもったいないと感じました。ナガイさん自身の言葉に書き換えていったらより強固な作品になったと思います。
近藤輝一さんの『ナイト・クラブ』は、心の細やかな部分に光を当てたセリフが見事でした。複数のエピソードを順番に描いていくオムニバス的な作品ですが、全体として積み上がっていく手触りもありました。既存の楽曲の指定も含め、ひとりひとりに寄り添い感情移入できるように書かれているのが印象的でした。だからこそ、物語の外側を配置して素に戻る瞬間があるのは効果的でした。ただ、それがナイト・クラブや、さらに外側の俳優や劇場である必要があったのかが少し疑問です。後半で、行ったことのない場所は「同情」できないという会話で、ナイト・クラブにした意味合いは少し伝わってきますが、本編を生かすような場がほかにもあるかもしれません。
佃 典彦
名古屋のミラーマン佃です。
今回は非常に面白い作品が揃ったと思います。それぞれが違う感触、それぞれが違う味、それでいて面白い作品が揃った今回の「優秀新人戯曲集」は、購入して損は無しと断言できます!
『エーリヒ・ケストナー~ 消された名前~』
登場人物がそれぞれの思想を持ちながら生きている姿に感銘を受けました。ヴェルナーの人物像が非常に面白いです。俗物でありながら生き続けて自分の才の無さを抱いているその姿は多くの芸術家を象徴してます。ラストにロッテが差し伸べた手をどうしたいのか、どう処理するべきか・・・そこが少々宙ぶらりんの感じがして惜しい気がしました。
『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』
登場人物の名前は高橋源一郎氏の小説を彷彿とさせる特徴的なモノです。名前に物語があってそれを体現するとありますが、「時をかける処女」について。明らかに「時をかける少女」をモチーフにしているのですが、ここには危険が潜んでいます。このモチーフで安心してしまっている気がするのです。僕も昔、似たようなことを別役さんから指摘されました。「モチーフにあぐらをかいては駄目だ」と言われたのです。僕はこの作品がとても魅力的で票を投じました。特に「カイジュウたちのいるところ」の話がとても好きです。
『天と地のまなか』
前半のシーンのつなぎ方は非常に面白いです。死んだ主人公の使い方やお見合いシーンへのつなぎ方は見事です。
なのにモノローグを多用しているのが非常に勿体無い。原民喜の作品の朗読と原爆のシーンを重ねたのは勇気がいったと思いますが残念ながら上手く機能しているとは言い難いです。ただ原民喜の文学について書き上げたいと言う作家の情熱はヒシヒシと感じました。
『あなたがわたしを忘れた頃に』
設定も面白いし描かれている内容も言葉にも惹かれました。話の飛び方も申し分なく、このヘンテコな世界に見事に没入させてくれました。最後に看護師にスポットが当たるとは想像してなかったので驚きました。ここでも予測を見事に裏切ってくれたワケです。一人称で書かれた小説と一人芝居(この作品は厳密には一人芝居ではないけれど)の違いがずっと前々から僕の中で疑問だったのですが、今回の審査会でその疑問が解けたのも僕にとって大きいことでした。
『荒野 Heath』
この作品にはとにかく圧倒されました。僕は7年間、自宅で父の介護をしていた経験があります。父は中度の認知症でした。この作品にも描かれている認知症独特の理屈と論理、道筋が通っていないのに一本筋が通っていてしかもそれは強固であって、そこにしがみついて決して離そうとしない。胸に刺さりました。それだけに勿体無いのが『リア王』と『山月記』の引用です。他の審査員からも指摘があると思いますが、ここまで書けるのならば全てご自分の言葉で描き通して欲しかったのです。
『ナイト・クラブ』
メタ風で始まって、何が始まるのかワクワクして読み始めました。オムニバスで読み続けるとそのワクワク感が萎んでいってしまいました。クラブの大枠と各話の関連性がほとんど感じられなかったからです。男女が軽いノリでくっ付いたり離れたりする空想上のクラブの中で純愛から結婚に至る小さい心のさざ波を描いているのかも知れません。深夜ドラマのちょっと尖ったシナリオを書く機会があればすごく刺激的で面白いモノが書ける人だと思いました。
横山拓也
12年前、第15回新人戯曲賞をいただいたのをきっかけに劇作家協会に入会し、その後しばらく1次審査に関わらせてもらい、第25回では最終審査会の司会をやらせてもらって、今回、はじめて最終審査員を務めることになりました。新人戯曲賞における様々な立場を経験した僕ですが、客席に誰もいないオンライン配信による審査会は、妙な緊張感がありました。最終選考に残った劇作家の皆さんも、画面の向こうで孤独や緊張と戦っていたと思います。考えてみたら、劇作家という仕事は孤独と緊張の連続ですよね。皆様、本当にお疲れ様でした。
『エーリヒ・ケストナー〜消された名前〜』は、最初から最後まで興味が持続して面白く読みました。少し頭が重かったようにも感じましたが、人物が魅力的に描かれていたので、いつのまにかドラマに引き込まれていました。1923年から1945年の約20年間を描く中には、現代的な問題が重なり、また表現者としての苦悩など、自分自身の葛藤と繋がる部分もあり、退屈させない作品なのですが、良くも悪くもストレートな評伝劇でした。
『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』は、登場人物のキャラクター造形や、セリフの文体にオリジナリティーがあり、簡単に読み切らせてくれない、また頭の中で劇として立体化することを拒むような「腫れ物」的な個性が印象的でした。匿名性を帯びた特殊な役名、その人物たちが担うドラマが、この時代に生きる我々の何かを象徴しているのだろうかと探ったけれど、そこは繋がってきませんでした。
『天と地のまなか』は、一般的にはそれほど知られていない原民喜を取り上げた意欲作だと思います。しかしながら、人生をダイジェストにしたようなスピード展開と、作者自身の言葉があまり立ち上がってこないことが残念でした。7章の原爆が投下された広島の場面を、朗読と芝居の同時進行で描いたのは迫力がありました。このシーンだけで、作者の「原文学を世に伝える」という目的を果たしていると思います。
『あなたがわたしを忘れた頃に』は、3つの一人芝居の連作という点で他の作品と比べて異質でした。ハマるハマらないは人それぞれですが、ユーモアセンスをふんだんに持ち込み、笑かしにかかる姿勢は好印象です。3本の作品のつじつまが微妙に合わないことや、連作なのに連動させようとしない作者が意地悪に思えて、はぐらかされているような気分になりました。これを面白がれる器が僕には欠落しているのかもしれません。
『荒野 Heath』は、劇作の技術面においてもっとも優れていると思いました。『リア王』『山月記』の引用が審査会でも話題に挙がりましたが、僕は巧みとすら感じました。90代の父と、60代の娘(姉妹)のやりとりは壮絶で、まだ経験していない、しかしいつか直面するリアルな恐怖が迫ってくるようでした。我々現代人の目の前に広がっているコロナ禍を誠実に扱っているところも良かったです。
『ナイト・クラブ』は、もっともセリフに鮮度があって、ほとばしっている印象でした。オムニバスですが、それぞれのエピソードが魅力的で、たちまち物語に引き込んでいく導入の強さは見事でした。別の長編作品も見てみたいと思わせてくれました。ただ、これだけ客観性をもった作者が、この4つのエピソードをどのように料理したかったのかが不明で、最後まで実を結ばない感じがもったいなかったように思います。
渡辺えり
上岡久美子さんの『天と地のまなか』のお陰で原民喜を知ることができた。小説『夏の花』を買い、梯久美子氏の評伝『原民喜 死と愛と孤独の肖像』も読んだ。『夏の花』の原題は「原子爆弾」。当時のGHQの検閲で1947年まで発表できなかったばかりか、自主規制で削除した部分を戻した原文のままの発行が原の死後であったことも知り、愕然とした。私がこの作家を知らなかった原因の一つに当時の言論統制があったことは間違いなく、それは現在あらゆる文学の世界に未だに影を落とし続けているのではないか?ということである。『天と地のまなか』にある「一輪の花の幻」、まさに演劇そのものと言えるような原の言葉と、「明日の人類に贈る記念の作品」と原が自ら広告文を書いて世に出した『夏の花』が、上岡さんによってようやく未来の私たちに届けられたことを今あらためて噛みしめているところである。
上岡さんにはさらにどんどん書き続けていただきたい。選考の後一カ月たって今一番鮮烈なイメージで甦って来る戯曲である。
鈴木アツトさんの『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』も力作で、テーマも今に通じる納得のいく題材である。しかし、今回の選考のためケストナーの『飛ぶ教室』を初めて読み、その面白さに感嘆して思うのは、本当に鈴木さんが書いたような会話をする人物であったのか?という疑問が湧いてくる。想像と創作で書くことは勿論良いのだが、実在の方だからこそ、その人物は個性豊かに興味深く描いて欲しいと願うものである。
深谷晃成さんの『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』は、現代日本における差別と偏見の意識無意識を切ろうとした面白い怪作だと思う。反捕鯨団体から日本国籍を与えられ丘に上がったイルカの存在など痛々しく滑稽で様々な差別と偏見に対する暗喩そのものを具現化していて見事である。「なんだか東京に殺されそうだ」という背後に現れる文字も好きだ。地方出身者の誰もがそう思っていたのにこの50年だれも書かなかった言葉のように思った。しかし、「時をかける処女」という登場人物が単なる語呂合わせのユーモアだとは捉えにくい。
男性優位の価値観からくる偏見を利用した笑いはいただけないと私は思う。
ナガイヒデミさんの『荒野 Heath』は、両親が認知症で介護施設に入所している私にとって胸にどしりと刺さる問題作だと思う。父親と母親の関係も壮絶でリアルだと思った。しかし、『リア王』を持ってきたところに逆に読むこちら側が誤解してしまう問題が生じた。『リア王』はあまりに有名な作品で、テーマをどう解釈するか?読者に任されているとしてもやはり強烈なイメージが誰しもの脳裏に残っている作品である。リア王の娘の中でも個性的で切ない二人の姉たちや道化などのキャラクターたちが目の前に浮かびすぎて作品の意図から離れてしまったように感じた。
近藤輝一さんの『ナイト・クラブ』は古くてダサい何度も観た芝居のようにわざと始めて、一回気持ちが引いたところから一気に読ませる凄い作品だと感じた。女性がみな自立していて思ったことをしっかり台詞にしてくれているのが小気味よい。男と女がそれぞれの役割を気にせず性格だけで会話しているのが嬉しい。戯曲集287ページの「陽二昨日からずっと英語喋ってるから、そうかなとは思ってた」、この台詞にひとしきり笑った。上演した作品を観たいと思った。
髙山さなえさんの『あなたがわたしを忘れた頃に』は見事な作品だと思った。落語の『あたまやま』のようなシュールな残酷さとユーモア。リアルと虚構の被膜の作り方が面白い。コロナ禍だからこそ過激に癒されたい演劇好きな魂を揺さぶる面白さがある。
男性女性の誰が演じても子供や年配が演じても良いような、既成に囚われない人物たちも愉快である。日本の中で独特に発展してきた少女漫画の面白さがある。まさに良い意味での「女子供に受ける芝居」だと堂々と言いたい。(女子供に受ける芝居ばかりで今はどうしようもないと、昔年配の男性作家が言ったことを思い出したのだ)


