第26回劇作家協会新人戯曲賞 選考経過と選評


受賞作

竹田モモコ『いびしない愛』

[主催] 一般社団法人 日本劇作家協会
[後援] 公益財団法人 一ツ橋綜合財団
[協賛] (株)ジャストシステム、小学館、北九州市芸術文化振興財団

選考経過   選評  賞の概要(別ページ)  第26回応募募要項(別ページ/受付終了)



<審査会の模様>
左上から:川村 毅(司会)、坂手洋二、わかぎゑふ
佃典彦、桑原裕子、土田英生、
赤澤ムック、マキノノゾミ、
渡辺えり


<授賞式にて>

左:竹田モモコ、右:渡辺えり(日本劇作家協会会長)


最終候補作

『キラメク!』  有吉朝子 (東京都)
『サカシマ』   斜田章大 (愛知県)
『椅子は椅子』  ビト (奈良県)
『春の遺伝子』  河合穂高 (岡山県)
『いびしない愛』 竹田モモコ (大阪府)
『(一)変容する日々 (二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』泉晟 (広島県)

 最終候補作全文掲載の「優秀新人戯曲集」はブロンズ新社より発売


最終審査員

 赤澤ムック 桑原裕子 坂手洋二 佃 典彦 土田英生 マキノノゾミ わかぎゑふ 渡辺えり
 司会:川村

*第26回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら

選考経過   川村 毅

 ウイルス感染予防のため、初めてのオンライン審査会となった。
 まず一作品につき二名の審査員がコメントを述べた。

 『キラメク!』について、桑原氏は「よく調べて書いているが、思想がキャラクターになってしまっていて個性が描かれていない。」 坂手氏は「類型的であるが意図的なのかどうかがわからない。筆力はあるが、いい感じにまとめすぎている。」
 『サカシマ』について、佃氏は「救いようのない話だが、爽快に感じる。あらゆるマイナス要素をまず肯定するところがあり感心した。」 わかぎ氏は「自分には書けないタイプのもので、すごいと思った。が、現場にどうバトンを渡すのかが疑問。」
 『椅子は椅子』について、赤澤氏は「応募してきたのが挑戦状のように思えた。読むのが難しかった。」 渡辺氏は「イヨネスコの『椅子』のパロディと思って読み進めると演劇自体のパロディとして読めた。演劇で遊びをしている壮大な作品。ラストに疑問を持った。」
 『春の遺伝子』について、マキノ氏は「科学と倫理の問題が作者の知見をもとに書かれていて現代的であり勉強になった。壮大さに圧倒されて脱帽だ。」 土田氏は「面白く読んだ。知識が付け焼刃でないとわかった。豚とわかるまでが長い。」
 『いびしない愛』について、わかぎ氏は「会話が性急過ぎるのに気になった。モノローグを会話にして欲しかった。」 桑原氏は「面白く読んだ。どの登場人物も好きだ。コロナ禍のことをよく書いてくれた。」
 『(一)変容する日々(二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』について、坂手氏は「読み進めるのがつらい。学校が嫌いだったことを思い出し息苦しかった。」 赤澤氏は「読みやすかった。2010年度から青春ものはマンガに負けているが、これはマンガに勝てたかも知れない。」

 六作品のコメントが一巡したところで、今度は一作品ごとのフリートークとした。
『キラメク!』に渡辺氏は登場する人物のモデルが実名で書かれていないことに疑問を呈した。マキノ氏はそれについて「史実をフリーハンドにしたかったのであろうが、仮名にしたのは逆効果。」と同意を示した。『サカシマ』に対してマキノ氏は「これは小説だ。」と意見を述べた。渡辺氏は「男をつぶすラストは今の日本のダメな政治家への暗喩だ。」『椅子は椅子』では土田氏と渡辺氏が、ラストに意味をつけ過ぎたと指摘した。『春の遺伝子』の前半はデビッド・ヘアの報告劇を思わせると坂手氏は指摘した。『いびしない愛』をマキノ氏は「大好き。ひたすらうらやましい。」と大絶賛した。『(一)変容する日々(二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』に渡辺氏は「見慣れた光景だ」として高評価を示さなかった。「男と女の決めつけが強く、女性蔑視を感じる。」と述べたが、わかぎ氏は「そうは思わない。中学生はこんなもんだ。」と反論した。

 様々な意見が出たところで第一回の投票となった。審査員それぞれが二作品を推すという設定である。
 結果は『キラメク!』投票者なし。『サカシマ』に佃氏の一票。『椅子は椅子』は土田氏の一票。『春の遺伝子』には坂手氏、佃氏、マキノ氏、わかぎ氏、渡辺氏の五票。
『いびしない愛』は赤澤氏、桑原氏、坂手氏、土田氏、マキノ氏、わかぎ氏、渡辺氏の七票。『(一)変容する日々(二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』は赤澤氏、桑原氏の二票という結果になった。



<投票結果> 小さい丸が1回目、大きい丸が2回目。

 休憩後、審査再開となったが、意見は概ね出尽くした感があった。いつもこうしたものである。一票で孤立した審査員に「応援演説を」などと促したところで、そうしたものには審査員は休憩前に言い尽くしているもので、それを繰り返したところで大逆転劇が起きるわけでもない。
 票が集まった『春の遺伝子』『いびしない愛』の二作品に絞って二回目の投票が行われた。結果は『春の遺伝子』、坂手氏、佃氏、わかぎ氏の三票。『いびしない愛』が赤澤氏、桑原氏、土田氏、マキノ氏、渡辺氏の五票となった。
 そこで最優秀作は竹田モモコ氏の『いびしない愛』に決定した。
 初めてのオンライン審査会で慣れないこともあったが、私見を述べると思いの外、無駄な時間帯なく議論が伯仲できたのは、オンラインという特性が逆に功を奏したと言えやしないだろうか。









<最終候補作の作者>
左上から:ビト 河合穂高 斜田章大 泉晟 有吉朝子/渡辺えり(会長) 丸尾聡(授賞式司会)



選評

赤澤ムック
 
 忘れられない年というのがある。二〇二〇年もその内のひとつだ。去年の春から冬にかけてわたしは、予定していた全ての仕事を失い自宅に閉じこもっていた。週に二度の買い出し、週に一度の外食、友人とするオンラインゲームは目的を変え頻度が上がり、たまに舞い込む劇作以外の仕事はまだ自分を必要としてくれる場所があるんだと安心させてくれる材料となった。ただ生きているだけの時間に、なにをしていたかといえば戯曲を読んでいることが多かった。再読も含め本数だけでいえば三日に二本読んでいる計算になる。市販のものだけではなく、公募などで集まった生まれたての戯曲に触れる機会がとても多かった。戯曲は、窓だ。いつだって自分の知らない情景が眺められる。小説も好きだが、戯曲はまた格別なのだ。自宅の畳に座って、様々な世界での冒険や恋愛、出会いと別れの人生を体験し楽しんだ。そんな年が終わる頃、この新人戯曲賞の最終審査会メンバーに呼んでもらった。正直わたしは賞レースの舞台に上がったことすらない劇作家なのでとても恐縮したのだが、貴重なご縁と思い直して引き受けさせてもらうこととした。

 さて、枕が長くなりました。最終候補に残った六本の戯曲は、どれも異なった強い色をもつ作品である。劇作家の描きたいものや、描き方、秀でている点がこれほどまでに被らないことは珍しいように思う。劇作家として戯曲において最も大切にしているものは何か、それを突き付けられたように感じた。なにをもってして受賞とするか。これは劇評家が選ぶそれではなく、劇作家の劇作家による劇作家のための戯曲賞なので、戯曲の要素に点数をつけ合計点が高いものを必ずしも選出するわけではない。審査員も丸裸にされるわけだ。嫌でも丸裸である。

 台詞の力は戯曲そのものの魅力だ。『キラメク!』の中盤にある「私、肩を持って欲しいんじゃありません。」という台詞は、今まで無意識で蓋をしていたわたしの声だった。この台詞は気付きをもって深く突き刺ささり、たった一つの台詞が観客の人生を変えることもあるのだと思い出させられた。そして自分が求める観劇体験とはこういうものなのだと感動させられた。だからこそ冒頭のつかみの弱さが惜しい。後日譚として語られることで物語が補強される面が、実在の人物を架空とした意図とともに最後まで探し出せなかった。

 演劇との出会いに、時という要素も大切であることを思う。最終候補を読み終えた直後から公開審査会当日まで『(一)変容する日々(二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』を受賞作に推そうと考えていた。自我の形成途中、中学生という完全なる大人未満の時期だからこそ起こった小さな行き違いは、読了後、爽やかな風と共にこちらへ疑問符を投げつける。それは本当に中学生だからなのか、これは小さな問題なのか。年老いてから透明さを、惜別や懐かしみを含めず愛し始めることもあるだろう。この戯曲を世代の違う他人事と捉えるのは、鈍くなったわたしの傲慢ではなかろうか。なんてことを考えさせられるのは、劇中の物語が面白く、最後まで興味をくすぐられ読み終えられるからだ。ただしこれは各登場人物の秘密が暴かれ続けることに期待するゴシップ的な興味ともいえる。わたしはそれが悪いとは考えない。しかし公開審査当日に、一推し作品を変えた理由にこの点が関わっていたことは確かだ。

 『いびしない愛』は、当初「穏やかな良作」という印象だった。事務所で起こる小さなドラマが、そこに居る人達の生き方を肯定し描かれている。この作品が、最も今現在を象徴するものであり、必要なものであると感じたのは、行政が区内に流している夕方のアナウンスのおかげだったか。いつもならば児童の帰宅を促す音楽とチャイムが流れるはずの時間に、外出自粛のアナウンスがされていた。わたしもまた扉の開かない場所にいる。新型感染症という世界を覆った不安の中で、出口の開け方がわからない。人出が少なく閑散とした町。演劇は公演を自粛し、劇場は空っぽだ。いつまた元に戻れるのか、以前と同じに戻ることはできるのか。病そのものよりも、抱えてしまった不安の中でオンラインという新しい距離感を探りながら不自由に過ごす現在は、まるでこの戯曲に描かれた状況と同じだ。離れていても人々の心はそれぞれにあって、目立つ行動を起こさぬ人ほど自分の人生に向き合って耐えている。そして大切な誰かのことを考えている。公開審査でわたしは「閉じられた事務所はコロナ禍そのものだ」と主張した。のちに聞けば作家の意図とは違ったのだがしかし、この戯曲を受賞作に推した気持ちは揺るがない。二〇二〇年、今が過去となり歴史を振り返るその時に、この戯曲は大きな存在感と包容力をもって、この年を後世に伝えられると確信している。


桑原裕子
 
 『キラメク!』はまず、選んだ題材が素晴らしく、朝の連ドラで一年かけて観たいと思いました。それほどにこの作品に出てくる作家や画家の人生がドラマティックなので、この尺で描き分けるのは大変な労を費やしたであろうことを想像しました。細かく調べて描かれていたことに驚嘆すると共に、情報量が多すぎて処理し切れていない印象もありました。たとえば登場人物のひとりが過去に犯されたと告白する場面は、さらりと出すには重すぎる内容。史実にそって描かれたのだろうと思いますが、ドラマに乗せる以上はそこまで抱きしめてほしいと思ったのです。

 『サカシマ』について、審査会では映像的という声もありましたが、私はこの戯曲を歌のように感じました。思わず唱和してみたくなるリズム感、いくつかのフレーズがサビのようにくり返されて印象的に絡み合い物語が展開していく混声合唱曲。マイナーコードの不協和音も面白いと感じました。ですが登場人物がこれほどたやすく死を選ぶ理由を、私には測りかねる深遠さと捉えるべきか、死へのやや幼稚な憧れと見るべきかで悩みました。

 すべての候補作を時折声に出しながら読んでいたのですが、『椅子は椅子』は口にするだに面白く、何度も吹き出してしまいました。羨ましくなるほどの言語センス。ただ、例えばアントニオ猪木がほうきとプロレスする姿を見て、これをできるのはすごいと気持ちが沸き立つ一方、一瞬でもこちらが気を抜くと、いったい何を見せられてるんだ?という焦燥が沸かないでもない。最後まで推せなかったのは、私の読解力が足りないせいかもしれません。

 『春の遺伝子』は、宮部みゆきの『理由』のように、証言だけで成り立っている俯瞰した描き方が面白く、その距離感が最後のぽつねんとした絶望をより恐ろしく際立たせていたと思います。私の知らない場所でその現実は確かにあるのだと突きつけられた気がしました。「豚」が育った環境について重箱の隅をつつきたくなるような箇所もありましたが、今でも時々、所在なく佇む役8のことを思い出します。

 『(一)変容する日々 (二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』は、途中で戯曲であることを完全に忘れ、没頭して読みました。「良い子のまま大人になりたい」という、誰もがかつては通り、やがては忘れていくあの頃特有の切実な願い。望むと望まざるとに関わらず「同じ」ではなくなってしまう、他人にうまく説明できない不安や痛みを、飾り立てぬシンプルな対話で見せる力が凄いと思いました。

 私は『(一)変容する~』と『いびしない愛』を推したいと思いました。結果、『いびしない愛』が選ばれましたが、どちらも笑いながら深く胸に響く作品でした。

 『いびしない愛』のなかにある、声高に言うこともできない中途半端な不幸せと生きづらさを、ポカリスエットのごとくさらりとやわらかに赦し、生活で肯定していく目線が好きです。錆び付いた扉もやがて自分なりのやり方で開くことができる。エアコンだって直るし。だからきっとみんな大丈夫。しみじみ今、読みたい本でした。
候補作はどれも水準が高く、愉しく読みました。同時に、世界中が動きを止めざるを得なかったこの時期、この作家たちは自らの情熱を停滞させることなく描いていたのだということに頭が下がる思いがし、勇気をもらいました。ありがとうございます。


坂手洋二
 
 『キラメク!』は、モデルの実在人物たちを架空の名にしてしまったことが、ピントの緩さに直結している。筆力はあるが、いい感じにまとめすぎている。類型的で、人物が羅列されているという印象が、最後まで拭えなかった。
 「東洋」や「民主国家」をちゃぶ台に喩えるのも、言葉で説明してしまうだけなので、気の利いたことを言っている「感じ」で終わってしまう。
 作者にとって大切なものは何か。それをわからせるためにこそ、戯曲の手法が選ばれるべきだ。書き始める前の、作者自身の内的対話が必要なのではないかと思う。

 『サカシマ』で登場人物たちが解説的に語るせりふの連鎖は、能の地謡のようだ。やがてそれが「主格の分散」として機能し始める面白さもある。
 「死」は刺激的、という認識を共有することさえできない、現在。その空気に迫っているところと、そうでないところがある。
 いろいろ作為が見えすぎる。登場人物の言動が、作者にとって「便利」に進んでいく。「誰かを自殺に追い込む」ことが、メカニズムとして成り立つかどうかも、作者の恣意に委ねられている。
 最後に、飛び降りる陽毬が康介にぶつかるというオチ。そうした因果律は、この戯曲が打ち出そうとしている「新しさ」に抵触するのではないか。一種の円環構造、閉じた世界として描きたいということだったのかもしれない。
 やはり村上春樹の引用に違和感がある。村上氏のあの言葉は、パレスチナとイスラエルの対立に向けられたものであるが、本作では「堅く大きな強者=現実」「柔らかく小さな弱者=個人」と翻案されている。この作者が村上氏の言及するパレスチナとイスラエルの対立の具体のような、作者自身が手に負えないと感じるかもしれない事項について書く戯曲を読んでみたい。

 『椅子は椅子』は、イヨネスコというより、ピランデルロ的である。椅子の擬人化という、その仕組みだけでは、弱い。
 皮肉な作中人物が語るように、リアリティーの問題なのだ。ある種の率直さは悪くないのだが、劇の空間は、作者が提示したからといって、それがすんなり受け入れられるとは、限らない。
 「あたしに座って」というような魅力的な台詞に、もっともっとドキドキできる構造を手に入れられるといいのだが。

 『春の遺伝子』の作者・河合穂高さんは、作品の完成度を越えて、ここ数年でもっとも「有望新人」と呼ぶべき人かもしれない。いま日本で、この内容でここまでリアリティを持って書ける人は、他にいないだろう。
 イギリスの劇作家デビッド・ヘアが打ち出した、報告劇=バーベイタム・シアターという概念がある。報告や証言によって淡々と事実を示していくものだ。演劇は、必ずしも視覚に多くを頼らない表現である。言葉の想像力、紡ぎ出す正確さを駆使すれば、映像にはないスピードとキャパシティを持ち得る。その特性を活かし、前半はドキュメンタリータッチで興味を引いていく。堅い内容のようでも作者の人間味は表れているし、ちょっとしたユーモアも効いている。
 多くの研究者たちの中から、「姉」の存在が立ち上がってくる構成も、意図的なものだ。壮大な近未来SFのスケールから始まって、極めて演劇的な存在感を示す「役8」が、「ねっちゃ」という言葉を獲得する、個的な意識の発生の有無を問題提起して、終わる。このダイナミズムが魅力だ。
 「役8」の存在は、「自分」を「自分」と認識しているのだろうか。言葉とは、ゴーストかもしれない「自己」を発見する装置だ。だから言葉を得てしまった人間が生きることは、苦しいのかもしれない。本作はそうした議論に耐えられる作品だ。「人間とは何か」というテーマに繋がっている。

 『いびしない愛』の、「今からここに、泥棒が入ります」という導入は、魅力的だ。気の利いたせりふや設定も多く、偶然が重なっても嫌な感じがしない。
 全体に、無理も不自然もある設定と展開が、「そうでなければならない」という「必然」に転化していく腕力が、ある。
 ユーモアもある。劇のユーモアは、登場人物間の「ルール」をテコにすべしという一つの原則があるが、それがしっかりと守られている。
 トリッキーだし、性急すぎるところもあるが、依存症についての描写のリアルさ等、作者の内実に「嘘がない」という印象がある。
 肯定的な意味で、「演劇内演劇」を極めた、と言える完成度の高さがある。

 『(一)変容する日々 (二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』を読んであらためて思うが、人間関係の齟齬は、子供の頃からずっとあるものだ。本作は、若者の直観あるいは決めつけ、同調圧力とのたたかい、そうした青春劇の普遍を備えている。
 「色のついた飲み物って変じゃない?」という台詞から列なる世界観は魅力的だ。しっかりと個性を感じさせる。
 ただ、作者が恣意的に物語を動かしている、という感触は拭えなかった。学園ものは、「誰もが知っている世界」である。そこで他の作品との違いを見せつけるには、劇構造じたいに果敢にコード変換を迫るか、新しい価値観を示していくような、個性と腕力が必要だ。
 昨年の受賞作・三吉ほたてさんの『泳げない海』には、生徒たちのリアティーと、教師像の個性の、圧倒的な強さがあった。

 さて、私は『春の遺伝子』と『いびしない愛』の2作同時受賞を考えていたが、今回の司会者・川村毅氏は、かつての審査会で何度かそうだったのだが、「2作同時受賞」を認めない派、の人だった。それでまあ、仕方ないかと思ったのだが⋯⋯、当の川村氏が、閉会間際、受賞式の終わり頃に、「2作同時も今回はありかと思った」と言うではないか。早く言ってくれよー、である。
 ただ、河合さんは、これからも確実に傑作を書ける人である。今回は残念だったが、楽しみは先に、とっておきましょう!


佃 典彦
 
 どうも、名古屋のミラーマン佃です。
初のリモート審査会ということでしたが思ったよりスムーズに進行できたと思います。
ただ審査終了後に最終候補の皆さんと話す機会が得られなかったことだけが心残り。

『キラメク!』
 丁寧に書かれている印象です。思想の違う人間達が一つの卓袱台に集まって議論できる、ちゃんと卓袱台に集まれる世の中に!という想いが伝わって来ました。ドラマの導入ですが、どうして登美子と陽子がここまで仲が悪くなったのか・・・その理由について話すというのはドラマ導入として弱いです。次の場に移った時に、時間経過とともに状況が変わっている(状況の変化で時間経過を判らせる)のですが、その状況が登場人物達に影響せずに噂話で終わっているのが勿体無いです。セリフは上手いと思いました。

『サカシマ』
 凄く悲惨で救いようのない世界なんだけどなぜか力強く爽快な感じがするのは、作者の演劇世界に向かう姿勢によるところが大きいと思います。失望とか絶望とか残酷とかあらゆるマイナス要因をまず肯定するところから世の中を見据える姿勢です。その姿勢がこの作家独特の世界観に現れていると思います。繰り返される群読から少しの変化があって次のシーンに移行する方法も秀逸だと認め、僕はこの作品に票を投じました。

『椅子は椅子』
 物体と人間を逆転させる不条理劇ど真ん中といった作品で、僕はこの系統が好きです。
ただこの系統の芝居には作家の初期衝動が非常に大事で、そこがブレるとワケの判らないことに陥ってしまうのです。椅子を兄だと主張する人とそれを否定する人、椅子を息子だと主張する人とそれを否定する人、これを一緒に登場させてしまうと実は芯がブレやすい。対立がうまれるので対話にはなり易いのですがそこが落とし穴なのです。一度、思いっきり肯定させた方が良いと僕は考えていて、有り得ないコトを徹底的に肯定してゆくのは難しいのですがそのロジックがこの手の芝居の醍醐味とも言えるでしょう。こういう作品を書く作家は少なくなっているのでドンドンこの路線で書き続けて欲しいです。

『春の遺伝子』
 とにかく面白く読みました。僕の様な科学音痴にも判り易く書かれているところに感銘を受けました。それは登場人物の配置がうまいからだろうと思います。僕はワンシチュエーション派なのでシナリオみたいにシーンが多いのは好みではないのだけれどこの作品はそんな僕の嗜好を軽く飛び越えています。人間の形をしたブタが「ねっちゃ」と呟いて終わるラストシーンも鮮烈でした。僕は文句なしでこの作品を最後まで推しましたが・・・。

『いびしない愛』
 ワンシチュエーション派の僕にとってこういう作品は本当にホッとするし楽しく読むことができます。泥棒の閉じ込められ方が上手い。特にラストのネス湖は素晴らしい。登場人物も各人に血が通っているのでセリフがキチンと立っています。最優秀作品に相応しいと思います。が、僕には一点だけ推せない部分がありました。この作品では新型コロナの状況が描かれているのですが、どうも僕には物語に状況を後付けしたような感が拭えなくて仕方ありませんでした。もしも先に新型コロナの状況があったのだとすると工場の状態や諌山が忍び込んだ理由にしろ少々呑気過ぎる気がするのです。登場人物の誰か一人くらいは本気で新型コロナで困っている人物がいてもおかしくないだろうと思い、僕は推すことができませんでした。

『(一)変容する日々(二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』
 初めのうちは非常に面白く作品世界に惹きつけられました。
クラスの関係性が変わっていく様子とかギクシャクし始める様子とか面白い部分はたくさんあって、その面白さは関係性がアルミホイルみたいにちょっと無理すると簡単に破れてしまう様な微妙な部分だったりするのだけど、途中からだんだん人物が鋳型にハメられてしまった感じがして、そうなると途端に面白さが逃げてしまいました。鋳型とはドラマ進行によって生まれる手垢の様なものですから紋切り型になってしまう。是非、次回作はそこを突き破って欲しいなと思っております。

 以上、選評でした!



土田英生
 
 初参加から15年程新人戯曲賞の選考会に参加させてもらっているが、初めてのオンライン開催。今の状況下では仕方ないが、画面上だとニュアンスが伝えにくくもどかしい思いをした。ただ、最終候補作はどれも意欲にあふれ、バラエティに富んでいたので読むのが楽しかった。

 有吉さんの『キラメク!』。実在の人物を扱いながらも役名などは実名をもじった形でつけられている。こうした作品の場合、皆が知っている史実や人物像を生かしつつ、そこに作者の想像や創作を滑り込ませながら展開されるのが通常だが、登場人物に新たな役名を与えたことで完全なフィクションになってしまった。それは構わないのだが、私にはその意図が読み取れなかった。また、オープニングとラストがつながっていて、間は回想という構成だったが、その額縁と中の絵が重ならないのがもったいないと思った。

 斜田さんの『サカシマ』は主人公がビルから飛び降りて地上に落下するまでの話で、設定は秀逸だった。意識の内側から世界を覗いているような不思議な感覚にさせられ、サカシマというタイトルも文字通り「逆さま」を意味しながら、劇中に横たわる「道理に反する」ニュアンスも諒解感を持って入ってきた。ただ、私はト書きに引っかかる場所があった。審査会ではきちんと説明し切れなかったが、舞台上で行われるであろう仕掛けに関して、例えば「あなたにはだんだんそれが、人間の残骸に見えてくるかも知れない。」などという形で、読者や観客が自由に受け取るべき印象までも指定されてしまうことに反発を覚えてしまった。他者に投げるべき表現が狭められていることがもったいなく感じたのだとだと思う。

 河合さんの『春の遺伝子』は前半はサスペンス映画を見ているような爽快感があり、途中からは倫理観を問われるという作りになっている。展開も台詞も無駄がなく、これだけの情報量を説明的になることなく読ませる力量は相当なものだと感じた。他の審査員は気になっていないようだったが、私はドラマの入口と出口が線でつながっていない印象を持ち、それが最後まで気になってしまった。映っていた人物の正体は何者なのかというところから入り、その人物が何者か分かってから、そのことの是非が問題になり始める。もちろんこの二つをドラマに盛り込むことは可能だが、前編と後編に分かれているような感想を持った。

 私が推したのは竹田さんの作品だったが、最も感心したのはビトさんの『椅子は椅子』だった。イスを人だと思っているというアイデアで世界を構築できてしまうセンスに唸った。短編のコントとしてではなく、それぞれの登場人物に魅力を与えながら一本の芝居にしてしまう力量に脱帽したし、バランス感覚に相当長けているようで、この虚構世界が壊れそうになると絶妙にかわして行く。ただ、兄と妹の関係が一本の長編にする為の背骨なのだとは思うが、それが全体を支えるには至っていないのが残念だった。

 泉さんの『(一)変容する日々 (二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』は、登場人物たちの設定は中学生だが、私にはそうは思えなかった。これは中学生の話などではなく、人の原型として中学生を設定したに過ぎないと思った。他者との世界と自分の主観の折り合い方や、人のパワーバランスのあり様が、読んでいて妙に腑に落ちた。

 受賞作となった竹田さんの『いびしない愛』はとにかく人物造形が見事だった。作者の頭から生まれた登場人物とは感じさせず、細部のエピソードや行動のひとつひとつが生きていて、手触りがしっかり伝わった。それだけに途中乱暴に挿入されるモノローグなどはもったいないと思ったが、それを上回る描写に心を奪われた。幡多弁で交わされる会話も秀逸だったし、解像度が高く節工場の雰囲気や匂いまで伝わって来るようだった。受賞、本当におめでとうございました。

 ……コロナはフィクションとの距離を変容させてしまった。現在が日常なのかどうかの確信が持てず、私たちは虚構の世界に投げ込まれたような日々を送っている。そんな時に、人が創作する演劇というフィクションはどのような形で成立するのだろう。


マキノノゾミ
 
  有吉氏の『キラメク!』は、『女人芸術』創刊から『輝ク』終刊に至るまでの長谷川時雨とその周辺の人々を描いた評伝劇である。全体に手堅くしっかりと書かれていて、面白く読んだ。とくに一幕の一場はとても巧く書けている。これはとても大切なことである。そのぶん中途半端なプロローグは不要と感じた。この部分は終章と合体させて主人公不在の最終場としてきちんと書いた方が良かったと思う。その場にこそ作者自身の生身の思いをもっと乗せられたはずである。登場人物を実名とするかどうか迷い所ではあるが、主人公と作品が引用される林芙美子、雑誌名や作品名などはやはり実名が良かったように思う。例えば森本薫の『怒涛』や、あまりに有名な菊田一夫の『放浪記』などにおける実名と仮名のバランスのセンスを参考にしてみてはどうだろうか。

 斜田氏の『サカシマ』は、投身自殺をする十九歳の主人公が地上に激突する数秒間のうちにその短い生涯を回想するという独創的な結構の戯曲である。その中で姉の自死の理由、両親の自死の理由などが徐々に明らかとなってゆく。こう書くとひどく陰鬱な筋立てだが、読後にはある種の爽快感があるという不思議な作品。ただし、途中は読んでいていささか退屈を感じた。それはすべての場面があくまで主人公の主観だからである。そのぶんどうしても他の登場人物、とりわけ姉や両親たちが、ある種の定型から抜け出せない窮屈さがある。人見康介という人物の邪悪さは嫌になるくらいよく造形できていて、それが爽快なラストへとつながっているのだが、その最後のト書きも含めて、これは戯曲よりも一篇の小説となるべき物語だと思った。

 ビト氏の『椅子は椅子』は、最終選考には久しぶりに残ったタイプの不条理劇である。一つの椅子を兄だと思い込む悟と、自分の息子だと信じてやまない道子との椅子の奪い合いの連続と、それに巻き込まれる男と悟の妹と道子の夫とのドタバタ劇で、この種の戯曲としてはその身体的な運動性の高さが最大の魅力だと思った。台詞のテンポ感もほどよい。きっと俳優が真剣に演じれば演じるほど凄みも出て実際の上演は面白いだろう。ただ、正直わたしには真価がよくわからない苦手なタイプの戯曲である。そのぶん他の審査員の評を聞くのが面白かった。中でも「人物の登場順が違うのではないか」という佃氏の指摘には説得力があって唸った。

 河合氏の『春の遺伝子』は、原発事故により帰宅困難区域となった近未来の中国地方を舞台としたSF的作品。これは傑作だと思った。冒頭のたたみかけるようなシークエンスなどまさに映画のシナリオ的であるが、これもあえての手法と思わせる。個々の台詞もクールで巧い。科学技術の発達がときに人間が超えてはならない一線を易々と勝手に超えてしまう恐怖を描くのに、付け焼刃ではない作者自身の知見が活かされていて立派である。科学と倫理という、いつの世にもきわめて現代的で重い主題を、しかも十分なエンターテインメント性を維持しつつ物語に昇華できるというのは、これはもうそうとうな力量ではあるまいか。このような作者の登場はとても頼もしい。

 受賞作となった竹田氏の『いびしない愛』は、経営の傾いた土佐清水市のぶし工場を舞台とした、土着的でありながらもきわめて現代的な内容の作品。うって変わってこちらはミニマムな世界を描いた傑作である。最終的には不格好な登場人物の一人一人がすべて愛おしくなる。諌山が侵入した理由や自分を刺せと迫る貴美子の行動など、一見かなり突飛で不自然な展開なのだが、読み進むうちに「人間だもの、それくらいのことはあるだろう」と無理なく思わせてくれる。説明臭さのない快調な「幡多弁」の台詞も含めて、そのユーモラスな劇の運び方が見事だ。姉妹間の確執や各自のやり方でしか開かない扉というのも、それだけを取り出せばよくある設定や暗喩だが、それらを陳腐に感じさせない。センスというのはまさにこういうことをいうのだと思う。

 泉氏の『(一)変容する日々(二)燃料用ガスが与えられたとせよ』は、Aさんによる中学生時代の回想という形式の群像劇で、一種のビルドゥングスロマンである。作者の年齢から推測すれば十年ほど前の中学生たちということだろうか。中学校のクラスは社会の縮図でもあり、心身の成長が著しくアンバランスな期間でもあって、人によっては何とも息苦しい時代だが、その生々しさがよく伝わる。その意味では時代性はあまり関係なく、普遍的な成長物語となり得ている。個々の台詞はとてもよく書けているが全体に素直な印象で、題名ほどには特殊ではない(良い意味で)。この先、AさんからJくんまでの役に「代入」される俳優たちの年齢が高くなってゆけばゆくほど、この作品の持つ演劇的な仕掛けは活きてくるだろうと思う。

 今年は初のオンライン開催となったが、案じていたよりもずっとスムースな審査会となった。関係諸氏の努力奮闘に感謝したい。竹田氏の作品は本当に素敵であり、受賞は順当だと思う。惜しくも最終候補には残らなかったが、二次選考で読んだ大塩哲史氏の『メロスを待つセリヌンティウス』も個人的には実に素晴らしかった。追記しておきたい。


わかぎゑふ 「審査員を終えて」
 
 2020年の劇作家協会新人戯曲賞の審査員を初めてさせていただいた。ラジオドラマや、テレビ、コンテストの審査員はやったことがあるが、同じ職業の人たちを審査するというのはとても難しかった。
 私は演劇は旅だと思っている。スタッフ、キャスト、観客と時間を共有し何処かに連れて行くツアー旅行のようなものだ。
 戯曲はそのためのガイドブックというところだろうか。旅先がどんな場所で、いつの時代で、誰が住んでいるのか、何が起きるかという手がかりが書いてある。書いてはあるが、実際にその通りの旅になるかどうかは誰にも分からない。
 だから戯曲はぎっちり書き込まれていても、シンプルに記号のようなものしか書いてなくても、旅を仕組む者に渡ったら、次の工程に入るのだと思う。読み物として優れたガイドブックがいい旅を約束してくれるとは限らないからだ。
 しかし同業者の書いた戯曲を公的に審査するのは気が引けた。もちろん、いつもは他所の芝居を観に行って「あのシーンが要らんかったんちゃう?」とか「ええ台詞やったわぁ」なんて無責任に言っているが、しょせんはお客の感想でしかない。
 かといって「この戯曲は〇〇の影響を受けている」なんて教師よろしく論じることもしたくなかった。戯曲というものは大半が人の営みが描かれているのだから、誰の書くものもどこかしら影響しあってて当たり前だ。いや、たとえ誰かの書いたものをそっくり真似て書かれていたとしても、言葉使いや、人物の匂いが変わるので、それはすでに新作と言っていいと思っている。
 私にとっては目の前の戯曲を読んで、どんな旅をプランニングできるか?ということが一番大事なことだった。
 となると、特に言うことも多くはない。Zoomの画面の中で他の審査員が熱心に喋っているのを見ながら「へぇ審査員ってこんな話するんだ」とかぼーっと見ていた。そんな私に審査されている方が気の毒なような気もした。どうも向いてないようだ。
 『キラメク!』『サカシマ』『椅子は椅子』『春の遺伝子』『いびしない愛』『(一)変容する日々(二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』いずれも力作で読みごたえがあった。
 ガイドブックとして優れていると感じた二本を最後に選んだが、実は私が旅してみたいと感じたのは『椅子は椅子』という戯曲の世界だった。当日言うチャンスがなかったので、ここに記しておきたい。
皆さま、お疲れさまでした。ありがとうございました。


渡辺えり
 
『キラメク!』
 如月小春さんが次作のためのメモに「長谷川時雨」「輝く」と残した。今まで男性脳で書かざるを得なかった作家としての苦悩、主婦としての苦悩を女性の劇作家の現実を踏まえてやっと書こうとしていた時に亡くなった。有吉さんの作品はそういう私たち女性の劇作家にとっても応援したい作品だ、しかし、なぜ長谷川時雨と林芙美子は実名にしなかったのか?「輝く」をなぜ、キラメクに変えて書かなくてはならなかったのか? 平塚雷鳥や尾崎翠、与謝野晶子は実名なのにと残念に思った。当時現実に生きて不都合な時代に苦しみ悶えた人物の実像に光を当ててほしかった。変である。そして作品自体を生み出す苦労もぜひ書いてほしかった。女性で初めて歌舞伎座に書いた女性の劇作家で、六代目菊五郎の友人でもあり、大正元年に34歳で書いて初演された『江島生島』は今も上演されている。最近も尾上松也さんと児太郎さんが金毘羅歌舞伎で上演したと聞く。そのあたりの苦労を書いて貰うと説得力があったと思う。実際の「女人芸術」も「女性芸術」に変えているのも残念。昔のことなので、今 永井愛さんが新作『ザ・空気 ver.3』で芸術会議を芸術アカデミーと変えざるをえない場合とは全く違うのではないか?と思った。

『サカシマ』
 パレスチナとイスラエルの関係を卵と壁にたとえた村上春樹に対しての返歌のような戯曲。コロナ禍で自殺者がかなり増えている時に胸の締め付けられる戯曲で救いがないように思えるが、黒い染みに向かって落下するというたとえはその一点を目的とする意志があるので偶然ではない。復讐のための自殺なのか? 卵にも意志があるということのための自殺なのか? 自殺するしか自分の意志を表明し復讐することができない立場の人間で世界はあふれているのだということを言いたいのか? しかしなぜ庸介がライターの火をつけるのか? 寺山修司の「マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」命をささげられるような祖国はあるのか? この問いかけ。祖国を喪失した思いつかの間のマッチの炎に喪失感を感じている。寺山の感覚をこの男が感じるのが許せない気がするが意図があるのか? 殺しているのは、今のこの国の実情という点を強調したいのか?

『椅子は椅子』
 たとえが重なりコント風のセリフが愉快で芝居のパロディー風味が生きている。クリーニングのシーンが残酷すぎるが狙いなのだろう。椅子の役割を求め続ける人間の嫌さ加減。不平等な状態を書きたかったのだろうがどうせなら椅子を解体してほしかった。椅子のない文化もあるのだ。イヨネスコの『椅子』をもパロディーとして使っているのだろうが、私の子供の頃は家に椅子が一脚もなく畳に座っていた。「椅子」を何かの暗喩として扱う精神が翻訳劇から入ってきたとすると、日本人というのは明治時代から欧米人にはない複雑な心理で演劇を観、新作を書き続けてきたことになる。

『春の遺伝子』
 残酷な暗喩劇といえよう。やまゆり園問題やアウシュビッツなどでのユダヤ人虐殺の問題など、そして今日の格差社会問題などを見つめ直した問題作だろう。人は人のために人以外の動物を飼育し殺すわがままな動物。私自身、「豚」とか「ぶーちゃん」とあだ名されて生きてきたのでこの作品を読み進めながら複雑な思いがした。役がいじめられっこだった自分と重なるのだ。被差別部落問題。白人のアジア人に対する偏見と差別など様々な問題提起と感じた。不明者と姉以外は男性女性関係なく演じられるのも良い。しかし、東北弁と関西弁の違いを感じて不思議な感覚がした。原発事故の深刻さが関西弁だと感じられずに暗くならない印象になるのはなぜであろう?

『いびしない愛』
 台詞がうまい。てんぽが良く人間ひとりひとりが良く書けている。説明をせずに内容が伝わる。町の状況や危ない経済の状況やコンプレックスや人物の表情が浮かぶ。見たくなる芝居。

『(一)変容する日々 (二)燃料用ガスがあたえられたとせよ』
 テーマは面白いが、一本調子。緩急が欲しい。ラストシーンを見ると私が昔書いた『ゲゲゲのげ』という戯曲と重なり、似すぎていると感じてしまった。永井愛さんの『片づけたい女たち』のワンシーンにもそっくりなシーンが出てきて、そちらの方が説得力がある。また女が生理が始まると男ではなくなるというような解釈はあまりに男性中心主義的発想ではあるまいか?と思った。男性が元々女性で精子が出るようになると男性になるというような発想もあるのだろうか? どちらにしても男子と女子それぞれの縛りが多い作品だと思った。今後はその縛りを使ってパロディーにしていく戯曲も自然に書かれていくだろうし、性別も関係なく役を演じられる時代が来ているのだと思う。

 昔の名作と言われる作品も男女の役にこだわらずに配役されるようになれば良いなあ。と最近強く思っている。
 今回の作品群は強い個性があり、全部読みごたえがあり面白かった。コロナ禍の今だからこそ、どんどん書き続けて行っていただきたいと思うし、私自身もそうありたいと願っている。


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