第25回劇作家協会新人戯曲賞選考経過
受賞作
三吉ほたて『泳げない海』

<審査会の模様>
左から:横山拓也(司会)、坂手洋二、篠原久美子、マキノノゾミ、
土田英生、渡辺えり、佃典彦、瀬戸山美咲

<授賞式にて>
左から:渡辺えり(劇作家協会会長)、三吉ほたて

『宮城1973 〜のぞまれずさずかれずあるもの〜』 大西弘記 (神奈川県)
『月漸く昇る』 在原彩生 (千葉県)
『Gloria』 奥村千里 (東京都)
『郊外組曲』 方丈栖 (愛知県)
『泳げない海』 三吉ほたて (神奈川県)
『盲年 (もうねん)』 藤井颯太郎 (京都府)

坂手洋二 篠原久美子 瀬戸山美咲 佃 典彦 土田英生 マキノノゾミ 渡辺えり
司会:横山拓也
*第25回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら
選考経過 横山拓也
第25回の今回、審査員の男女比についてほぼ同数を目指すという提議が理事・運営委員会で承認され、女性劇作家3名、男性劇作家4名、計7名が審査を行いました。まず、各作品について審査員からコメントを聞きました。
『宮城 1973〜のぞまれずさずかれずあるもの〜』
坂手氏「全作品の中で一番読みやすいが、物語の都合のために現実や事実を引き寄せていることが気になる」。瀬戸山氏「“生まれるとは何か”という問題をもっと掘り下げてほしかった」。渡辺氏「人物のエピソードをもっと深掘りできれば現代に一石を投じる作品となった」。
『月漸く昇る』
マキノ氏「主人公の高群逸枝と対立する登場人物が出てこないのが物足りない」。篠原氏「女性史研究の草分けである高群逸枝を評伝劇にしたことは評価したい。しかし、いくつかの要素が劇的に機能していない」。渡辺氏「夫がどういう人物なのかをもっと描けば良かった」。
『Gloria』
土田氏「作者がこの史実を使って何を描きたいのかが伝わってこない」。坂手氏「ゲッベルスとマレーネのやりとりは歴史のifをうまく取り入れて、葛藤する姿が描けている」。マキノ氏「マレーネがインタビューされる時期がはっきり提示されないので、インタビュアーの立場が曖昧になってもったいない」。
『郊外組曲』
佃氏「うまいが最終的には肩透かしをくらった印象。もっとシーンを絞ってドラマを構築すべき」。土田氏「登場人物が魅力的に描かれている分、それぞれの行方が尻切れトンボになるのが気になる」。篠原氏「登場人物がモブの様。描くために選んだ“場所”に対する意識が弱い」。
『泳げない海』
渡辺氏「自分の高校時代の思い出が蘇ってくるような風景。現代社会の子供たちの問題を巧みに描き出している」。佃氏「登場人物たちをいきいきと描けている。職員室に生徒がやってくる設定がうまい」。瀬戸山氏「計算を苦手としている生徒を描くのに、家庭科の授業に影響が出ているシーンを持ってくる面白さ」
『盲年』
坂手氏「つかみにくい作品だが、社会の拠り所の無さを心象風景で強引に描き切ろうとする迫力は感じた」。佃氏「読み手にとっては不親切な作品だが、突き刺さるセリフは多い」。渡辺氏「暗喩的な表現で“なぜ人間はセックスをするのか”という根源的な真理を追求しようとしているのでは」
1回目の投票では一人2票ずつ投じました。結果は以下の通りです。
『宮城 1973 〜のぞまれずさずかれずあるもの〜』−
『月漸く昇る』 –
『Gloria』 坂手
『郊外組曲』 坂手 篠原 瀬戸山 土田 マキノ
『泳げない海』篠原 瀬戸山 佃 土田 マキノ 渡辺
『盲年』 佃 渡辺

<投票結果> 黒丸が1回目、赤丸が2回目。
休憩後、言い足りなかったことなどを述べ合う時間となりました。
『盲年』について篠原氏は「上演に期待できる作品だが、戯曲のコンクールとしてはどうか」と指摘。『月漸く昇る』について土田氏は「転換の多さや場所の選定などが甘く、どういう場所でどういう会話を行えばドラマが生まれるかを考えてほしい」と技術的な面を問題に挙げました。『郊外組曲』について瀬戸山氏は「町が壊れていく様が描かれているのが面白い」と評価。『泳げない海』についてマキノ氏は「資本主義社会に対する怒りをユーモアや優しさで乗り越えようとする姿勢が好印象」と述べました。
決選投票は一人1票ずつ投票。『郊外組曲』に瀬戸山氏、土田氏が、『泳げない海』に坂手氏、篠原氏、佃氏、マキノ氏、渡辺氏が投じ、5票を獲得した三吉ほたて氏の『泳げない海』が受賞作となりました。
第25回の今回、審査員の男女比についてほぼ同数を目指すという提議が理事・運営委員会で承認され、女性劇作家3名、男性劇作家4名、計7名が審査を行いました。まず、各作品について審査員からコメントを聞きました。
『宮城 1973〜のぞまれずさずかれずあるもの〜』
坂手氏「全作品の中で一番読みやすいが、物語の都合のために現実や事実を引き寄せていることが気になる」。瀬戸山氏「“生まれるとは何か”という問題をもっと掘り下げてほしかった」。渡辺氏「人物のエピソードをもっと深掘りできれば現代に一石を投じる作品となった」。
『月漸く昇る』
マキノ氏「主人公の高群逸枝と対立する登場人物が出てこないのが物足りない」。篠原氏「女性史研究の草分けである高群逸枝を評伝劇にしたことは評価したい。しかし、いくつかの要素が劇的に機能していない」。渡辺氏「夫がどういう人物なのかをもっと描けば良かった」。
『Gloria』
土田氏「作者がこの史実を使って何を描きたいのかが伝わってこない」。坂手氏「ゲッベルスとマレーネのやりとりは歴史のifをうまく取り入れて、葛藤する姿が描けている」。マキノ氏「マレーネがインタビューされる時期がはっきり提示されないので、インタビュアーの立場が曖昧になってもったいない」。
『郊外組曲』
佃氏「うまいが最終的には肩透かしをくらった印象。もっとシーンを絞ってドラマを構築すべき」。土田氏「登場人物が魅力的に描かれている分、それぞれの行方が尻切れトンボになるのが気になる」。篠原氏「登場人物がモブの様。描くために選んだ“場所”に対する意識が弱い」。
『泳げない海』
渡辺氏「自分の高校時代の思い出が蘇ってくるような風景。現代社会の子供たちの問題を巧みに描き出している」。佃氏「登場人物たちをいきいきと描けている。職員室に生徒がやってくる設定がうまい」。瀬戸山氏「計算を苦手としている生徒を描くのに、家庭科の授業に影響が出ているシーンを持ってくる面白さ」
『盲年』
坂手氏「つかみにくい作品だが、社会の拠り所の無さを心象風景で強引に描き切ろうとする迫力は感じた」。佃氏「読み手にとっては不親切な作品だが、突き刺さるセリフは多い」。渡辺氏「暗喩的な表現で“なぜ人間はセックスをするのか”という根源的な真理を追求しようとしているのでは」
1回目の投票では一人2票ずつ投じました。結果は以下の通りです。
『宮城 1973 〜のぞまれずさずかれずあるもの〜』−
『月漸く昇る』 –
『Gloria』 坂手
『郊外組曲』 坂手 篠原 瀬戸山 土田 マキノ
『泳げない海』篠原 瀬戸山 佃 土田 マキノ 渡辺
『盲年』 佃 渡辺

<投票結果> 黒丸が1回目、赤丸が2回目。
休憩後、言い足りなかったことなどを述べ合う時間となりました。
『盲年』について篠原氏は「上演に期待できる作品だが、戯曲のコンクールとしてはどうか」と指摘。『月漸く昇る』について土田氏は「転換の多さや場所の選定などが甘く、どういう場所でどういう会話を行えばドラマが生まれるかを考えてほしい」と技術的な面を問題に挙げました。『郊外組曲』について瀬戸山氏は「町が壊れていく様が描かれているのが面白い」と評価。『泳げない海』についてマキノ氏は「資本主義社会に対する怒りをユーモアや優しさで乗り越えようとする姿勢が好印象」と述べました。
決選投票は一人1票ずつ投票。『郊外組曲』に瀬戸山氏、土田氏が、『泳げない海』に坂手氏、篠原氏、佃氏、マキノ氏、渡辺氏が投じ、5票を獲得した三吉ほたて氏の『泳げない海』が受賞作となりました。
選評
坂手洋二
なぜ私たちは「新人戯曲賞」を設けているのか。それは、四半世紀以上前、劇作家協会が、「すぐれた新作を生み出すための協会」として発足したからである。この賞は、その「初心」を確かめる場である。
今年の最終候補作は、一読してわかりやすいものばかりであった。同時に、せりふで説明しすぎる傾向が認められる。最終審査に残った半数が、ほぼまっさらの「新人」の作であることも、関係あるのだろう。
正直に言えば、これは絶対に受賞させたい、という作品が、最終候補の中になかった。残念である。一次・二次審査で、貴重な作品を取りこぼしてしまっている可能性もある。この賞の仕組みじたい、現在の演劇の多様化に対応して更新されてゆく必要があるような気がしている。
大西弘記さんの『宮城1973〜のぞまれずさずかれずあるもの〜』。
この作品のわかりやすさ、読みやすさは、内容を「整理する」ことが優先された結果であり、作者の肉声が感じられない。語り部たる新聞記者の内省も、あまりにもありきたりである。
男女間の会話は、家父長制的価値観が強く反映されており、差別的に響くところが多い。「当時だったら当然」なのかもしれないが、それを無批判に、むしろ作品の「味わい」として描くことを選んでしまってはいないか。対象に選んだ人物・事実に、作品自体が「依存」しているように感じられる。
ご都合主義の展開が強くなっていく後半は、登場人物をテーマのために存在させているように受けとられても仕方がない。とくに「4 (夢と現実の狭間で)」には、疑問がある。「何カ月」という単位や、妊娠状況だけで人間の存在を見てしまうのは、ステレオタイプであり、「差別」の再生産になる可能性さえ生じてしまう。作者の真摯さが空転していることが残念である。
在原彩生さんの『月漸く昇る』は、女性史研究家・高群逸枝についてとことん調べて書いた、熱意ある大作である。「書きたい」という一念は尊い。将来この年のこの賞を振り返ったとき、「あの年は「高群逸枝」が出てきた年だったね」と、記憶されてゆくのではないかと思うほどだ。
ただ、残念ながら、未完成である。「紹介」であることを越えられていない。三人の幼なじみの存在に顕著だが、登場人物がただ並べられただけという印象は拭えない。
方言への挑戦は評価できる。ただ、「ばってん」「ごたる」を多発しすぎで、言葉としての魅力を引き出すには至っていない。『五木の子守唄』も象徴的な唱歌としてでなく、生活の中で歌われたほうがよかったと思う。
主人公の変遷を「出来事」の羅列として描くのではなく、高群逸枝自身の研究対象にもある「妻問婚」のように、彼女の定住に留まらない人生を、現在の視点から、夫婦、家族のあり方を模索するものとして捉え直すことも、可能だったのではないか。素材を越える「オリジナリティ」を発見してほしかったと思う。
奥村千里さんの『Gloria』。
作品のまとまりの良さはピカイチである。ただ、評伝劇として回想型というスタイルを選んだにも関わらず、その機構を生かせていない。マレーネへのインタビューが行われた時期が特定されていないため、インタビュアーと主人公の葛藤により展開が膨らむ可能性を自ら捨ててしまっている。例えば、仮に「現在」をレッドパージの時代とし、取材者レーマンをニューディール世代として造形すれば、戦中・戦後の大きな動きと個人を対比させるスケールを獲得できたはずである。
本作で最大に魅力があるのは、歴史の「If (もしも)」を取り込んだことだ。母国と決別したマレーネが「もしも自分が違う道を選んでいたら?」「戦争を回避して何百万という人の命を救える道があったんじゃないかって。それを選ぶことが出来たのは、世界で一人、私だったのかもしれない」と自問し葛藤する件りである。ただ、ゲッベルスとの葛藤もプロットとして発展せず、ドラマティックにならない。ネオナチ、ネトウヨの棲息する現在からの視座を取り入れることも、できたはずである。
ダニーが第一印象で彼女を差別していたことを告白するくだりはすぐれていて、魅力的な登場人物を描く堂々とした腕力を感じさせる。今後に期待したい。
方丈栖さんの『郊外組曲』は、「上演台本」的な描き方であることが幸いして、スケッチ的な切り取り方が、内容に見合っている。
魅力的な空間の取り出し方ができる人で、とくに遊園地の場面が印象的である。「わたし、ここから出たことないんだ」というせりふが、いい。
また、消費社会の象徴であるショッピングモールという「空間」の描き方も好ましく感じた。いわゆる「演劇脳」でないところで書こうとしているからだと思うし、そこにこの作品の存在価値がある。
展開に偶然が多く、「思わせぶり」に書いている印象もある。そして、どこにも収斂していかない。尻すぼみである。だが、それがあまり欠点に見えないのは、「現在」という時間の手触りを戯曲に定着させようとする作者の関心が、作品を牽引できているからだろう。
三吉ほたてさんの『泳げない海』。
まさに新人らしい作品で、初々しく、生き生きとしている。
ある意味、リアリズムである。作者は、この世界を知っている。だが、そこに留まらず、「劇の空間」を信じて書いている、という気がした。演劇というジャンルが自由である、と受け止めているのだろうと、信じる。
舞台を職員室にしていることには、いろいろと限界がある。やはり「作りすぎ」になってしまう側面があるように思う。
時々、びっくりするくらい、ディティールが、いい。「死」について高校生が語るところ、貧困について描くときの、節度。そして、生徒と教師の力関係はいかにも「劇的」に変わったりはしない。現実はそういうものなのだろう。
せりふで説明しすぎであると感じるときもあるが、あえて表面化しない部分で起きている出来事を想像させるところに、魅力がある。
読み返していて、里美先生が、北海道に来たのに、学園祭の時期までジンギスカンを食べたことがない、というエピソードが、あらためて印象に残った。里美先生は、そこまで周りのことに構わずに、自分自身に向き合い、教員としてすべきことに集中していたのだ。そうした細部が生きている戯曲であることをあらためて認識し、受賞作として推した。
藤井颯太郎さんの『盲年 (もうねん)』。
能の『弱法師』を下敷きにして創作するモチベーションとは、どのようなものか。だとしたら、それが「貴種流離譚」であることは、意識されているだろうか。疑問も多いのだが、作者が感じる「いま」、直観的に描いている部分を、信じたいと思う。
実は、わりと「ありきたり」という印象を受ける。「演劇だからこんなことができる」という安直さの連続は、本当にそれでいいのか、見つめなおすべきところがあるような気がする。苦言を呈しているようだが、この作者は意外とたやすくそこをクリアしてくれるのではないかと信じる。それだけのエネルギーがあるように思う。
篠原久美子
全作品ともそれぞれの長所を生かされた、読み応えのある作品でした。
『宮城 1973~のぞまれずさずかれずあるもの~』は、今の社会問題よりも心にかかった問題を書かれる作家の題材選びの潔さに長所のある作品だと思いました。人間ドラマとして緊迫感があり、心を揺さぶられるシーンもあって上手さを感じます。惜しいと思いましたのは、菊田医師の正しさに作劇上の揺らぎがないことと、子どものアイデンティティの問題があいまいに流された印象があることですが、なによりも、子どものいのちと母親の人権が、なぜ、「戸籍」という、世界でも稀な、「家を中心とした特殊な個人管理制度」によって犠牲になるのかという本質を、もっと掘り下げる深さか、俯瞰で見る大きさが欲しかったと思うところです。日本独特の問題が沼底から浮かぶような題材を選んでおられるだけに惜しいと思われました。
『月漸く昇る』は、女性史研究の草分けである高群逸枝を題材にした評伝劇ですが、地道で丁寧な調査に基づいた力作で、頭の下がる思いで拝読しました。「高群逸枝を書きたい」という作家の動機の力強さが伝わってきて、それがなによりの長所となっていると感じられます。魅力的なエピソードを作る力もお持ちですし、あとは、それらを、誰に、どのように、どこで、どの情報提供の順序で、どう語らせると効果的か、ということを考えられる技術的な構成力や、名前のない登場人物を紋切型で書かない工夫などを意識されましたら、飛躍的に上手くなられる方ではないかと期待します。この作品を、大きな養分を含んだ堆肥として、更に改稿された作品が豊かに実られますことを、心待ちにしています。
『Gloria』は、拝読しているだけで映画のシーンのように人物の表情や情景が見えてくるせりふ術に長所のある作品と思いました。登場人物もそれぞれに魅力があって、やりがいをもって俳優たちに愛される作品と思います。特にゲッベルスの登場は秀逸です。審査会でも上がっていましたが、起承転結でいうところの「起」の部分で提示されたマレーネとレーマンの状況と関係性が、過去への長い旅を経て、「結」においてなんらの変化ももたらしていないことが、魅力的なエピソードもあっただけに、惜しいと思いました。せりふは俳優、構造は作品のためにあると思いますが、前者の優れた作家さんですので、後者を更に磨いていただけましたら、大劇場でのエンターテインメント作品もお書きになれる方ではないかと期待します。
『郊外組曲』は、幕開きがずば抜けて面白く、「これはすごい作品が来た」と興奮して読み進めました。人物のやりとり、起こる事件の謎とそこに観客の興味を惹きつける情報の出し方加減、場の終わり方と次の場の始まり方の遠さ加減など、全てが絶妙で、その上手さと面白さに舌を巻きました。特に、ある人々にしか聞こえない「ゴジラみたいなでかい恐竜」の「断末魔」の「痛みに叫び声をあげているような」「声」、という設定が、地球環境汚染や人類の漠たる不安の暗喩とも取れ、抜群に魅力的でした。それだけに、ラストの「これで終わり?」という肩透かし感が、本当に惜しいと思いました。一曲ずつがどれも素晴らしくレベルの高い、しかし「未完成組曲」のように思え、残念でなりません。
『泳げない海』は、背景にある状況の理不尽さや悲しさが垣間見えながら、それらのどうしようもなさのなかで生きることの「普通の過酷さ」を描こうとする作品で、心を動かされながら拝読しました。理不尽に慣れることでしか生きることのできない生徒たちと教員たちの会話のやりとりが明るく、その底に通奏低音のように、泳げない冷たい海の音が響き続けているようで、それが海底火山の爆発のように沸騰する瞬間があり、そこに作家のまっとうな怒りを感じます。現代日本の児童・青少年に目を向けたときに、最も書いていただきたい題材の一つを、現実を見つめる透徹した目と愛情のある筆致で描いていただいた秀作と思います。受賞、おめでとうございます。
『盲年』は印象的な作品でした。冒頭は、その差別的な表現の連続に胸を痛めましたが、やがてその矛先の向かうところへの興味が痛みを凌駕していきました。能の『弱法師』を下敷きに、陰影・美醜の境のグラデーションに棲む魂を独特の筆致で描いており、惹きつけられるところがありました。特に「梅」の語る「この世界には、誰も憎めずに苦しんでいる人がいる。だったら、あたしを憎んでもらおう。」という言葉には、歪んだ博愛さえ感じます。ある世代の知識人に確かにあった「露悪という生き方」が霧消して久しく、多くの若い方々が繊細で優しくなっていることを私は好もしく考える者のひとりですが、そうした優しく人を責めない世代のなかに新しく「博愛の悪役」が生まれていることに、ある種の救いと哀しみを覚えました。
瀬戸山美咲
『郊外組曲』を一番に推しました。ある街で暮らす人々の姿を通して、街がひそかに終わっていく様を描く作品です。すでに死んでいるのに動き回る「孔」という男の存在が街そのものを体現していて面白いと思いました。放射性物質が流出したという直近の事故が終焉のきっかけになっているように見えますが、もっと前からユイという女性には「静けさの音」が聴こえていて、すでに街は終わり始めていたというのも、私たちが生きる現代日本の空気を象徴しているように感じます。何より台詞が巧く、何気ない日常の会話の中に人物たちの気分がよく現れていました。特に終盤、リミという登場人物が街を離れるとき、子供の頃から通っていたショッピングモールで発した「向こうにもあるかな、イオンとか。あるといいな」という台詞に胸を打たれました。彼女の家はお金があるから街を離れられるのですが、その彼女にとってもこの街のショッピングセンターはかけがえのないものだったことが伝わってきます。日本中に似たような商業施設があったとしても、そのひとつひとつに人の記憶があるということをちゃんと描いていて好感が持てました。
『泳げない海』も興味深く読みました。お金がないことでこの世界を「泳げない」と感じる子供たちと対峙するうちに、お金に対して罪悪感を描いていた教師が再生するという、よくできた構成の戯曲でした。テーマがはっきりしている分、少しだけ登場人物が作者の作為で動いているように見える箇所もありましたが、魅力的な登場人物がたくさん登場するので上演はおおいに盛り上がるだろうと想像できました。
『宮城 1973~のぞまれずさずかれずあるもの~』は事実をベースにしながら、説明的だとは感じさせない構成が巧いと思いました。ただ、「子供を持つのはよいこと」という価値観が疑いなく提示されているのが気になりました。もう少し本質的な「なぜ子供を持ちたいと願うのか」ということも書けば現代につながる物語になったと思います。
『月漸く昇る』はとても丁寧に描かれた戯曲でした。特に逸枝と憲三の支え合う夫婦関係が興味深く、憲三の捨てきれないプライドのようなものには現代の男性にも通じるものを感じました。このふたりに焦点を絞ったら、より面白くなると感じました。
『Gloria』は “匂い”のある戯曲で、舞台上の光や闇がイメージできました。マレーネとゲッベルスに会話をさせるというのも演劇だから可能な表現だと思います。レーマンが聞き役に徹していて、マレーネが語ることが絶対的になっているのが気になりました。
『盲年』は、善意の皮をかぶった悪意があふれる現代に投げかけられる皮肉の効いた台詞が魅力的な作品でした。作品としては全体的な像を結べない感覚がありましたが、「被害者ぶる人間が多すぎるこんな時代に、加害者ぶってやろう」「優しさを裏切りたい」など、ひとつひとつの言葉は鮮烈に印象に残っています。
今年、初めて審査員を務めることになり、責任の大きさを強く感じています。発した言葉はすべて自分自身の戯曲に返ってきます。戯曲を書くことは身を削るような作業ですが、大切なのは書き続けることだと思います。候補者のみなさんとは、同時代を生きる劇作家としてお互い刺激しあう関係であれたら嬉しいです。
佃 典彦
どうも、名古屋のミラーマン佃でございます。
今回、驚いたのは初めて戯曲を書いた方や書き始めて1年の方が6作品のうち3本あったことです。
しかも全く経験不足感など微塵もなく、もちろん200本以上の作品群から最終候補に残った訳ですから当たり前なんですが・・・それにしても執筆というのは経験や手法などではなくて作者の<書きたい>執念なのだなぁと感じた審査会でした。
『宮城 1973~のぞまれずさずかれずあるもの~』
実際にあった事件を題材にした作品です。菊田医師の辿った経緯を非常に丁寧に取材して書かれていて、しかも記者の藤岡の視線から見た事件の感想を通して菊田医師たち、病院の人間の心情を判り易く提示されていて好感の持てる作品だったと思います。しかしながら少々、真っ直ぐ過ぎる気がするのです。特にシーン4の夢の場面は作者の精神が一番投影出来る部分なのですが月並みで勿体無い。
この事件、菊田医師の思想を通して<正義>とは一体何かについて作者自身の精神が垣間見たいのだけど残念ながら見えてこないのです。実在の人物、しかも記憶に新しい人物を題材に書くのはやはり難しいのだろうなと思いました。
『月漸く昇る』
とても初めて書いたとは思えない力作、しかも丁寧に事象が描かれていてすごい新人作家が現れたと驚きました。
この作品も実在した詩人で歴史学者の高群逸枝を題材に書かれた作品です。参考文献もたくさん読まれて研究されたと思いますし、何よりこの人物を描きたいという熱意を感じました。
『宮城 1973』にも似たことを感じたんですが、実在の人物や歴史上の人物を題材にする時には注意しなければならないポイントがあると思ってます。その人物の思想に劇作家が寄り添ってしまっては良くないのではということです。もちろんその人物を愛さなければ書くことは出来ません。でも<愛すること>と<寄り添うこと>は別次元のことだと思っています。愛しながらも距離を置くことが大事であり、その距離の狭間にフィクション性が生まれ、そこにこそ劇作家自身の精神が見えてくるのだと思います。
『Gloria』
大変面白く読んだ作品です。
しかし僕にはちょっと照れ臭い感じがして仕方ありませんでした。物語も登場人物も良く書けているんだけど読んでいて照れ臭い。外国人特有のユーモアが照れ臭いのか台詞じたいが照れ臭いのか、その正体が中々見つけられずに審査会に挑みました。僕が読んだ感覚よりも恐らく実際の舞台ではもっとショーアップされていたのかなとも思いました。歌やダンスがもう少しクローズアップされていたのでないかしらん。
ゲッベルスの立ち位置は今までの僕の常識から遠いところにあって非常に面白かったです。
『郊外組曲』
中盤までノンストップ、文句なしに面白い! セリフも抜群に上手いし謎の提示の仕方も見る側(読む側)の想像力を膨らませるノイズも素晴らしかったです。ところが終盤、どういう訳かいきなり尻切れトンボのよう様な印象で終わってしまいました。リミが母親とこの町から引っ越すことになったラストシーン11がすごく勿体無い。
この町の危機を一番理解している青柳と娘のリミと母親の聡美、この3人の中で<引っ越す>ことに対する葛藤が描かれていないので尻切れトンボと言うか、ラストを急いじゃった感じがしてしまうのです。
それとこの作品はどうしても映像作家の脳で書かれている気がしてなりません。戯曲であるならばシーン8に少しだけ登場するサトシ君の家族、この平日に遊園地に来た家族だけでこの物語を描き切ることも可能であると僕は確信しております。とは言うものの、すごく面白い作品でワクワクしながら読みました。
『泳げない海』
僕はこの作品を一等賞に推しました。実は二次審査でもこの作品を読んでおり、その清々しさに点を入れたのですが今回読み返してみても読後の清々しさは変わることなく、むしろ「ここに学校の理想が詰まっている、理想郷だ!」とさえ感じました。登場人物も活き活きしていて生徒たちの表情や声も目に浮かぶようでした。
職員室に入れ替わりやって来る生徒たちにも不自然な感じは見当たりません。
この作品が書き始めて1年しか経っていない劇作家が書いたものだと知った時の衝撃は非常に大きかった。
「金が欲しい」という生々しさも劇中、一貫しているように僕は思いました。
『盲年』
登場人物表もなければ時系列も掴み難い、なかなか不親切な作品です。
『弱法師』を下敷きに書かれていることは明らかにされていますが、いかんせん能に詳しくない僕は読みながら途方に暮れるばかりでした。が、所々突き刺さるようなセリフに心を奪われる自分に気付いた辺りから作品世界に引き込まれました。<加害者ぶらなければ生きていけない><遊びじゃないと生きていけない><地獄を引き摺っていないと生きていけない>登場人物たちの過去と現在の狭間での葛藤が切実で、このひっ迫感が作品の魅力になっていると思いました。6作品の中では一番切実な感じがして僕はこの作品も推しました。
恐らく舞台を観たらまた違った感覚なんだろうと思います。
以上、選評でした。
土田英生
今年は私にとって絶対に推したいという一本が見つからなかったので、候補作を見回して相対評価になった。ただ、尺度がそれぞれに違うという難しさがあった。
圧倒的に上手いと感じたのは方丈栖さんの『郊外組曲』で、さりげない会話で興味を喚起する力は群を抜いていたと思う。サスペンス要素もあったし、何より台詞のこなれ方がいい。しかし劇世界は上手さの先にはなかなか深まっていかず、ラストでは肩透かしを食らわされたような気分になった。
奥村千里さんの『Gloria』は史実を使い、そこにフィクションを入れ込み、結果として今の社会に切実な問いを投げかける作品になっている。惜しいのは現代のインタビューシーンで、ただの回想との行き来として機能してしまっている。せめて冒頭とラストでの変化があればドラマの輪郭がもっと鮮明になったと思う。
大西弘記さんの『宮城 1973~のぞまれずさずかれずあるもの~』も実在の人物をモデルにした作品だったが、ここで私が気になったのは作者の立ち位置だった。主人公となっている菊田医師にシンパシーを感じて書いたことは明らかなのだが、作者がそこにどのように入り込んでいるかを感じられなかった。その点で迫力を欠いてしまっている。
同じく高群逸枝の評伝劇である『月漸く昇る』は作者、在原彩生さんの初めての戯曲だと知って驚いた。調べた文献の分量が半端なく、さらになんでもないト書きの細部にまでこだわりが見て取れた。ただ、劇を書く経験の不足からか戯曲を書く上でのスキルが足りていないのが惜しい。群像劇としても魅力的なので実際の上演を想定して改稿をして欲しい。
藤井颯太郎さんの『盲年』は能の『弱法師』を下敷きに書かれている作品だが、作者のイメージの広がりに翻弄された。私の想像力ではついていけない部分が多々あった。登場人物は誰一人として安心できるキャラクターが存在せず、全員が過剰であり、感情移入を拒絶する。私の力が足りなかったせいか、うまく掴むことができなかった。
受賞作となった三吉ほたてさんの『泳げない海』は爽やかな読後感で、飽きずに最後まで読める。ただ、私には場とシーンの切り取り方が引っ掛かった。これだけの登場人物で学校を描くことの難しさは理解できる。それをクリアする工夫が一つ欲しい。生徒たちの造形にはそれぞれ大変魅力があって、特に私は中野が可愛くて仕方なかった。
新人戯曲賞の場合、審査するのも全員が劇作家である。自分のことを棚に上げてあれこれ注文をつけているだけだ。だからこそ、都合のいい言葉だけを拾いそれぞれが自分の目指す作品を書いていって欲しい。賞は絶対的なものではないと思う。
マキノノゾミ
大西氏の『宮城 1973~のぞまれずさずかれずあるもの~』は、かつて実際に起こった産婦人科医による赤ちゃん斡旋事件を題材にした、いわばノンフィクション・ドラマである。内容についてはそれ以上でも以下でもない。当然このような戯曲もあっていい。つねに「人間の善美なるもの」を追求しようとする作者の創作態度にも好感を抱いている。問題は全体的に台詞から説明臭が抜けきっていないことである。登場人物たちもそれなりに巧く書かれてはいるが、まだまだ定型的である。主役の菊田医師にも「トーチカ」と呼ばれるほどには際立った個性が付与されていない。総じて人物たちに生っぽさが足りない。リアリティのある台詞とは、もっと身体性に裏打ちされたものである。作者にはすでにじゅうぶんな劇作技術があり、その点に気づくことができれば、この作品はもっと迫力を持ったものになると思う。そうなれば4場の夢のシーンなどは不要になると思う。
在原氏の『月漸く昇る』は、明治生まれの詩人で女性史研究家・高群逸枝の半生を描く評伝劇である。まずこれが作者の処女作だと聞いて驚いた。大劇場仕様の場割、ト書きの書き様など作法的にも大変しっかりとしていて、実に堂々たる書きぶりである。読み込んだ資料の量も立派なものだ。ただし、戯曲としてはまだまだ「面白く」は書けていない。面白くなりそうな逸話や材料はふんだんに盛り込まれているのに、それらを活かすことができていない。実に歯痒くてならない。モデルの高群氏におそらく作者自身が深く傾倒している所為もあろうが、全編に渡って主人公を安易に礼賛しすぎている。主人公と対立・葛藤するキャラクターをもっと掘り下げて造形しなくてはならない。作者には、この先、幾度も改訂を重ねて練り上げていってほしいと切に希望する。これは真に偉大な傑作となり得るだけのポテンシャルを秘めた作品である。
奥村氏の『Gloria』は、映画女優マレーネ・デートリッヒが第二次大戦中に欧州戦線で行った慰問活動を回想する「デートリッヒ小伝」といった趣の作品。手堅くまとまっていて面白く一気に読んだ。特に、要所でマレーネの幻想にゲッベルスが現れては彼女の複雑な葛藤を浮き彫りにするという仕掛けがいい。彼の「第三帝国は滅んでもファシズムは世界に生き続ける」という予言的台詞もこの作品に現代性を与えている。常套的な手法ではあるが、インタビュアーのレオには劇の冒頭でもっとはっきりとした批判的な姿勢を持たせた方が良かった。幕切れも当然変わることになるが、作品の構造はずっと締まると思う。この芝居の最大の魅力は主人公の惚れ惚れするような格好良さに尽きるので、個々の台詞はもっと磨かれなくてはいけない。ハリウッド映画風の掛け合い台詞などはもっとシラブル数を減らしてテンポを上げる工夫が必要である。
方丈氏の『郊外組曲』は何やら放射能のごときもの(明示はされない)に侵されてゆく都市郊外を舞台にした群像劇である。この作者はリアルな台詞まわしと個々の場面の構成がとても巧い。特に冒頭の場面など完璧といっていい。人々のリアルな日常の断片との対比で「何かが始まっている」「そしてそれは相当にやばい」というイヤな恐怖の予感がいっそう際立つ。確かに、私たちの暮らす社会とは、現実に、そのような見えざる恐怖と隣り合わせの脆弱性を持っている。この作品はそれを告発というでもなく、ただ静かに告げている。怖い。佃氏のように「これはシナリオであって戯曲ではない」という見方もできるとは思うが、この過剰にリアルな台詞だけを武器にして最小限の人数と道具立てで上演できれば、それはじゅうぶんに演劇的な仕掛けなのではないかと私は思った。見えざる恐怖というのは映像よりむしろ演劇的な想像力との相性がいいように思う。
受賞作となった三吉氏の『泳げない海』は、北海道の高校を舞台とした教師たちと生徒たちとの多幸感あふれる交流の物語である。登場人物たちの台詞はどれもみずみずしくて素敵だ。あまりに幸せな情景なので、ほとんどファンタジーとして読んだ。といって決して甘いばかりの作品ではない。作中にはずっと貧困や格差の問題が伏流しているし、おそらくいじめや教師の疲弊といった学校を取り巻くよりシリアスな諸問題もすぐ隣り合わせに感じさせる。きっと作者の根底には、人間の友情や希望をいともたやすく破壊する「経済優先の風潮(より端的にいえば金)」に対する、いわば復讐心のような激しい思いがあるのだと思う。しかしその桎梏を乗り越えるのに糾弾ではなく、ユーモアをもって対しようとした姿勢に私は打たれる。ときにユーモラスな筆が走りすぎ、登場人物たちの個性が均一化されてしまう箇所があるのが唯一の憾みだった。
藤井氏の『盲年』は、盲目となった息子と十五年ぶりに父親が再会するという、能『弱法師』の結構を下敷きに書かれた奇妙な味わいの作品。会話のテンポも現代的で軽く、乾いたギャグの応酬があったりして全体的に面白可笑しく読ませる。かと思うと自分の影の中に地獄があって「この星に住む誰もが、必ず一つ、常に地獄を持ち歩いている。すごいことだよこれは!」といった奔放なイメージの台詞が随所に出てきて、その言語感覚にも非凡なセンスを感じる。ただト書きまでもが奔放すぎて、私には現実の舞台がどうにも想像できなかった。作者は写真家、映像作家、振付家といった様々なクリエーターたちと共同で演劇を創作しており、おそらくこれはそういう様々な作家たちの想像力を刺激する(というか挑発する)目的で書かれたテキストなのだと思う。その前提込みの作品であって、純粋に戯曲としての評価は私には難しかった。
今年は実在の人物に想を得た評伝劇が3本並ぶという珍しい年だった。それぞれが力作だと思うが、同時にそれぞれが惜しいと強く感じた。三吉氏の受賞作は作者の筆の運びも読んでいるこちらも「ともに愉悦的」というまことに幸福な作品であり、その点を高く買った。
渡辺えり
大西さんの作品はテーマも興味深く、力作である。私は個人的に身につまされ泣いたシーンもあった。しかし、この事件があった年から今日まで、何が変わって何が同じ状況なのか? 大人たちの保身や建前のために殺されていく小さな命、そして未だに続く男尊女卑からくる妊娠出産に伴う様様な課題。それらに対する作家の思いを更に強く出して欲しいと思った。うまくまとめようとしなくても良いのでは?
在原さんの作品も力作でご自分の人生を賭けて書こうとする気力に満ちている。取り組むテーマも素晴らしい。これからどんどん書いていっていただきたい。夫や親友とのエピソードを深め、場面が細切れにならないよう再構成していただきたい作品である。
奥村さんの作品は達者で独特なリズムの個性的な台詞回しが面白い。しかし、実在の人物、しかも誰もが知っているスターのエピソードに対して向き合う時こちらも過度に期待する。戦争に利用され翻弄された面と自立した精神との葛藤の中に意表を突くリアリティーが欲しくなる。
方丈さんの作品は独特の空気感があり、生きているのか死んでいるのかはっきりしない登場人物がみなどこかフリークで面白い。しかし、役者が一役で挑むならやる気をなくすほどの出番の少なさで、何役も兼ねるような意図もなそうなのが残念である。無人の観覧車の場面は昔読んだ中村賢治さんの戯曲に、偶然だろうが、酷似していた。
三吉さんの作品は台詞が面白い。リズミカルで生き生きしている。特に女子のキャラクターにオリジナリティーを感じる。新しい。みんなが何かに拘っていて、その拘りが「生きる」ことの意味に繋がっていく。自死した親友の精神の謎を一生かかって解明しようとしているような教師の存在にも共感した。
藤井さんの『盲年』は非常に面白く読んだ。『弱法師』を下敷きにしたとのことだが、異常な格差社会の現代を滑稽なほどに残酷に描き、痛いほどのリズムで場面が交錯するのも面白い。時代と時間、シュールとリアルが重なり、ある時は顕微鏡で見るように、ある時はかなり遠くから俯瞰しているような作品である。


坂手洋二
なぜ私たちは「新人戯曲賞」を設けているのか。それは、四半世紀以上前、劇作家協会が、「すぐれた新作を生み出すための協会」として発足したからである。この賞は、その「初心」を確かめる場である。
今年の最終候補作は、一読してわかりやすいものばかりであった。同時に、せりふで説明しすぎる傾向が認められる。最終審査に残った半数が、ほぼまっさらの「新人」の作であることも、関係あるのだろう。
正直に言えば、これは絶対に受賞させたい、という作品が、最終候補の中になかった。残念である。一次・二次審査で、貴重な作品を取りこぼしてしまっている可能性もある。この賞の仕組みじたい、現在の演劇の多様化に対応して更新されてゆく必要があるような気がしている。
大西弘記さんの『宮城1973〜のぞまれずさずかれずあるもの〜』。
この作品のわかりやすさ、読みやすさは、内容を「整理する」ことが優先された結果であり、作者の肉声が感じられない。語り部たる新聞記者の内省も、あまりにもありきたりである。
男女間の会話は、家父長制的価値観が強く反映されており、差別的に響くところが多い。「当時だったら当然」なのかもしれないが、それを無批判に、むしろ作品の「味わい」として描くことを選んでしまってはいないか。対象に選んだ人物・事実に、作品自体が「依存」しているように感じられる。
ご都合主義の展開が強くなっていく後半は、登場人物をテーマのために存在させているように受けとられても仕方がない。とくに「4 (夢と現実の狭間で)」には、疑問がある。「何カ月」という単位や、妊娠状況だけで人間の存在を見てしまうのは、ステレオタイプであり、「差別」の再生産になる可能性さえ生じてしまう。作者の真摯さが空転していることが残念である。
在原彩生さんの『月漸く昇る』は、女性史研究家・高群逸枝についてとことん調べて書いた、熱意ある大作である。「書きたい」という一念は尊い。将来この年のこの賞を振り返ったとき、「あの年は「高群逸枝」が出てきた年だったね」と、記憶されてゆくのではないかと思うほどだ。
ただ、残念ながら、未完成である。「紹介」であることを越えられていない。三人の幼なじみの存在に顕著だが、登場人物がただ並べられただけという印象は拭えない。
方言への挑戦は評価できる。ただ、「ばってん」「ごたる」を多発しすぎで、言葉としての魅力を引き出すには至っていない。『五木の子守唄』も象徴的な唱歌としてでなく、生活の中で歌われたほうがよかったと思う。
主人公の変遷を「出来事」の羅列として描くのではなく、高群逸枝自身の研究対象にもある「妻問婚」のように、彼女の定住に留まらない人生を、現在の視点から、夫婦、家族のあり方を模索するものとして捉え直すことも、可能だったのではないか。素材を越える「オリジナリティ」を発見してほしかったと思う。
奥村千里さんの『Gloria』。
作品のまとまりの良さはピカイチである。ただ、評伝劇として回想型というスタイルを選んだにも関わらず、その機構を生かせていない。マレーネへのインタビューが行われた時期が特定されていないため、インタビュアーと主人公の葛藤により展開が膨らむ可能性を自ら捨ててしまっている。例えば、仮に「現在」をレッドパージの時代とし、取材者レーマンをニューディール世代として造形すれば、戦中・戦後の大きな動きと個人を対比させるスケールを獲得できたはずである。
本作で最大に魅力があるのは、歴史の「If (もしも)」を取り込んだことだ。母国と決別したマレーネが「もしも自分が違う道を選んでいたら?」「戦争を回避して何百万という人の命を救える道があったんじゃないかって。それを選ぶことが出来たのは、世界で一人、私だったのかもしれない」と自問し葛藤する件りである。ただ、ゲッベルスとの葛藤もプロットとして発展せず、ドラマティックにならない。ネオナチ、ネトウヨの棲息する現在からの視座を取り入れることも、できたはずである。
ダニーが第一印象で彼女を差別していたことを告白するくだりはすぐれていて、魅力的な登場人物を描く堂々とした腕力を感じさせる。今後に期待したい。
方丈栖さんの『郊外組曲』は、「上演台本」的な描き方であることが幸いして、スケッチ的な切り取り方が、内容に見合っている。
魅力的な空間の取り出し方ができる人で、とくに遊園地の場面が印象的である。「わたし、ここから出たことないんだ」というせりふが、いい。
また、消費社会の象徴であるショッピングモールという「空間」の描き方も好ましく感じた。いわゆる「演劇脳」でないところで書こうとしているからだと思うし、そこにこの作品の存在価値がある。
展開に偶然が多く、「思わせぶり」に書いている印象もある。そして、どこにも収斂していかない。尻すぼみである。だが、それがあまり欠点に見えないのは、「現在」という時間の手触りを戯曲に定着させようとする作者の関心が、作品を牽引できているからだろう。
三吉ほたてさんの『泳げない海』。
まさに新人らしい作品で、初々しく、生き生きとしている。
ある意味、リアリズムである。作者は、この世界を知っている。だが、そこに留まらず、「劇の空間」を信じて書いている、という気がした。演劇というジャンルが自由である、と受け止めているのだろうと、信じる。
舞台を職員室にしていることには、いろいろと限界がある。やはり「作りすぎ」になってしまう側面があるように思う。
時々、びっくりするくらい、ディティールが、いい。「死」について高校生が語るところ、貧困について描くときの、節度。そして、生徒と教師の力関係はいかにも「劇的」に変わったりはしない。現実はそういうものなのだろう。
せりふで説明しすぎであると感じるときもあるが、あえて表面化しない部分で起きている出来事を想像させるところに、魅力がある。
読み返していて、里美先生が、北海道に来たのに、学園祭の時期までジンギスカンを食べたことがない、というエピソードが、あらためて印象に残った。里美先生は、そこまで周りのことに構わずに、自分自身に向き合い、教員としてすべきことに集中していたのだ。そうした細部が生きている戯曲であることをあらためて認識し、受賞作として推した。
藤井颯太郎さんの『盲年 (もうねん)』。
能の『弱法師』を下敷きにして創作するモチベーションとは、どのようなものか。だとしたら、それが「貴種流離譚」であることは、意識されているだろうか。疑問も多いのだが、作者が感じる「いま」、直観的に描いている部分を、信じたいと思う。
実は、わりと「ありきたり」という印象を受ける。「演劇だからこんなことができる」という安直さの連続は、本当にそれでいいのか、見つめなおすべきところがあるような気がする。苦言を呈しているようだが、この作者は意外とたやすくそこをクリアしてくれるのではないかと信じる。それだけのエネルギーがあるように思う。
篠原久美子
全作品ともそれぞれの長所を生かされた、読み応えのある作品でした。
『宮城 1973~のぞまれずさずかれずあるもの~』は、今の社会問題よりも心にかかった問題を書かれる作家の題材選びの潔さに長所のある作品だと思いました。人間ドラマとして緊迫感があり、心を揺さぶられるシーンもあって上手さを感じます。惜しいと思いましたのは、菊田医師の正しさに作劇上の揺らぎがないことと、子どものアイデンティティの問題があいまいに流された印象があることですが、なによりも、子どものいのちと母親の人権が、なぜ、「戸籍」という、世界でも稀な、「家を中心とした特殊な個人管理制度」によって犠牲になるのかという本質を、もっと掘り下げる深さか、俯瞰で見る大きさが欲しかったと思うところです。日本独特の問題が沼底から浮かぶような題材を選んでおられるだけに惜しいと思われました。
『月漸く昇る』は、女性史研究の草分けである高群逸枝を題材にした評伝劇ですが、地道で丁寧な調査に基づいた力作で、頭の下がる思いで拝読しました。「高群逸枝を書きたい」という作家の動機の力強さが伝わってきて、それがなによりの長所となっていると感じられます。魅力的なエピソードを作る力もお持ちですし、あとは、それらを、誰に、どのように、どこで、どの情報提供の順序で、どう語らせると効果的か、ということを考えられる技術的な構成力や、名前のない登場人物を紋切型で書かない工夫などを意識されましたら、飛躍的に上手くなられる方ではないかと期待します。この作品を、大きな養分を含んだ堆肥として、更に改稿された作品が豊かに実られますことを、心待ちにしています。
『Gloria』は、拝読しているだけで映画のシーンのように人物の表情や情景が見えてくるせりふ術に長所のある作品と思いました。登場人物もそれぞれに魅力があって、やりがいをもって俳優たちに愛される作品と思います。特にゲッベルスの登場は秀逸です。審査会でも上がっていましたが、起承転結でいうところの「起」の部分で提示されたマレーネとレーマンの状況と関係性が、過去への長い旅を経て、「結」においてなんらの変化ももたらしていないことが、魅力的なエピソードもあっただけに、惜しいと思いました。せりふは俳優、構造は作品のためにあると思いますが、前者の優れた作家さんですので、後者を更に磨いていただけましたら、大劇場でのエンターテインメント作品もお書きになれる方ではないかと期待します。
『郊外組曲』は、幕開きがずば抜けて面白く、「これはすごい作品が来た」と興奮して読み進めました。人物のやりとり、起こる事件の謎とそこに観客の興味を惹きつける情報の出し方加減、場の終わり方と次の場の始まり方の遠さ加減など、全てが絶妙で、その上手さと面白さに舌を巻きました。特に、ある人々にしか聞こえない「ゴジラみたいなでかい恐竜」の「断末魔」の「痛みに叫び声をあげているような」「声」、という設定が、地球環境汚染や人類の漠たる不安の暗喩とも取れ、抜群に魅力的でした。それだけに、ラストの「これで終わり?」という肩透かし感が、本当に惜しいと思いました。一曲ずつがどれも素晴らしくレベルの高い、しかし「未完成組曲」のように思え、残念でなりません。
『泳げない海』は、背景にある状況の理不尽さや悲しさが垣間見えながら、それらのどうしようもなさのなかで生きることの「普通の過酷さ」を描こうとする作品で、心を動かされながら拝読しました。理不尽に慣れることでしか生きることのできない生徒たちと教員たちの会話のやりとりが明るく、その底に通奏低音のように、泳げない冷たい海の音が響き続けているようで、それが海底火山の爆発のように沸騰する瞬間があり、そこに作家のまっとうな怒りを感じます。現代日本の児童・青少年に目を向けたときに、最も書いていただきたい題材の一つを、現実を見つめる透徹した目と愛情のある筆致で描いていただいた秀作と思います。受賞、おめでとうございます。
『盲年』は印象的な作品でした。冒頭は、その差別的な表現の連続に胸を痛めましたが、やがてその矛先の向かうところへの興味が痛みを凌駕していきました。能の『弱法師』を下敷きに、陰影・美醜の境のグラデーションに棲む魂を独特の筆致で描いており、惹きつけられるところがありました。特に「梅」の語る「この世界には、誰も憎めずに苦しんでいる人がいる。だったら、あたしを憎んでもらおう。」という言葉には、歪んだ博愛さえ感じます。ある世代の知識人に確かにあった「露悪という生き方」が霧消して久しく、多くの若い方々が繊細で優しくなっていることを私は好もしく考える者のひとりですが、そうした優しく人を責めない世代のなかに新しく「博愛の悪役」が生まれていることに、ある種の救いと哀しみを覚えました。
瀬戸山美咲
『郊外組曲』を一番に推しました。ある街で暮らす人々の姿を通して、街がひそかに終わっていく様を描く作品です。すでに死んでいるのに動き回る「孔」という男の存在が街そのものを体現していて面白いと思いました。放射性物質が流出したという直近の事故が終焉のきっかけになっているように見えますが、もっと前からユイという女性には「静けさの音」が聴こえていて、すでに街は終わり始めていたというのも、私たちが生きる現代日本の空気を象徴しているように感じます。何より台詞が巧く、何気ない日常の会話の中に人物たちの気分がよく現れていました。特に終盤、リミという登場人物が街を離れるとき、子供の頃から通っていたショッピングモールで発した「向こうにもあるかな、イオンとか。あるといいな」という台詞に胸を打たれました。彼女の家はお金があるから街を離れられるのですが、その彼女にとってもこの街のショッピングセンターはかけがえのないものだったことが伝わってきます。日本中に似たような商業施設があったとしても、そのひとつひとつに人の記憶があるということをちゃんと描いていて好感が持てました。
『泳げない海』も興味深く読みました。お金がないことでこの世界を「泳げない」と感じる子供たちと対峙するうちに、お金に対して罪悪感を描いていた教師が再生するという、よくできた構成の戯曲でした。テーマがはっきりしている分、少しだけ登場人物が作者の作為で動いているように見える箇所もありましたが、魅力的な登場人物がたくさん登場するので上演はおおいに盛り上がるだろうと想像できました。
『宮城 1973~のぞまれずさずかれずあるもの~』は事実をベースにしながら、説明的だとは感じさせない構成が巧いと思いました。ただ、「子供を持つのはよいこと」という価値観が疑いなく提示されているのが気になりました。もう少し本質的な「なぜ子供を持ちたいと願うのか」ということも書けば現代につながる物語になったと思います。
『月漸く昇る』はとても丁寧に描かれた戯曲でした。特に逸枝と憲三の支え合う夫婦関係が興味深く、憲三の捨てきれないプライドのようなものには現代の男性にも通じるものを感じました。このふたりに焦点を絞ったら、より面白くなると感じました。
『Gloria』は “匂い”のある戯曲で、舞台上の光や闇がイメージできました。マレーネとゲッベルスに会話をさせるというのも演劇だから可能な表現だと思います。レーマンが聞き役に徹していて、マレーネが語ることが絶対的になっているのが気になりました。
『盲年』は、善意の皮をかぶった悪意があふれる現代に投げかけられる皮肉の効いた台詞が魅力的な作品でした。作品としては全体的な像を結べない感覚がありましたが、「被害者ぶる人間が多すぎるこんな時代に、加害者ぶってやろう」「優しさを裏切りたい」など、ひとつひとつの言葉は鮮烈に印象に残っています。
今年、初めて審査員を務めることになり、責任の大きさを強く感じています。発した言葉はすべて自分自身の戯曲に返ってきます。戯曲を書くことは身を削るような作業ですが、大切なのは書き続けることだと思います。候補者のみなさんとは、同時代を生きる劇作家としてお互い刺激しあう関係であれたら嬉しいです。
佃 典彦
どうも、名古屋のミラーマン佃でございます。
今回、驚いたのは初めて戯曲を書いた方や書き始めて1年の方が6作品のうち3本あったことです。
しかも全く経験不足感など微塵もなく、もちろん200本以上の作品群から最終候補に残った訳ですから当たり前なんですが・・・それにしても執筆というのは経験や手法などではなくて作者の<書きたい>執念なのだなぁと感じた審査会でした。
『宮城 1973~のぞまれずさずかれずあるもの~』
実際にあった事件を題材にした作品です。菊田医師の辿った経緯を非常に丁寧に取材して書かれていて、しかも記者の藤岡の視線から見た事件の感想を通して菊田医師たち、病院の人間の心情を判り易く提示されていて好感の持てる作品だったと思います。しかしながら少々、真っ直ぐ過ぎる気がするのです。特にシーン4の夢の場面は作者の精神が一番投影出来る部分なのですが月並みで勿体無い。
この事件、菊田医師の思想を通して<正義>とは一体何かについて作者自身の精神が垣間見たいのだけど残念ながら見えてこないのです。実在の人物、しかも記憶に新しい人物を題材に書くのはやはり難しいのだろうなと思いました。
『月漸く昇る』
とても初めて書いたとは思えない力作、しかも丁寧に事象が描かれていてすごい新人作家が現れたと驚きました。
この作品も実在した詩人で歴史学者の高群逸枝を題材に書かれた作品です。参考文献もたくさん読まれて研究されたと思いますし、何よりこの人物を描きたいという熱意を感じました。
『宮城 1973』にも似たことを感じたんですが、実在の人物や歴史上の人物を題材にする時には注意しなければならないポイントがあると思ってます。その人物の思想に劇作家が寄り添ってしまっては良くないのではということです。もちろんその人物を愛さなければ書くことは出来ません。でも<愛すること>と<寄り添うこと>は別次元のことだと思っています。愛しながらも距離を置くことが大事であり、その距離の狭間にフィクション性が生まれ、そこにこそ劇作家自身の精神が見えてくるのだと思います。
『Gloria』
大変面白く読んだ作品です。
しかし僕にはちょっと照れ臭い感じがして仕方ありませんでした。物語も登場人物も良く書けているんだけど読んでいて照れ臭い。外国人特有のユーモアが照れ臭いのか台詞じたいが照れ臭いのか、その正体が中々見つけられずに審査会に挑みました。僕が読んだ感覚よりも恐らく実際の舞台ではもっとショーアップされていたのかなとも思いました。歌やダンスがもう少しクローズアップされていたのでないかしらん。
ゲッベルスの立ち位置は今までの僕の常識から遠いところにあって非常に面白かったです。
『郊外組曲』
中盤までノンストップ、文句なしに面白い! セリフも抜群に上手いし謎の提示の仕方も見る側(読む側)の想像力を膨らませるノイズも素晴らしかったです。ところが終盤、どういう訳かいきなり尻切れトンボのよう様な印象で終わってしまいました。リミが母親とこの町から引っ越すことになったラストシーン11がすごく勿体無い。
この町の危機を一番理解している青柳と娘のリミと母親の聡美、この3人の中で<引っ越す>ことに対する葛藤が描かれていないので尻切れトンボと言うか、ラストを急いじゃった感じがしてしまうのです。
それとこの作品はどうしても映像作家の脳で書かれている気がしてなりません。戯曲であるならばシーン8に少しだけ登場するサトシ君の家族、この平日に遊園地に来た家族だけでこの物語を描き切ることも可能であると僕は確信しております。とは言うものの、すごく面白い作品でワクワクしながら読みました。
『泳げない海』
僕はこの作品を一等賞に推しました。実は二次審査でもこの作品を読んでおり、その清々しさに点を入れたのですが今回読み返してみても読後の清々しさは変わることなく、むしろ「ここに学校の理想が詰まっている、理想郷だ!」とさえ感じました。登場人物も活き活きしていて生徒たちの表情や声も目に浮かぶようでした。
職員室に入れ替わりやって来る生徒たちにも不自然な感じは見当たりません。
この作品が書き始めて1年しか経っていない劇作家が書いたものだと知った時の衝撃は非常に大きかった。
「金が欲しい」という生々しさも劇中、一貫しているように僕は思いました。
『盲年』
登場人物表もなければ時系列も掴み難い、なかなか不親切な作品です。
『弱法師』を下敷きに書かれていることは明らかにされていますが、いかんせん能に詳しくない僕は読みながら途方に暮れるばかりでした。が、所々突き刺さるようなセリフに心を奪われる自分に気付いた辺りから作品世界に引き込まれました。<加害者ぶらなければ生きていけない><遊びじゃないと生きていけない><地獄を引き摺っていないと生きていけない>登場人物たちの過去と現在の狭間での葛藤が切実で、このひっ迫感が作品の魅力になっていると思いました。6作品の中では一番切実な感じがして僕はこの作品も推しました。
恐らく舞台を観たらまた違った感覚なんだろうと思います。
以上、選評でした。
土田英生
今年は私にとって絶対に推したいという一本が見つからなかったので、候補作を見回して相対評価になった。ただ、尺度がそれぞれに違うという難しさがあった。
圧倒的に上手いと感じたのは方丈栖さんの『郊外組曲』で、さりげない会話で興味を喚起する力は群を抜いていたと思う。サスペンス要素もあったし、何より台詞のこなれ方がいい。しかし劇世界は上手さの先にはなかなか深まっていかず、ラストでは肩透かしを食らわされたような気分になった。
奥村千里さんの『Gloria』は史実を使い、そこにフィクションを入れ込み、結果として今の社会に切実な問いを投げかける作品になっている。惜しいのは現代のインタビューシーンで、ただの回想との行き来として機能してしまっている。せめて冒頭とラストでの変化があればドラマの輪郭がもっと鮮明になったと思う。
大西弘記さんの『宮城 1973~のぞまれずさずかれずあるもの~』も実在の人物をモデルにした作品だったが、ここで私が気になったのは作者の立ち位置だった。主人公となっている菊田医師にシンパシーを感じて書いたことは明らかなのだが、作者がそこにどのように入り込んでいるかを感じられなかった。その点で迫力を欠いてしまっている。
同じく高群逸枝の評伝劇である『月漸く昇る』は作者、在原彩生さんの初めての戯曲だと知って驚いた。調べた文献の分量が半端なく、さらになんでもないト書きの細部にまでこだわりが見て取れた。ただ、劇を書く経験の不足からか戯曲を書く上でのスキルが足りていないのが惜しい。群像劇としても魅力的なので実際の上演を想定して改稿をして欲しい。
藤井颯太郎さんの『盲年』は能の『弱法師』を下敷きに書かれている作品だが、作者のイメージの広がりに翻弄された。私の想像力ではついていけない部分が多々あった。登場人物は誰一人として安心できるキャラクターが存在せず、全員が過剰であり、感情移入を拒絶する。私の力が足りなかったせいか、うまく掴むことができなかった。
受賞作となった三吉ほたてさんの『泳げない海』は爽やかな読後感で、飽きずに最後まで読める。ただ、私には場とシーンの切り取り方が引っ掛かった。これだけの登場人物で学校を描くことの難しさは理解できる。それをクリアする工夫が一つ欲しい。生徒たちの造形にはそれぞれ大変魅力があって、特に私は中野が可愛くて仕方なかった。
新人戯曲賞の場合、審査するのも全員が劇作家である。自分のことを棚に上げてあれこれ注文をつけているだけだ。だからこそ、都合のいい言葉だけを拾いそれぞれが自分の目指す作品を書いていって欲しい。賞は絶対的なものではないと思う。
マキノノゾミ
大西氏の『宮城 1973~のぞまれずさずかれずあるもの~』は、かつて実際に起こった産婦人科医による赤ちゃん斡旋事件を題材にした、いわばノンフィクション・ドラマである。内容についてはそれ以上でも以下でもない。当然このような戯曲もあっていい。つねに「人間の善美なるもの」を追求しようとする作者の創作態度にも好感を抱いている。問題は全体的に台詞から説明臭が抜けきっていないことである。登場人物たちもそれなりに巧く書かれてはいるが、まだまだ定型的である。主役の菊田医師にも「トーチカ」と呼ばれるほどには際立った個性が付与されていない。総じて人物たちに生っぽさが足りない。リアリティのある台詞とは、もっと身体性に裏打ちされたものである。作者にはすでにじゅうぶんな劇作技術があり、その点に気づくことができれば、この作品はもっと迫力を持ったものになると思う。そうなれば4場の夢のシーンなどは不要になると思う。
在原氏の『月漸く昇る』は、明治生まれの詩人で女性史研究家・高群逸枝の半生を描く評伝劇である。まずこれが作者の処女作だと聞いて驚いた。大劇場仕様の場割、ト書きの書き様など作法的にも大変しっかりとしていて、実に堂々たる書きぶりである。読み込んだ資料の量も立派なものだ。ただし、戯曲としてはまだまだ「面白く」は書けていない。面白くなりそうな逸話や材料はふんだんに盛り込まれているのに、それらを活かすことができていない。実に歯痒くてならない。モデルの高群氏におそらく作者自身が深く傾倒している所為もあろうが、全編に渡って主人公を安易に礼賛しすぎている。主人公と対立・葛藤するキャラクターをもっと掘り下げて造形しなくてはならない。作者には、この先、幾度も改訂を重ねて練り上げていってほしいと切に希望する。これは真に偉大な傑作となり得るだけのポテンシャルを秘めた作品である。
奥村氏の『Gloria』は、映画女優マレーネ・デートリッヒが第二次大戦中に欧州戦線で行った慰問活動を回想する「デートリッヒ小伝」といった趣の作品。手堅くまとまっていて面白く一気に読んだ。特に、要所でマレーネの幻想にゲッベルスが現れては彼女の複雑な葛藤を浮き彫りにするという仕掛けがいい。彼の「第三帝国は滅んでもファシズムは世界に生き続ける」という予言的台詞もこの作品に現代性を与えている。常套的な手法ではあるが、インタビュアーのレオには劇の冒頭でもっとはっきりとした批判的な姿勢を持たせた方が良かった。幕切れも当然変わることになるが、作品の構造はずっと締まると思う。この芝居の最大の魅力は主人公の惚れ惚れするような格好良さに尽きるので、個々の台詞はもっと磨かれなくてはいけない。ハリウッド映画風の掛け合い台詞などはもっとシラブル数を減らしてテンポを上げる工夫が必要である。
方丈氏の『郊外組曲』は何やら放射能のごときもの(明示はされない)に侵されてゆく都市郊外を舞台にした群像劇である。この作者はリアルな台詞まわしと個々の場面の構成がとても巧い。特に冒頭の場面など完璧といっていい。人々のリアルな日常の断片との対比で「何かが始まっている」「そしてそれは相当にやばい」というイヤな恐怖の予感がいっそう際立つ。確かに、私たちの暮らす社会とは、現実に、そのような見えざる恐怖と隣り合わせの脆弱性を持っている。この作品はそれを告発というでもなく、ただ静かに告げている。怖い。佃氏のように「これはシナリオであって戯曲ではない」という見方もできるとは思うが、この過剰にリアルな台詞だけを武器にして最小限の人数と道具立てで上演できれば、それはじゅうぶんに演劇的な仕掛けなのではないかと私は思った。見えざる恐怖というのは映像よりむしろ演劇的な想像力との相性がいいように思う。
受賞作となった三吉氏の『泳げない海』は、北海道の高校を舞台とした教師たちと生徒たちとの多幸感あふれる交流の物語である。登場人物たちの台詞はどれもみずみずしくて素敵だ。あまりに幸せな情景なので、ほとんどファンタジーとして読んだ。といって決して甘いばかりの作品ではない。作中にはずっと貧困や格差の問題が伏流しているし、おそらくいじめや教師の疲弊といった学校を取り巻くよりシリアスな諸問題もすぐ隣り合わせに感じさせる。きっと作者の根底には、人間の友情や希望をいともたやすく破壊する「経済優先の風潮(より端的にいえば金)」に対する、いわば復讐心のような激しい思いがあるのだと思う。しかしその桎梏を乗り越えるのに糾弾ではなく、ユーモアをもって対しようとした姿勢に私は打たれる。ときにユーモラスな筆が走りすぎ、登場人物たちの個性が均一化されてしまう箇所があるのが唯一の憾みだった。
藤井氏の『盲年』は、盲目となった息子と十五年ぶりに父親が再会するという、能『弱法師』の結構を下敷きに書かれた奇妙な味わいの作品。会話のテンポも現代的で軽く、乾いたギャグの応酬があったりして全体的に面白可笑しく読ませる。かと思うと自分の影の中に地獄があって「この星に住む誰もが、必ず一つ、常に地獄を持ち歩いている。すごいことだよこれは!」といった奔放なイメージの台詞が随所に出てきて、その言語感覚にも非凡なセンスを感じる。ただト書きまでもが奔放すぎて、私には現実の舞台がどうにも想像できなかった。作者は写真家、映像作家、振付家といった様々なクリエーターたちと共同で演劇を創作しており、おそらくこれはそういう様々な作家たちの想像力を刺激する(というか挑発する)目的で書かれたテキストなのだと思う。その前提込みの作品であって、純粋に戯曲としての評価は私には難しかった。
今年は実在の人物に想を得た評伝劇が3本並ぶという珍しい年だった。それぞれが力作だと思うが、同時にそれぞれが惜しいと強く感じた。三吉氏の受賞作は作者の筆の運びも読んでいるこちらも「ともに愉悦的」というまことに幸福な作品であり、その点を高く買った。
渡辺えり
大西さんの作品はテーマも興味深く、力作である。私は個人的に身につまされ泣いたシーンもあった。しかし、この事件があった年から今日まで、何が変わって何が同じ状況なのか? 大人たちの保身や建前のために殺されていく小さな命、そして未だに続く男尊女卑からくる妊娠出産に伴う様様な課題。それらに対する作家の思いを更に強く出して欲しいと思った。うまくまとめようとしなくても良いのでは?
在原さんの作品も力作でご自分の人生を賭けて書こうとする気力に満ちている。取り組むテーマも素晴らしい。これからどんどん書いていっていただきたい。夫や親友とのエピソードを深め、場面が細切れにならないよう再構成していただきたい作品である。
奥村さんの作品は達者で独特なリズムの個性的な台詞回しが面白い。しかし、実在の人物、しかも誰もが知っているスターのエピソードに対して向き合う時こちらも過度に期待する。戦争に利用され翻弄された面と自立した精神との葛藤の中に意表を突くリアリティーが欲しくなる。
方丈さんの作品は独特の空気感があり、生きているのか死んでいるのかはっきりしない登場人物がみなどこかフリークで面白い。しかし、役者が一役で挑むならやる気をなくすほどの出番の少なさで、何役も兼ねるような意図もなそうなのが残念である。無人の観覧車の場面は昔読んだ中村賢治さんの戯曲に、偶然だろうが、酷似していた。
三吉さんの作品は台詞が面白い。リズミカルで生き生きしている。特に女子のキャラクターにオリジナリティーを感じる。新しい。みんなが何かに拘っていて、その拘りが「生きる」ことの意味に繋がっていく。自死した親友の精神の謎を一生かかって解明しようとしているような教師の存在にも共感した。
藤井さんの『盲年』は非常に面白く読んだ。『弱法師』を下敷きにしたとのことだが、異常な格差社会の現代を滑稽なほどに残酷に描き、痛いほどのリズムで場面が交錯するのも面白い。時代と時間、シュールとリアルが重なり、ある時は顕微鏡で見るように、ある時はかなり遠くから俯瞰しているような作品である。


