第23回劇作家協会新人戯曲賞選考経過
受賞作 出口 明、大田雄史『うかうかと終焉』

左から:大田雄史、鴻上尚史(劇作家協会会長)、出口明

左から:大田雄史、鴻上尚史(劇作家協会会長)、出口明

<審査会の模様>
左から:瀬戸山美咲(司会)、川村毅、渡辺えり、土田英生、永井愛、マキノノゾミ、坂手洋二、 典彦

<授賞式>
左から:鴻上尚史、大田雄史、出口明、ピンク地底人3号、八鍬健之介、長谷川彩、くるみざわしん

『精神病院つばき荘』 くるみざわしん (大阪府)
『黒いらくだ』 ピンク地底人3号 (京都府)
『アカメ』 八鍬健之介 (東京都)
『下校の時間』 長谷川彩 (愛知県)
『うかうかと終焉』 出口 明、大田雄史 (東京都)

川村 毅、坂手洋二、佃 典彦、土田英生、永井 愛、マキノノゾミ、渡辺えり
(司会:瀬戸山美咲)
*第23回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら
選考経過 瀬戸山美咲
今回はレベルの高い作品が多いという声が複数の審査員から上がりました。
『精神病院つばき荘』について、渡辺氏「少人数で今の日本社会をうまく描いている」。マキノ氏「ひとりひとりの人生と向き合うところから始めるラストに希望を感じた」。川村氏「出だしが面白いが、中盤からテーマが前面に出てきている」。永井氏「作者の都合で登場人物が動いているところが気になる」。
『黒いらくだ』について、佃氏「一番、体感があった。一家をぶっつぶそうとしている昌美という人物が面白い」。坂手氏「ベランダで繋がっている部屋という設定がよい」。マキノ氏「セリフがこなれている。映像的なシナリオの書き方になっている」。
『アカメ』について、土田氏「会話がうまいが、最初になんだろうという疑問がなくてドラマに入っていけない」。永井氏「キイチという人物が弱い。ライターという職業が活かされていない」。坂手氏「アイヌという言葉だけで人の特質を語ってしまうのは一種のステレオタイプで差別だ」。
『下校の時間』について、土田氏「ぎこちない会話にじんと来た。構造に作者の社会に対する大きな視線が含まれている」。マキノ氏「震災で避難してきた子の訛りが変わる。それだけの時間が流れたことをうまく描いている」。佃氏「何気ないやりとりだが、裏を引っぺがすと激しい葛藤や悔しさがある」。
『うかうかと終焉』について、川村氏「男女が一緒の寮ものは斬新」。渡辺氏「冒頭がアングラ的でどんなものが始まるのかと思ったら肩透かしを食らった」。永井氏「反対運動に敗れた人たちの最後の5日間というのがよい。バカバカしい出来事の中に、青春のきらめきがある」。
2作品ずつ選んだ一回目の投票は以下のとおり。
『精神病院つばき荘』川村 渡辺 マキノ
『黒いらくだ』 佃
『アカメ』 渡辺
『下校の時間』 土田 永井 マキノ 坂手 佃
『うかうかと終焉』 川村 土田 永井 坂手

<1回目の投票中の模様> 右:瀬戸山美咲
休憩後、3票以上の作品について1票ずつ投票することにしました。
『精神病院つばき荘』渡辺 マキノ
『下校の時間』 佃 土田
『うかうかと終焉』 川村 永井 坂手

<投票結果> 黒丸が1回目、その内側の赤丸が2回目。右側の数字は1回目の丸の数。
票が割れたため、選んだ作品について各審査員が応援演説をし、全員で議論を重ねました。
『精神病院つばき荘』について、マキノ氏「天に唾したものを自分で引き受けるという、スケール感がいい」、渡辺氏「私たち自身の姿が描かれている。涙なくしては読めなかった」。
『下校の時間』について、佃氏「2人の背景で、藤田がピアノを弾いているところも見逃したくない。たくさんのことが詰まっている」、土田氏「今の社会問題が中学生の生活まで入り込んできていることが伝わってくる」。
『うかうかと終焉』について、永井氏「たわいのない会話からラストで逸脱して、人間の普遍性を描いていている」、坂手氏「壁に書いた言葉もよい。さらっと書いたことに意味がある」。
応援演説を受けて再度1票ずつ投票したところ2回目と同じ結果になり、『うかうかと終焉』に決定しました。
今回はレベルの高い作品が多いという声が複数の審査員から上がりました。
『精神病院つばき荘』について、渡辺氏「少人数で今の日本社会をうまく描いている」。マキノ氏「ひとりひとりの人生と向き合うところから始めるラストに希望を感じた」。川村氏「出だしが面白いが、中盤からテーマが前面に出てきている」。永井氏「作者の都合で登場人物が動いているところが気になる」。
『黒いらくだ』について、佃氏「一番、体感があった。一家をぶっつぶそうとしている昌美という人物が面白い」。坂手氏「ベランダで繋がっている部屋という設定がよい」。マキノ氏「セリフがこなれている。映像的なシナリオの書き方になっている」。
『アカメ』について、土田氏「会話がうまいが、最初になんだろうという疑問がなくてドラマに入っていけない」。永井氏「キイチという人物が弱い。ライターという職業が活かされていない」。坂手氏「アイヌという言葉だけで人の特質を語ってしまうのは一種のステレオタイプで差別だ」。
『下校の時間』について、土田氏「ぎこちない会話にじんと来た。構造に作者の社会に対する大きな視線が含まれている」。マキノ氏「震災で避難してきた子の訛りが変わる。それだけの時間が流れたことをうまく描いている」。佃氏「何気ないやりとりだが、裏を引っぺがすと激しい葛藤や悔しさがある」。
『うかうかと終焉』について、川村氏「男女が一緒の寮ものは斬新」。渡辺氏「冒頭がアングラ的でどんなものが始まるのかと思ったら肩透かしを食らった」。永井氏「反対運動に敗れた人たちの最後の5日間というのがよい。バカバカしい出来事の中に、青春のきらめきがある」。
2作品ずつ選んだ一回目の投票は以下のとおり。
『精神病院つばき荘』川村 渡辺 マキノ
『黒いらくだ』 佃
『アカメ』 渡辺
『下校の時間』 土田 永井 マキノ 坂手 佃
『うかうかと終焉』 川村 土田 永井 坂手

<1回目の投票中の模様> 右:瀬戸山美咲
休憩後、3票以上の作品について1票ずつ投票することにしました。
『精神病院つばき荘』渡辺 マキノ
『下校の時間』 佃 土田
『うかうかと終焉』 川村 永井 坂手

<投票結果> 黒丸が1回目、その内側の赤丸が2回目。右側の数字は1回目の丸の数。
票が割れたため、選んだ作品について各審査員が応援演説をし、全員で議論を重ねました。
『精神病院つばき荘』について、マキノ氏「天に唾したものを自分で引き受けるという、スケール感がいい」、渡辺氏「私たち自身の姿が描かれている。涙なくしては読めなかった」。
『下校の時間』について、佃氏「2人の背景で、藤田がピアノを弾いているところも見逃したくない。たくさんのことが詰まっている」、土田氏「今の社会問題が中学生の生活まで入り込んできていることが伝わってくる」。
『うかうかと終焉』について、永井氏「たわいのない会話からラストで逸脱して、人間の普遍性を描いていている」、坂手氏「壁に書いた言葉もよい。さらっと書いたことに意味がある」。
応援演説を受けて再度1票ずつ投票したところ2回目と同じ結果になり、『うかうかと終焉』に決定しました。

選評
川村 毅 ── 選評らしきもの
『うかうかと終焉』が一番いいと読んだ。
私の審査基準は、作家が、書きたいことをそれに見合った的確な文体と構成で描いているかどうかだ。作家の主義主張、イデオロギーは重要ではない。何を考えようと個人の勝手だ。次に審査現場においてよく審査員の好みという言葉も出てくるが、そもそも私にはどういう劇が好きとかいう好みなどない。故にどういう傾向のものがいいという観点で審査を作動させない。
これは勝手な想像だが、『うかうかと終焉』の勝利は共同執筆にあったのではなかろうか。お二方の間で具体的にどういう作業が行われたか知らないが、お互いに的確な俯瞰者を共有できていたのではないか。編集者が存在していたということだ。小説は作家と編集者の共同作業によって発表をみる。初稿は編集者の容赦ない批評とチェックに相見える。戯曲の場合、こうしたことを経ずにいきなり舞台に上がってくる。編集者のような存在として演出家、プロデューサーがいるはずなのだが、彼らの批評、チェックを劇作家が受け入れられる信頼関係を構築できるかどうか、現在日本の演劇環境においてはなかなかに難しい。
だから、戯曲は劇作家ひとりのものとして動き出すが、それが戯曲にとってベストだとは言えない。例えば、 『精神病院つばき莊』、『黒いらくだ』、『アカメ』に関してだ。どれも書きたいことはわかるし、狙うところはとてもアクチュアルだが、まだまだ再考、推敲が必要だ。この際だから(どの際だか知らないが)がんがんエラソーに言わせてもらう。
思うに、ひとつの作品を発表するには、初稿に対して容赦のない意見感想、作家が逆ギレもしくは自信喪失になるほどのダメ出しを、愛を持って発信してくれる、もうひとりが必要だ。
そうした作業が『うかうかと終焉』では為されていたと推測できるほどに、この戯曲はしっかりしていて、瑕疵がない。だから、私は推した。
『下校の時間』も目立った欠点はない。淋しい大人がキュンときそうな小品である。『うかうかと終焉』のほうが大きい。読んでいて、舞台に上げた時にどうなるのかという想像の幅が広がる。
川村 毅 ── 選評らしきもの
『うかうかと終焉』が一番いいと読んだ。
私の審査基準は、作家が、書きたいことをそれに見合った的確な文体と構成で描いているかどうかだ。作家の主義主張、イデオロギーは重要ではない。何を考えようと個人の勝手だ。次に審査現場においてよく審査員の好みという言葉も出てくるが、そもそも私にはどういう劇が好きとかいう好みなどない。故にどういう傾向のものがいいという観点で審査を作動させない。
これは勝手な想像だが、『うかうかと終焉』の勝利は共同執筆にあったのではなかろうか。お二方の間で具体的にどういう作業が行われたか知らないが、お互いに的確な俯瞰者を共有できていたのではないか。編集者が存在していたということだ。小説は作家と編集者の共同作業によって発表をみる。初稿は編集者の容赦ない批評とチェックに相見える。戯曲の場合、こうしたことを経ずにいきなり舞台に上がってくる。編集者のような存在として演出家、プロデューサーがいるはずなのだが、彼らの批評、チェックを劇作家が受け入れられる信頼関係を構築できるかどうか、現在日本の演劇環境においてはなかなかに難しい。
だから、戯曲は劇作家ひとりのものとして動き出すが、それが戯曲にとってベストだとは言えない。例えば、 『精神病院つばき莊』、『黒いらくだ』、『アカメ』に関してだ。どれも書きたいことはわかるし、狙うところはとてもアクチュアルだが、まだまだ再考、推敲が必要だ。この際だから(どの際だか知らないが)がんがんエラソーに言わせてもらう。
思うに、ひとつの作品を発表するには、初稿に対して容赦のない意見感想、作家が逆ギレもしくは自信喪失になるほどのダメ出しを、愛を持って発信してくれる、もうひとりが必要だ。
そうした作業が『うかうかと終焉』では為されていたと推測できるほどに、この戯曲はしっかりしていて、瑕疵がない。だから、私は推した。
『下校の時間』も目立った欠点はない。淋しい大人がキュンときそうな小品である。『うかうかと終焉』のほうが大きい。読んでいて、舞台に上げた時にどうなるのかという想像の幅が広がる。
坂手洋二
『精神病院つばき荘』は、震災からさほど間をおかず書かれたはずで、以前にも読んでいる。精神病院が舞台であるが、その後起きた「やまゆり園」事件の現実のリアルの前には、寓話的に見えすぎてしまう。
とにかく登場人物が喋り過ぎで、「リーディング向けの台本」として書かれたのではないかとさえ思ったし、「なぜこの人たちはこんなに言葉が出てくるのだろう」という問いを抑えられない。何かにこだわり続ける人物達であるともいえるのだが、岩松了的な粘着とも違う。登場人物に対する距離感のためか、立場が逆転したり等、いろいろ展開があっても、劇的高揚はあまり感じられない。
タイトルにもなっている施設名の「つばき」が、「椿」と「唾」を掛けているというようなレトリックが、私にはどうしても面白いとは思えなかったものの、才気もキャパシティも随所に感じさせる。この作者はもっと書けるはずだ。
『黒いらくだ』は、団地の共同ベランダが舞台。隣の別所帯と繋がっている設定が面白い。子供の頃の「透」が出てくるのも、演劇ならでは。繰り返される暴力も興味深いが、「義雄」のいかにもなオーバーアクトの言動になってくると、いささかうんざりする。結果、狂気やギャグも「演劇用」にしつらえられただけではないかという疑念が拭えなくなってくる。
『黒いらくだ』という架空かも知れない映画、カンヌを騒然とさせたというその存在は、じつに面白い。短いシーンが挿入(カットイン)されるこの劇の場面処理じたいも、どこか映像的といえるのだろう。
文字の向こうに確実に劇の現場を浮かびあがらせられる筆致は認めるが、この作品も、喋り過ぎ、不必要と思われるまでに理屈をこね回すところがある。「透」が、もしかしたら自分自身が犯人ではないかと疑う展開は興味深いが、その性質が父親から受け継いだものとして説明されると、少しガッカリする。
『アカメ』は、ゲストハウスのテーブルがある部屋という舞台設定の「(登場人物の)出入り自由な空間」が、作風に似合わない。便利というか都合がいいだけである。直接でも寸止めでもない曖昧な会話が続き、弾まない。人間関係がわかりにくい。いかにもな蘊蓄も、次第に退屈に感じられてしまう。
ストーリーはあるのだが、葛藤がきちんと組み立てられていない。屋内から雄鹿の姿を見る展開が、何か盛り上がりになってくれるわけでもない。過去の記憶が現在の人間にのしかかってくる痛みとクロスするだけの、進行形のビビッドさが不足している。
「いけなかったんだべや、アイヌだから」という「差別」のステレオタイプは、その「差別」を劇のネタで使った、という以上のことになっていない。逆に「アイヌ」という言葉だけでその人の特質を語ってしまうのは、それじたいが新たな差別の再生産となる可能性さえある。
作者は書ける人だと思う。幹を太くすること、不必要な部分を削ぎ落とし軸を鮮明にする集中力を求めたい。
『下校の時間』。完成度の高さという意味では、候補作中、明らかに断トツ。物語としては、柳瀬の言う「(藤田が)弾けるかどうかは知らんけどさ、弾きたいかどうかは自分で決められるじゃん」、これが名台詞になるかどうかが問われるところだ。藤田の実体、登場人物達との関わりが今ひとつ鮮明にわからないため、不発に終っている気がしてしまうのが、惜しい。
声がかき消されて二人が歌うクライマックスは、もったいない。合唱とは違う幕引きの方法がなかったかと、思う。
登場人物達は子供というよりは大人に思われる。そこがどこか岸田國士の戯曲を思わせる。この作者は無意識に自分に課しているらしい制約を、どう解いていくのだろう。大器を予感させる。
『うかうかと終焉』は、京都にある大学学生寮の廃絶・取り壊しに立ち会う若者達を描いている。退寮者が壁に落書きを残してゆくという習慣があるという設定が、仕掛けとしてうまくいっている。いまの若者からすれば「時代色」を感じさせもするのだろうが、私も以前、(学生でもないのに)京都大学西部講堂連絡協議会のメンバーだったし、長いあいだ京大構内に逗留したこともある。その頃から「過去の亡霊」の存在感は、半端ではなかった。
登場人物達は現在の世相で言えば、かなりな少数派と捉えられることになるのだろう。ノスタルジックな世界のようだが、現在進行形の「いま」の物語として、なんとか持ちこたえていることを、讃えたい。
「年齢ごとの心の賞味期限」という言葉も含蓄がある。昔も今も人間は寄り添いたがる生きものだし、別れの積み重ねこそ生きることだという達観も、また然り。
皆が電球を見ていて点灯した瞬間にまぶしさに一瞬うろたえる導入部から、演劇的な仕掛けの一つ一つが、悪くない。わかっていて書いているのだろうが、生硬でナマすぎる言葉も多々あり、実に荒削りだが、書き手が心から楽しんでいることがわかる。
この作品の強さは、自分が生きている現実に対する違和感を描こうとする意欲と、演劇という表現の特性への関心が、うまく噛み合っているところだろう。
最終候補作はどの作品も、書くことが好きなんだなあと感じさせた。そこが頼もしくもあるし、もっとその先に飛び出してほしいとも思わせられるところだ。
佃 典彦
はい、名古屋のミラーマン佃です。
まずは審査員の一人として一言。僕は過去に二回この賞に応募しまして二回とも最終候補どまりでした。つまり一等賞の新人戯曲賞からは落選しております。舞台上の審査員の方々のご意見を聞きながら「いやいや違うんだけどなぁ」とか「おいおいちゃんと読んでくれてんの?」とか心の中で叫びながら反論を許されない観客席でヤキモキしておりました。もちろん参考になるお話も聞けましたが素直に腑に落とせるまでには時間がかかりました。
なので僕は舞台上で審査員が「よく判らない」と口にすることは非常にマズいと考えています。まぁ、「判らない」モノは「判らない」のですが所詮は他人の書いたモノなので「判らない」のは当たり前、少なくとも誤読でも何でもいいので「判ろうとした」意思は示しておかないと今回この賞に応募してくれた231名の劇作家達に納得して貰えないのではないか・・・と、考えております。偉そうなこと言っちゃいましたが審査員の中で審査される側に二度立ち会ったのは僕だけなので心情的にそんなふうに思ってしまうのです。
今回はどの作品も個性的で面白く、票も割れに割れました。どれが一等賞になってもおかしくありませんでした。その中で僕はピンク地底人3号さんの『黒いらくだ』と長谷川彩さんの『下校の時間』に票を入れました。
『黒いらくだ』は掃き溜めの様な町の描写に嫌悪感を抱くほどでした。重い空気、曇った空、その町で生きる人々に蓄積されるうっ憤。主人公・透のトラウマに潜む父親・健人の暴力性が剥き出しになる瞬間の恐怖が非常によく描かれていて五作品の中で一番<体感>させてくれた作品でした。特に僕は主人公の隣人のオバサン・昌実の執念に満ちた有様に感動しました。昌実は登場した時から隣の坂本家を破滅に導く事だけを願っている凄まじい女性です。そしてそれを笑顔で押し隠しながら付き合いを続けている。この人物をそうさせるに至ったのは他でも無くこの<町>です。自分の娘を森に置き去りにしてしまった主人公への恨み、娘が殺害された原因を作った主人公への恨みがラストまで貫かれています。しかも主人公・透は父親のトラウマ(血)から自分が殺害したのではないかと苦しんでいる。様々な感情の糸が複雑に絡み合った作品で僕はすごく評価しております。
『下校の時間』はこの作家得意のパターンですが過去の作品に比べても贅肉が削ぎ落とされて洗練されていると思いました。ラストの柳瀬が野中に「俺、野中でいいと思う」というシーンでは不覚にも読みながら涙してしまいました。実はこの会話のリズムと言葉の音色は名古屋弁でしか表現しきれないと言うか是非とも名古屋弁で読んで貰いたいところなのですが・・・。二人の背後にずっとピアノが流れているのが切ない。このピアノは野中より上手くないのに車椅子であると言う理由で卒業式に演奏することが決まった藤田が弾いている。その場の空気で決定される理不尽さ。それは福島から避難してきた柳瀬も同様です。地元で死にたいと言うお婆ちゃんの気持ちに寄り添わなくてはならないと言う空気感を背負っているからです。中学生の切なさを説明セリフを一切使わずに描き切ったこの作品を僕は最後まで推しました。
『精神病院つばき荘』も票を入れようか非常に迷いました。三人の登場人物だけでこのダイナミックな作品を創り上げたことに驚きます。院長のセリフが長いのに全く飽きさせません。ラストに本当に原発事故が起きて日本のほとんどが住めなくなったシーンに少々疑問を感じてしまいました。実際にそうなった時に果たして高木と浅田は院長を心配して来訪する余裕があるのだろうか。それよりも原発事故は院長の頭の中だけで起きていて病院に閉じ籠っている方が良いのではないかと考えたのですが、それだと<つばき>の意味が薄れてしまうのでしょうか?
『アカメ』は最初に読んだ時にはこの作品に一票!と感じました。雪の中に閉じ込められるシチュエーションは有りがちなのですが登場人物たちの関係性が露わになっていく様子が非常に面白く、さらに片目の巨大な鹿が登場するシーンは神々しく感じられてグイグイ引き込まれながら読みました。が、野球部時代にボールを目に当てて潰してしまったアイヌの知山の話がどうも取って付けた感じがしてしまいました。構成的にもう少し前半に堂々と伏線を張っていいと思います。
『うかうかと終焉』が一等賞を取りました。他の審査員の意見を聞いて納得する部分もあるのですが、どうしても諸手を挙げて賛成という感じがしませんでした。審査会で「テラスハウスみたい」と少々失礼な意見を述べてしまったのですが、やはり僕は今一つ登場人物たちに感情移入仕切れないのでした。例えば最初のシーン、麻雀の途中で電球が切れてしまった所から始まりますが電球が復活したら何が何でも麻雀の続きをするべきでは無いかと思うのです。半チャン途中で終わりにするほど麻雀打ちにとって気持ち悪いことはありません。引っ越しの準備をしなきゃならないのに延々と麻雀を打ち続けるバカな連中であって欲しい。もしかしたら実際の俳優たちが麻雀打てないのかも知れませんが・・・。ヘビ鍋にしても今一つ突っ込みが足りないと言うか登場人物たちの想いを引き出すための道具にしかなっていなくて勿体無い。「うかうか」する小道具が用意されながらも実は「うかうか」してない気がするのです。
ともあれ今回の五作品には本当に楽しませて貰いました。以上!
土田英生
受賞作である『うかうかと終焉』は2次審査の時にも読み、面白くて随分と高得点を付けたけれど私は最後まで『下校の時間』を推した。今回の最終候補作はどれも会話主体で質も高く、読むのに苦労を強いられるものはなかった。私が長谷川彩さんの作品に特に感心した理由は、「書かれたもの」であることを意識せずに最後まで読ませた事だった。私は審査であることも忘れ、ただ登場人物の幼さと切なさに心を打たれた。下校前のちょっとした時間に交される中学生男女の会話を描きながら、背景が明確に浮かび上がってくる。当たり前のことながら作者は何かしらの意図をして書いていたと思うのだが、そうした作為を全く感じることはなかった。自分が台本を書く立場で考えた時この事実には素直に驚いた。この作品があったことで、今回はどうしてもこの「作為のなさ」が私の選考の基準になってしまったのだと思う。
出口さん、大田さんの『うかうかと終焉』も大学の寮が持つ空気、時代から取り残されている感じをとても自然に漂わせていて (二人で書いたとは到底思えない!)、多い登場人物を見事に書き分けていたと思う。特に三濃部の造形は見事だったと思う。
八鍬さんの『アカメ』はその点で、やや作者の観念が先に立ってしまっている印象を受けた。上演で見れば気にならないのかもしれないが、戯曲で読むと無理やり筆を進めている痕跡を感じてしまう。力量のある人だし、最初の設定の温度を上げ、流れに任せて書いて欲しい。それはなかなかに難しいことであるけど。
くるみざわさんの『精神病院つばき荘』も、読んでいると突然作者が顔を出す瞬間があるのがもったいない。特にラストは構造としては理解できるのだが、素直にそれが入ってこない。実はこの作品は別の機会に読んだことがあり、その時と比べるとかなりこなれた戯曲に仕上がっていた。それでもまだ登場人物の輪郭よりも、書かれた文章に目が行ってしまう嫌いがあった。
ピンク地底人3号さんの『黒いラクダ』は、会話のうまさに唸りながら興味深く読んだのだが、読む時の丁寧さが私自身に欠けていた。選考会で話していて当たり前の事実に気付かされる始末だった。反省している。
永井 愛
最終候補5作は、それぞれにしたたかな才能が感じられ、読み応えがあった。
『精神病院つばき荘』は、原発事故後の「とてつもなく大きなものに見放され、置き去りにされた」危機感を精神病院の院長、患者、看護師の3人に託して描く社会批評性の強い作品だ。発想は面白いし、コミカルで大胆な筆力も買う。ただ、登場人物(特に看護師)がその内的な動機というよりは、作者の都合で動かされているように思えたのが惜しかった。このように突飛な物語が、すべてなるほどと信じられる、人物の主体的な欲求によって動いていったのなら、それは快挙と言えるだろう。くるみざわさんは細心の踏み込みと強度のジャンプ力を必要とする戯曲を書いた。ぜひ挑戦を続けてほしい。
『黒いらくだ』には謎が多い。主人公・透の父の死、かつての恋人の死は、透自身の手によるものなのか、はっきりとは読み取れない。構成をあえて映像作品的にしたのかもしれないが、芝居としての効果になっているとは思えなかった。だが貧しさの中で暴力、万引き、言い争いを繰り返しながら生きる人々の言葉には生々しい実在感があり、今という時代を突きつける力があった。
『アカメ』は北海道を舞台に、鹿撃ちイベントのために集まった人々を描く。丹念に日常語を組み立てているが、時にそれが細か過ぎて出来事の輪郭がぼやけ、同じような印象に埋没してゆく気がした。一本角の牡鹿の出現は鮮やかだが、それをアイヌの少年への加害の記憶と結びつけ、ラストにつなげるためには、キイチという人物の前半にもっと伏線が必要だったのではないだろうか。
『下校の時間』は中学校の玄関口で雨上がりを待つ女子生徒と男子生徒に流れた時間を描いて美しい。ぶっきらぼうに、でもリズミカルに交わされる会話から互いへの思いがこぼれでるたび、妙にドキドキさせられた。被災地から来た男子生徒がもうすぐ地元に戻ると知ると寂しくなった。つまり、かなり素直に二人の心を体験させられたわけで、狙いや技巧が透けて見えたら、こうはならない。ひたすら純度の高い表現に向かった作者の姿勢がそれを可能にしたのだろう。受賞作に推す声が多かったのもうなずける。
受賞作となった『うかうかと終焉』は、取り壊しの決まった学生寮の最後の5日間を描く。退寮する際、室内の壁に別れのメッセージを書き残すという習わしがあるのだが、今回去る寮生たちは、もうすぐ瓦礫となる壁に何を書くかで悩むわけで、その設定がまず面白い。次々と人が去る中、寮での出来事は実に他愛ない。皆、最後にふさわしい何かを求めはするものの、すぐドタバタした日常に流れてしまう。それがかえって、ともに過ごした年月と関係の深さを感じさせる。この寮生たちは、寮の取り壊し反対運動の中心となり、敗北した経験を共有していた。互いの心に踏み込むことへのためらいは、そこから生じているのだろう。でも、負けっぱなしなのではない。それぞれに守ろうとするものを自分の中に確かめつつある。それが最後の言葉となって壁に示される。愚かしさの中に詩情があり、挫折を知った若い心をとらえて見事だと思う。
マキノノゾミ
最終審査員をやらせていただいたのは今度で11回目なのだが、今回ほど自分の中で最優秀作を決めかねたのは初めてである。
絵画に例えれば、自分は具象画の作家であると自任している。まぁ町の絵画教室で先生をやれるくらいの腕はあると己惚れている。抽象画(不条理演劇)となるとお手上げだが、具象作品ならば、その良し悪しはある程度正確に判断できると思っていた。つまり具象的な台詞の巧拙の判断で、これまではある程度候補をしぼり込むことができた。
また「新人戯曲賞」という名を冠するからには、可能な限り「技術の多寡」をこそもっとも考量に入れるべきとも思っていた。劇作家が他の劇作家の書いた作品を審査しようというのだから、それ以上の真剣勝負はなかろうと。
それができなかったということは、つまり、みんなが巧かったということだ。本当に五人の候補者誰もが台詞が巧い。本当によく書けている。これだけ甲乙のつけがたい最終候補作が並んだのは、わたしの体験上では初めてことであった。
こうなるともはや個人的な好みでしか選べないということになるのだが、これがまた個人的に好きな作品が何本もあるのだ。本当に困った。まぁ嬉しい悲鳴ではあるのだが。
例えば、長谷川氏の『下校の時間』も大好きな作品だ。「少年と少女が何かを待ちながらとりとめのない会話をする」というシチュエーションが、やはり五年前に候補作となった同氏の『メガネとマスク』とよく似ていながらも、その完成度や情感の深さでは何倍もスケールアップしている。例年ならば、最優秀賞となってもまったくおかしくない傑作だと思う。
八鍬氏の『アカメ』も同様である。この作品が昨年か一昨年に出されていたら、たぶん最優秀作品となっていたのではないか。少なくとも、わたしは間違いなく一番に推したと思う。それほど氏の写実的な台詞を書く技術は申し分ない。雪に封じ込められる北海道南央部のゲストハウスという設定の取り方も秀逸だし、登場人物全員に切実な事情を仕組む周到さも見事だ。
ピンク地底人氏の『黒いらくだ』の冒頭に激しい雨が降っているところも好きだし、受賞作となった出口氏(with大田氏)の『うかうかと終焉』など、かつて京都でノンシャランな下宿生活をおくった個人的体験からすれば、もはや審査員中でこの作品がもっとも好きなのは自分だと言い切れる自信があるほどだ(わたしはかつてこのような作品が書いてみたくて『東京原子核クラブ』を書いたのだ)。登場人物全員が愛おしいが、ことに最後に出て行く美濃部など最高に大好物のキャラクターである。
その中でわたしは、くるみざわ氏の『精神病院つばき荘』を推した。それは、この作品が、わたしにとってはもっとも迫力があったからである。福島の原発事故は、やはり三年前に最終候補となった同氏の『蛇には、蛇を』でも重要なモチーフとなっていた。けれども、あの事故を語るとき、それを第三者としての批判や糾弾の域にとどまるのではなく、そこから一歩進んで、自らも「天に唾した者の一人」として我が身に引き受けようとする主人公・山上の在り方に胸を打たれたからである。最後の浅田の台詞も感動的だ。入り口はチェーホフの『六号室』なみに精神病院の院長と入院患者の主客が転倒する喜劇の様相でありながら、この戯曲が最後に到達する場所は、わたしたちこの国に住まう者たち全員にとって、とてつもなく重く、大切な意味を含んでいると思った。今のわたし自身に「他人事ではないぞ」と、もっとも切迫してきた作品だった。
渡辺えり
戯曲とは何なのだろうか?
今回の審査にあたって、良い戯曲、優れた戯曲とは何なのだろうかと改めて思った。審査員の好みや、その時の感情や感覚に響いた作品が、受賞作ということになるのではなかろうか? 審査員が変われば、まるで違った作品が受賞する可能性がある。それらの偶然や今この時の社会背景がこの戯曲賞の個性にもなっているのかもしれない。
私はくるみざわしんさんの『精神病院つばき荘』を推した。今現在の社会の矛盾、正義とは何か? 体制側、反体制側の心理の矛盾。善悪とは簡単に言い表せない、人間心理の矛盾と不思議さが、リアルとファンタジーの交錯する世界で面白く表現されていると感じた。そして、今劇作家が書いておかなくてはならない問題でもあると感じたからだった。
受賞した『うかうかと終焉』は私の心には響かなかった。革命を信じた学生運動の終焉のことを書きたかったのか? 学生寮という特殊な環境の中での会話の中にもっと力強いメッセージが必要ではなかったか?と、高卒の私にも響く何かが欲しかった。
『黒いらくだ』も面白く読んだ。ト書きに書かれたマタイの福音書「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。今の社会がそうではなくなっているということの大いなる皮肉を書きたかったのだと思う。
『アカメ』も個性の強い文体の、好きな作家である。ざっくりとした質感のシーンと顕微鏡を覗いたようなシーンとのアンバランスをもっと駆使すればさらに個性が強まるのではないだろうか?
『下校の時間』も面白い。長谷川さんの作品は繊細で登場人物の個性に合わせた言葉のチョイスも独特で新鮮である。
今回の作家たちは次回作を読み続けたいと思わせる方ばかりであった。私自身も書く力と読む力を磨いていかなければといつも思うが、感情と感覚が先に立ち、うまさよりも、作品の存在感、力強さを感じた作品を推したい思いが強い。今回は女性作家が少なかったが次回はさらに期待したい。
『精神病院つばき荘』は、震災からさほど間をおかず書かれたはずで、以前にも読んでいる。精神病院が舞台であるが、その後起きた「やまゆり園」事件の現実のリアルの前には、寓話的に見えすぎてしまう。
とにかく登場人物が喋り過ぎで、「リーディング向けの台本」として書かれたのではないかとさえ思ったし、「なぜこの人たちはこんなに言葉が出てくるのだろう」という問いを抑えられない。何かにこだわり続ける人物達であるともいえるのだが、岩松了的な粘着とも違う。登場人物に対する距離感のためか、立場が逆転したり等、いろいろ展開があっても、劇的高揚はあまり感じられない。
タイトルにもなっている施設名の「つばき」が、「椿」と「唾」を掛けているというようなレトリックが、私にはどうしても面白いとは思えなかったものの、才気もキャパシティも随所に感じさせる。この作者はもっと書けるはずだ。
『黒いらくだ』は、団地の共同ベランダが舞台。隣の別所帯と繋がっている設定が面白い。子供の頃の「透」が出てくるのも、演劇ならでは。繰り返される暴力も興味深いが、「義雄」のいかにもなオーバーアクトの言動になってくると、いささかうんざりする。結果、狂気やギャグも「演劇用」にしつらえられただけではないかという疑念が拭えなくなってくる。
『黒いらくだ』という架空かも知れない映画、カンヌを騒然とさせたというその存在は、じつに面白い。短いシーンが挿入(カットイン)されるこの劇の場面処理じたいも、どこか映像的といえるのだろう。
文字の向こうに確実に劇の現場を浮かびあがらせられる筆致は認めるが、この作品も、喋り過ぎ、不必要と思われるまでに理屈をこね回すところがある。「透」が、もしかしたら自分自身が犯人ではないかと疑う展開は興味深いが、その性質が父親から受け継いだものとして説明されると、少しガッカリする。
『アカメ』は、ゲストハウスのテーブルがある部屋という舞台設定の「(登場人物の)出入り自由な空間」が、作風に似合わない。便利というか都合がいいだけである。直接でも寸止めでもない曖昧な会話が続き、弾まない。人間関係がわかりにくい。いかにもな蘊蓄も、次第に退屈に感じられてしまう。
ストーリーはあるのだが、葛藤がきちんと組み立てられていない。屋内から雄鹿の姿を見る展開が、何か盛り上がりになってくれるわけでもない。過去の記憶が現在の人間にのしかかってくる痛みとクロスするだけの、進行形のビビッドさが不足している。
「いけなかったんだべや、アイヌだから」という「差別」のステレオタイプは、その「差別」を劇のネタで使った、という以上のことになっていない。逆に「アイヌ」という言葉だけでその人の特質を語ってしまうのは、それじたいが新たな差別の再生産となる可能性さえある。
作者は書ける人だと思う。幹を太くすること、不必要な部分を削ぎ落とし軸を鮮明にする集中力を求めたい。
『下校の時間』。完成度の高さという意味では、候補作中、明らかに断トツ。物語としては、柳瀬の言う「(藤田が)弾けるかどうかは知らんけどさ、弾きたいかどうかは自分で決められるじゃん」、これが名台詞になるかどうかが問われるところだ。藤田の実体、登場人物達との関わりが今ひとつ鮮明にわからないため、不発に終っている気がしてしまうのが、惜しい。
声がかき消されて二人が歌うクライマックスは、もったいない。合唱とは違う幕引きの方法がなかったかと、思う。
登場人物達は子供というよりは大人に思われる。そこがどこか岸田國士の戯曲を思わせる。この作者は無意識に自分に課しているらしい制約を、どう解いていくのだろう。大器を予感させる。
『うかうかと終焉』は、京都にある大学学生寮の廃絶・取り壊しに立ち会う若者達を描いている。退寮者が壁に落書きを残してゆくという習慣があるという設定が、仕掛けとしてうまくいっている。いまの若者からすれば「時代色」を感じさせもするのだろうが、私も以前、(学生でもないのに)京都大学西部講堂連絡協議会のメンバーだったし、長いあいだ京大構内に逗留したこともある。その頃から「過去の亡霊」の存在感は、半端ではなかった。
登場人物達は現在の世相で言えば、かなりな少数派と捉えられることになるのだろう。ノスタルジックな世界のようだが、現在進行形の「いま」の物語として、なんとか持ちこたえていることを、讃えたい。
「年齢ごとの心の賞味期限」という言葉も含蓄がある。昔も今も人間は寄り添いたがる生きものだし、別れの積み重ねこそ生きることだという達観も、また然り。
皆が電球を見ていて点灯した瞬間にまぶしさに一瞬うろたえる導入部から、演劇的な仕掛けの一つ一つが、悪くない。わかっていて書いているのだろうが、生硬でナマすぎる言葉も多々あり、実に荒削りだが、書き手が心から楽しんでいることがわかる。
この作品の強さは、自分が生きている現実に対する違和感を描こうとする意欲と、演劇という表現の特性への関心が、うまく噛み合っているところだろう。
最終候補作はどの作品も、書くことが好きなんだなあと感じさせた。そこが頼もしくもあるし、もっとその先に飛び出してほしいとも思わせられるところだ。
佃 典彦
はい、名古屋のミラーマン佃です。
まずは審査員の一人として一言。僕は過去に二回この賞に応募しまして二回とも最終候補どまりでした。つまり一等賞の新人戯曲賞からは落選しております。舞台上の審査員の方々のご意見を聞きながら「いやいや違うんだけどなぁ」とか「おいおいちゃんと読んでくれてんの?」とか心の中で叫びながら反論を許されない観客席でヤキモキしておりました。もちろん参考になるお話も聞けましたが素直に腑に落とせるまでには時間がかかりました。
なので僕は舞台上で審査員が「よく判らない」と口にすることは非常にマズいと考えています。まぁ、「判らない」モノは「判らない」のですが所詮は他人の書いたモノなので「判らない」のは当たり前、少なくとも誤読でも何でもいいので「判ろうとした」意思は示しておかないと今回この賞に応募してくれた231名の劇作家達に納得して貰えないのではないか・・・と、考えております。偉そうなこと言っちゃいましたが審査員の中で審査される側に二度立ち会ったのは僕だけなので心情的にそんなふうに思ってしまうのです。
今回はどの作品も個性的で面白く、票も割れに割れました。どれが一等賞になってもおかしくありませんでした。その中で僕はピンク地底人3号さんの『黒いらくだ』と長谷川彩さんの『下校の時間』に票を入れました。
『黒いらくだ』は掃き溜めの様な町の描写に嫌悪感を抱くほどでした。重い空気、曇った空、その町で生きる人々に蓄積されるうっ憤。主人公・透のトラウマに潜む父親・健人の暴力性が剥き出しになる瞬間の恐怖が非常によく描かれていて五作品の中で一番<体感>させてくれた作品でした。特に僕は主人公の隣人のオバサン・昌実の執念に満ちた有様に感動しました。昌実は登場した時から隣の坂本家を破滅に導く事だけを願っている凄まじい女性です。そしてそれを笑顔で押し隠しながら付き合いを続けている。この人物をそうさせるに至ったのは他でも無くこの<町>です。自分の娘を森に置き去りにしてしまった主人公への恨み、娘が殺害された原因を作った主人公への恨みがラストまで貫かれています。しかも主人公・透は父親のトラウマ(血)から自分が殺害したのではないかと苦しんでいる。様々な感情の糸が複雑に絡み合った作品で僕はすごく評価しております。
『下校の時間』はこの作家得意のパターンですが過去の作品に比べても贅肉が削ぎ落とされて洗練されていると思いました。ラストの柳瀬が野中に「俺、野中でいいと思う」というシーンでは不覚にも読みながら涙してしまいました。実はこの会話のリズムと言葉の音色は名古屋弁でしか表現しきれないと言うか是非とも名古屋弁で読んで貰いたいところなのですが・・・。二人の背後にずっとピアノが流れているのが切ない。このピアノは野中より上手くないのに車椅子であると言う理由で卒業式に演奏することが決まった藤田が弾いている。その場の空気で決定される理不尽さ。それは福島から避難してきた柳瀬も同様です。地元で死にたいと言うお婆ちゃんの気持ちに寄り添わなくてはならないと言う空気感を背負っているからです。中学生の切なさを説明セリフを一切使わずに描き切ったこの作品を僕は最後まで推しました。
『精神病院つばき荘』も票を入れようか非常に迷いました。三人の登場人物だけでこのダイナミックな作品を創り上げたことに驚きます。院長のセリフが長いのに全く飽きさせません。ラストに本当に原発事故が起きて日本のほとんどが住めなくなったシーンに少々疑問を感じてしまいました。実際にそうなった時に果たして高木と浅田は院長を心配して来訪する余裕があるのだろうか。それよりも原発事故は院長の頭の中だけで起きていて病院に閉じ籠っている方が良いのではないかと考えたのですが、それだと<つばき>の意味が薄れてしまうのでしょうか?
『アカメ』は最初に読んだ時にはこの作品に一票!と感じました。雪の中に閉じ込められるシチュエーションは有りがちなのですが登場人物たちの関係性が露わになっていく様子が非常に面白く、さらに片目の巨大な鹿が登場するシーンは神々しく感じられてグイグイ引き込まれながら読みました。が、野球部時代にボールを目に当てて潰してしまったアイヌの知山の話がどうも取って付けた感じがしてしまいました。構成的にもう少し前半に堂々と伏線を張っていいと思います。
『うかうかと終焉』が一等賞を取りました。他の審査員の意見を聞いて納得する部分もあるのですが、どうしても諸手を挙げて賛成という感じがしませんでした。審査会で「テラスハウスみたい」と少々失礼な意見を述べてしまったのですが、やはり僕は今一つ登場人物たちに感情移入仕切れないのでした。例えば最初のシーン、麻雀の途中で電球が切れてしまった所から始まりますが電球が復活したら何が何でも麻雀の続きをするべきでは無いかと思うのです。半チャン途中で終わりにするほど麻雀打ちにとって気持ち悪いことはありません。引っ越しの準備をしなきゃならないのに延々と麻雀を打ち続けるバカな連中であって欲しい。もしかしたら実際の俳優たちが麻雀打てないのかも知れませんが・・・。ヘビ鍋にしても今一つ突っ込みが足りないと言うか登場人物たちの想いを引き出すための道具にしかなっていなくて勿体無い。「うかうか」する小道具が用意されながらも実は「うかうか」してない気がするのです。
ともあれ今回の五作品には本当に楽しませて貰いました。以上!
土田英生
受賞作である『うかうかと終焉』は2次審査の時にも読み、面白くて随分と高得点を付けたけれど私は最後まで『下校の時間』を推した。今回の最終候補作はどれも会話主体で質も高く、読むのに苦労を強いられるものはなかった。私が長谷川彩さんの作品に特に感心した理由は、「書かれたもの」であることを意識せずに最後まで読ませた事だった。私は審査であることも忘れ、ただ登場人物の幼さと切なさに心を打たれた。下校前のちょっとした時間に交される中学生男女の会話を描きながら、背景が明確に浮かび上がってくる。当たり前のことながら作者は何かしらの意図をして書いていたと思うのだが、そうした作為を全く感じることはなかった。自分が台本を書く立場で考えた時この事実には素直に驚いた。この作品があったことで、今回はどうしてもこの「作為のなさ」が私の選考の基準になってしまったのだと思う。
出口さん、大田さんの『うかうかと終焉』も大学の寮が持つ空気、時代から取り残されている感じをとても自然に漂わせていて (二人で書いたとは到底思えない!)、多い登場人物を見事に書き分けていたと思う。特に三濃部の造形は見事だったと思う。
八鍬さんの『アカメ』はその点で、やや作者の観念が先に立ってしまっている印象を受けた。上演で見れば気にならないのかもしれないが、戯曲で読むと無理やり筆を進めている痕跡を感じてしまう。力量のある人だし、最初の設定の温度を上げ、流れに任せて書いて欲しい。それはなかなかに難しいことであるけど。
くるみざわさんの『精神病院つばき荘』も、読んでいると突然作者が顔を出す瞬間があるのがもったいない。特にラストは構造としては理解できるのだが、素直にそれが入ってこない。実はこの作品は別の機会に読んだことがあり、その時と比べるとかなりこなれた戯曲に仕上がっていた。それでもまだ登場人物の輪郭よりも、書かれた文章に目が行ってしまう嫌いがあった。
ピンク地底人3号さんの『黒いラクダ』は、会話のうまさに唸りながら興味深く読んだのだが、読む時の丁寧さが私自身に欠けていた。選考会で話していて当たり前の事実に気付かされる始末だった。反省している。
永井 愛
最終候補5作は、それぞれにしたたかな才能が感じられ、読み応えがあった。
『精神病院つばき荘』は、原発事故後の「とてつもなく大きなものに見放され、置き去りにされた」危機感を精神病院の院長、患者、看護師の3人に託して描く社会批評性の強い作品だ。発想は面白いし、コミカルで大胆な筆力も買う。ただ、登場人物(特に看護師)がその内的な動機というよりは、作者の都合で動かされているように思えたのが惜しかった。このように突飛な物語が、すべてなるほどと信じられる、人物の主体的な欲求によって動いていったのなら、それは快挙と言えるだろう。くるみざわさんは細心の踏み込みと強度のジャンプ力を必要とする戯曲を書いた。ぜひ挑戦を続けてほしい。
『黒いらくだ』には謎が多い。主人公・透の父の死、かつての恋人の死は、透自身の手によるものなのか、はっきりとは読み取れない。構成をあえて映像作品的にしたのかもしれないが、芝居としての効果になっているとは思えなかった。だが貧しさの中で暴力、万引き、言い争いを繰り返しながら生きる人々の言葉には生々しい実在感があり、今という時代を突きつける力があった。
『アカメ』は北海道を舞台に、鹿撃ちイベントのために集まった人々を描く。丹念に日常語を組み立てているが、時にそれが細か過ぎて出来事の輪郭がぼやけ、同じような印象に埋没してゆく気がした。一本角の牡鹿の出現は鮮やかだが、それをアイヌの少年への加害の記憶と結びつけ、ラストにつなげるためには、キイチという人物の前半にもっと伏線が必要だったのではないだろうか。
『下校の時間』は中学校の玄関口で雨上がりを待つ女子生徒と男子生徒に流れた時間を描いて美しい。ぶっきらぼうに、でもリズミカルに交わされる会話から互いへの思いがこぼれでるたび、妙にドキドキさせられた。被災地から来た男子生徒がもうすぐ地元に戻ると知ると寂しくなった。つまり、かなり素直に二人の心を体験させられたわけで、狙いや技巧が透けて見えたら、こうはならない。ひたすら純度の高い表現に向かった作者の姿勢がそれを可能にしたのだろう。受賞作に推す声が多かったのもうなずける。
受賞作となった『うかうかと終焉』は、取り壊しの決まった学生寮の最後の5日間を描く。退寮する際、室内の壁に別れのメッセージを書き残すという習わしがあるのだが、今回去る寮生たちは、もうすぐ瓦礫となる壁に何を書くかで悩むわけで、その設定がまず面白い。次々と人が去る中、寮での出来事は実に他愛ない。皆、最後にふさわしい何かを求めはするものの、すぐドタバタした日常に流れてしまう。それがかえって、ともに過ごした年月と関係の深さを感じさせる。この寮生たちは、寮の取り壊し反対運動の中心となり、敗北した経験を共有していた。互いの心に踏み込むことへのためらいは、そこから生じているのだろう。でも、負けっぱなしなのではない。それぞれに守ろうとするものを自分の中に確かめつつある。それが最後の言葉となって壁に示される。愚かしさの中に詩情があり、挫折を知った若い心をとらえて見事だと思う。
マキノノゾミ
最終審査員をやらせていただいたのは今度で11回目なのだが、今回ほど自分の中で最優秀作を決めかねたのは初めてである。
絵画に例えれば、自分は具象画の作家であると自任している。まぁ町の絵画教室で先生をやれるくらいの腕はあると己惚れている。抽象画(不条理演劇)となるとお手上げだが、具象作品ならば、その良し悪しはある程度正確に判断できると思っていた。つまり具象的な台詞の巧拙の判断で、これまではある程度候補をしぼり込むことができた。
また「新人戯曲賞」という名を冠するからには、可能な限り「技術の多寡」をこそもっとも考量に入れるべきとも思っていた。劇作家が他の劇作家の書いた作品を審査しようというのだから、それ以上の真剣勝負はなかろうと。
それができなかったということは、つまり、みんなが巧かったということだ。本当に五人の候補者誰もが台詞が巧い。本当によく書けている。これだけ甲乙のつけがたい最終候補作が並んだのは、わたしの体験上では初めてことであった。
こうなるともはや個人的な好みでしか選べないということになるのだが、これがまた個人的に好きな作品が何本もあるのだ。本当に困った。まぁ嬉しい悲鳴ではあるのだが。
例えば、長谷川氏の『下校の時間』も大好きな作品だ。「少年と少女が何かを待ちながらとりとめのない会話をする」というシチュエーションが、やはり五年前に候補作となった同氏の『メガネとマスク』とよく似ていながらも、その完成度や情感の深さでは何倍もスケールアップしている。例年ならば、最優秀賞となってもまったくおかしくない傑作だと思う。
八鍬氏の『アカメ』も同様である。この作品が昨年か一昨年に出されていたら、たぶん最優秀作品となっていたのではないか。少なくとも、わたしは間違いなく一番に推したと思う。それほど氏の写実的な台詞を書く技術は申し分ない。雪に封じ込められる北海道南央部のゲストハウスという設定の取り方も秀逸だし、登場人物全員に切実な事情を仕組む周到さも見事だ。
ピンク地底人氏の『黒いらくだ』の冒頭に激しい雨が降っているところも好きだし、受賞作となった出口氏(with大田氏)の『うかうかと終焉』など、かつて京都でノンシャランな下宿生活をおくった個人的体験からすれば、もはや審査員中でこの作品がもっとも好きなのは自分だと言い切れる自信があるほどだ(わたしはかつてこのような作品が書いてみたくて『東京原子核クラブ』を書いたのだ)。登場人物全員が愛おしいが、ことに最後に出て行く美濃部など最高に大好物のキャラクターである。
その中でわたしは、くるみざわ氏の『精神病院つばき荘』を推した。それは、この作品が、わたしにとってはもっとも迫力があったからである。福島の原発事故は、やはり三年前に最終候補となった同氏の『蛇には、蛇を』でも重要なモチーフとなっていた。けれども、あの事故を語るとき、それを第三者としての批判や糾弾の域にとどまるのではなく、そこから一歩進んで、自らも「天に唾した者の一人」として我が身に引き受けようとする主人公・山上の在り方に胸を打たれたからである。最後の浅田の台詞も感動的だ。入り口はチェーホフの『六号室』なみに精神病院の院長と入院患者の主客が転倒する喜劇の様相でありながら、この戯曲が最後に到達する場所は、わたしたちこの国に住まう者たち全員にとって、とてつもなく重く、大切な意味を含んでいると思った。今のわたし自身に「他人事ではないぞ」と、もっとも切迫してきた作品だった。
渡辺えり
戯曲とは何なのだろうか?
今回の審査にあたって、良い戯曲、優れた戯曲とは何なのだろうかと改めて思った。審査員の好みや、その時の感情や感覚に響いた作品が、受賞作ということになるのではなかろうか? 審査員が変われば、まるで違った作品が受賞する可能性がある。それらの偶然や今この時の社会背景がこの戯曲賞の個性にもなっているのかもしれない。
私はくるみざわしんさんの『精神病院つばき荘』を推した。今現在の社会の矛盾、正義とは何か? 体制側、反体制側の心理の矛盾。善悪とは簡単に言い表せない、人間心理の矛盾と不思議さが、リアルとファンタジーの交錯する世界で面白く表現されていると感じた。そして、今劇作家が書いておかなくてはならない問題でもあると感じたからだった。
受賞した『うかうかと終焉』は私の心には響かなかった。革命を信じた学生運動の終焉のことを書きたかったのか? 学生寮という特殊な環境の中での会話の中にもっと力強いメッセージが必要ではなかったか?と、高卒の私にも響く何かが欲しかった。
『黒いらくだ』も面白く読んだ。ト書きに書かれたマタイの福音書「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。今の社会がそうではなくなっているということの大いなる皮肉を書きたかったのだと思う。
『アカメ』も個性の強い文体の、好きな作家である。ざっくりとした質感のシーンと顕微鏡を覗いたようなシーンとのアンバランスをもっと駆使すればさらに個性が強まるのではないだろうか?
『下校の時間』も面白い。長谷川さんの作品は繊細で登場人物の個性に合わせた言葉のチョイスも独特で新鮮である。
今回の作家たちは次回作を読み続けたいと思わせる方ばかりであった。私自身も書く力と読む力を磨いていかなければといつも思うが、感情と感覚が先に立ち、うまさよりも、作品の存在感、力強さを感じた作品を推したい思いが強い。今回は女性作家が少なかったが次回はさらに期待したい。