第22回劇作家協会新人戯曲賞選考経過
受賞作 南出謙吾『触れただけ』

左から:南出謙吾、鴻上尚史(劇作家協会会長)

左から:南出謙吾、鴻上尚史(劇作家協会会長)

審査会の模様
左から:瀬戸山美咲(司会)、土田英生、川村毅、鴻上尚史、マキノノゾミ、坂手洋二、鈴江俊郎、佃 典彦

授賞式

『もものみ。』 守田慎之介 (福岡県)
『プラヌラ』 高石紗和子 (東京都)
『触れただけ』 南出謙吾 (東京都⇒大阪府)
『カミと蒟蒻』 長谷川源太 (京都府)
『the Last Supper』 太田衣緒 (東京都)

川村 毅、鴻上尚史、坂手洋二、鈴江俊郎、佃 典彦、土田英生、マキノノゾミ
(司会:瀬戸山美咲)
*第22回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら
選考経過 瀬戸山美咲
今回は接戦であった。
『もものみ。』について、マキノ氏「ただひたすら営みが描かれている。その営みが普遍に到達している」。佃氏「喪失感が明るいトーンで描かれていてうまい」。坂手氏「不穏だ。この農家には子供がいない。これからの日本が農村を通して描かれている」。川村氏「ミニマリズムと口語体ではっきりとしたドラマを回避している。ムードが出ている」。
『プラヌラ』について、鴻上氏「プラヌラというイメージを見つけたことが素敵」。マキノ氏「同世代しか出て来ず、先行世代への言及がない」。土田氏「登場人物全員の地続き感がすごい。どこかに正しさを置いていないのがすごい」。
『触れただけ』について、鴻上氏「短編の水準は高い。三話がもう少し有機的に展開されていれば」。坂手氏「つなげることに執着していないのがよい。今の時代の空気感を描けている」。鈴江氏「風景が主役。それを強く舞台上に突きつけられれば」。
『カミと蒟蒻』について、土田氏「嘘の作り方がうまくいっていない」。鴻上氏「風船爆弾は魅力的な素材。うまくやらないと素材に負けてしまう」。鈴江氏「出だしは単調にならない工夫をしているが、途中から説明的になってしまった」。
『the Last Supper』について、川村氏「別役実をよく勉強している。ただ、誘拐事件自体が不条理。異常な設定に不条理のセリフをかぶせても生きない」。佃氏「一階の日常の時間の上に二階の得体の知れない時間が載っている構造がうまい」。
二作品ずつ選んだ一回目の投票結果は以下のとおり。
『もものみ。』 土田、マキノ、坂手
『プラヌラ』 土田、鴻上、鈴江、佃
『触れただけ』 川村、マキノ、坂手、鈴江
『the last supper』 川村、鴻上、佃
この時点で『カミと蒟蒻』は選考対象から外れることに。休憩後、一作品ずつ選ぶということで、再度投票をおこなった。その結果、以下のようになった。
『もものみ。』 マキノ
『プラヌラ』 土田、鴻上
『触れただけ』 坂手、鈴江
『the last supper』 川村、佃
票が割れたため、それぞれ自分の推す作品について応援演説をおこなう。
『もものみ。』については、マキノ氏が「空間とそこにいる人が生んだ作品。豊かな時間で値打ちがある」と熱く語る。
『プラヌラ』については、佃氏が「若い人にしか書けない作品。切実さが感じられる」と評価。坂手氏からは「プラヌラというものの説明に作品が勝っていない」という意見が出た。
『触れただけ』については、鈴江氏が「無常観がある。経済が進化していく中で疎外される人々の悲惨が描かれている」と分析。
『the Last Supper』については、川村氏から「わけわからなさに可能性がある。うまくおさまったお手本的作品でないのがいい」という意見が出た。
応援演説を受けて佃氏が自分の票を『プラヌラ』に移動させたことから二票以上を獲得した二作品で決選投票となった。その結果、
『プラヌラ』 土田、鴻上、佃
『触れただけ』 川村、マキノ、坂手、鈴江
となり、『触れただけ』に決定した。
今回は接戦であった。
『もものみ。』について、マキノ氏「ただひたすら営みが描かれている。その営みが普遍に到達している」。佃氏「喪失感が明るいトーンで描かれていてうまい」。坂手氏「不穏だ。この農家には子供がいない。これからの日本が農村を通して描かれている」。川村氏「ミニマリズムと口語体ではっきりとしたドラマを回避している。ムードが出ている」。
『プラヌラ』について、鴻上氏「プラヌラというイメージを見つけたことが素敵」。マキノ氏「同世代しか出て来ず、先行世代への言及がない」。土田氏「登場人物全員の地続き感がすごい。どこかに正しさを置いていないのがすごい」。
『触れただけ』について、鴻上氏「短編の水準は高い。三話がもう少し有機的に展開されていれば」。坂手氏「つなげることに執着していないのがよい。今の時代の空気感を描けている」。鈴江氏「風景が主役。それを強く舞台上に突きつけられれば」。
『カミと蒟蒻』について、土田氏「嘘の作り方がうまくいっていない」。鴻上氏「風船爆弾は魅力的な素材。うまくやらないと素材に負けてしまう」。鈴江氏「出だしは単調にならない工夫をしているが、途中から説明的になってしまった」。
『the Last Supper』について、川村氏「別役実をよく勉強している。ただ、誘拐事件自体が不条理。異常な設定に不条理のセリフをかぶせても生きない」。佃氏「一階の日常の時間の上に二階の得体の知れない時間が載っている構造がうまい」。
二作品ずつ選んだ一回目の投票結果は以下のとおり。
『もものみ。』 土田、マキノ、坂手
『プラヌラ』 土田、鴻上、鈴江、佃
『触れただけ』 川村、マキノ、坂手、鈴江
『the last supper』 川村、鴻上、佃
この時点で『カミと蒟蒻』は選考対象から外れることに。休憩後、一作品ずつ選ぶということで、再度投票をおこなった。その結果、以下のようになった。
『もものみ。』 マキノ
『プラヌラ』 土田、鴻上
『触れただけ』 坂手、鈴江
『the last supper』 川村、佃
票が割れたため、それぞれ自分の推す作品について応援演説をおこなう。
『もものみ。』については、マキノ氏が「空間とそこにいる人が生んだ作品。豊かな時間で値打ちがある」と熱く語る。
『プラヌラ』については、佃氏が「若い人にしか書けない作品。切実さが感じられる」と評価。坂手氏からは「プラヌラというものの説明に作品が勝っていない」という意見が出た。
『触れただけ』については、鈴江氏が「無常観がある。経済が進化していく中で疎外される人々の悲惨が描かれている」と分析。
『the Last Supper』については、川村氏から「わけわからなさに可能性がある。うまくおさまったお手本的作品でないのがいい」という意見が出た。
応援演説を受けて佃氏が自分の票を『プラヌラ』に移動させたことから二票以上を獲得した二作品で決選投票となった。その結果、
『プラヌラ』 土田、鴻上、佃
『触れただけ』 川村、マキノ、坂手、鈴江
となり、『触れただけ』に決定した。
選評
川村 毅 ── 選評らしきもの
今回の最終候補作品はそこそこの仕上がりと読めた。そこそこのなかにも強度の段階はある。強いそこそこに比べて弱いそこそこ、普通のそこそこといった具合に。とはいうものの強いそこそこもそこそこの向こう側を越えることはない。
そこそことは、とりたてて大きな欠点弱点はないものの、作者の絶対に揺るがない意志に基づいた突破点もない、とでも言えばいいだろうか。突破点とは読む者の好み云々などを抑え込む強度を持つ核のことで、しかし核の原型はありつつもそれを描くのに失敗した時は目も当てられないので、それがたとえ偉大なる失敗作だとしても、最終候補には上がってこられないのだろう。
そこそこの作品とは、こうした失敗を回避しているので安心して読める。つまりそこそこ読めるそこそこのものだ。失敗の予感は微塵もないのだ。
そこそこの作品の上演は、見に来た身内の者たちの温かい賛辞に包まれるだろう。そしてさらに彼らは作者に応援の言葉を贈るだろう。
協会とは身内の集まりだから、私もまたここで温かいエールを贈るのが筋とも言えようが、審査しろということは劇作家として真剣勝負で立ち会うことだと解釈しているからはっきり言う。
こうしたそこそこレベルの作品は少なくはない。月いちリーディングで取り上げられる多くのものもそうだ。それでも救われるのは月いちリーディングの作家たちはそれがそこそこだと自覚していることだ。
その作家でしか書けない物語、台詞、情景、構成。これらの全部をクリアにしろというわけではない、このうちのどれかひとつが突破点となって躍動する作品がそこそこを越える。多少の失敗はあってもいい。殊に新人を名乗る者の作品にはそれがあったほうが良心的だ。
『the Last Supper』を最初に推したわけは、わからなさが少しばかりそこそこからはみ出ているからなのだが、そのわからなさの確信の根拠がわからないので、わからない作品として成功していない。
『触れただけ』の受賞に異論はまったくない。五作品中一番面白くすらすら読めた。ここでいうすらすらは決して皮肉ではない。単純に面白いからすらすら読めたのだ。しかしこのすらすら感がそこそこと結託してしまったのかも知れない。しかしここには謎がある。この謎からは今後この作者がそこそこから大いに飛躍する萌芽が読み取れる。
川村 毅 ── 選評らしきもの
今回の最終候補作品はそこそこの仕上がりと読めた。そこそこのなかにも強度の段階はある。強いそこそこに比べて弱いそこそこ、普通のそこそこといった具合に。とはいうものの強いそこそこもそこそこの向こう側を越えることはない。
そこそことは、とりたてて大きな欠点弱点はないものの、作者の絶対に揺るがない意志に基づいた突破点もない、とでも言えばいいだろうか。突破点とは読む者の好み云々などを抑え込む強度を持つ核のことで、しかし核の原型はありつつもそれを描くのに失敗した時は目も当てられないので、それがたとえ偉大なる失敗作だとしても、最終候補には上がってこられないのだろう。
そこそこの作品とは、こうした失敗を回避しているので安心して読める。つまりそこそこ読めるそこそこのものだ。失敗の予感は微塵もないのだ。
そこそこの作品の上演は、見に来た身内の者たちの温かい賛辞に包まれるだろう。そしてさらに彼らは作者に応援の言葉を贈るだろう。
協会とは身内の集まりだから、私もまたここで温かいエールを贈るのが筋とも言えようが、審査しろということは劇作家として真剣勝負で立ち会うことだと解釈しているからはっきり言う。
こうしたそこそこレベルの作品は少なくはない。月いちリーディングで取り上げられる多くのものもそうだ。それでも救われるのは月いちリーディングの作家たちはそれがそこそこだと自覚していることだ。
その作家でしか書けない物語、台詞、情景、構成。これらの全部をクリアにしろというわけではない、このうちのどれかひとつが突破点となって躍動する作品がそこそこを越える。多少の失敗はあってもいい。殊に新人を名乗る者の作品にはそれがあったほうが良心的だ。
『the Last Supper』を最初に推したわけは、わからなさが少しばかりそこそこからはみ出ているからなのだが、そのわからなさの確信の根拠がわからないので、わからない作品として成功していない。
『触れただけ』の受賞に異論はまったくない。五作品中一番面白くすらすら読めた。ここでいうすらすらは決して皮肉ではない。単純に面白いからすらすら読めたのだ。しかしこのすらすら感がそこそこと結託してしまったのかも知れない。しかしここには謎がある。この謎からは今後この作者がそこそこから大いに飛躍する萌芽が読み取れる。
鴻上尚史 ── 力作揃いでした。
『もものみ』は、じつにゆったりとした時間が流れる素敵な作品でした。キャラクターも書きわけられていて、そこに流れる時間が確実に描写されていました。ただ、いかんせん、全体として長く、大きな欠点がない反面、もうひとつ食い足りない感覚がありました。
なにかドラマを。それは、殺人とか三角関係という明白なものではなく、この時間の中で現れる、もうひとつのドラマがあればよかったと思います。
『プラヌラ』を僕は一押ししました。じつに詩的なセリフで、引きこもってしまったまひろの内面がひりひりと描かれて、とても才能を感じました。
ただ、構造的にはひとつ弱い。最後、まひろに希望の光をともそうとする「けい」をちゃんと描写しておかないと、ご都合主義と言われてしまいます。
エッセー的な作品ですが、言語センスは抜群ですから、これからは、構造的に人物を造形し、物語を語るというテクニックをつければいいと思いました。なんにせよ、24歳でここまで書けるのは衝撃でした。
『触れただけ』は、じつに筆力の確かな作品でした。今回、最優秀作品になりましたが、なんの異論もありません。ただ、筆力があるからこそ、短編三作が有機的につながればより面白く傑作になったと、つい欲を出して感想を言いたくなります。
勇気を持って大胆に書き続けて、プロへの道を堂々と大胆に進んでいってもらいたいと思います。
『カミと蒟蒻』は、志の高い作品でした。ただ、「風船爆弾」という面白い素材に頼ってしまった感があります。人物が少し類型的なのが残念です。歴史的な事件を、どう、4人で描くかは、じつにやっかいなものですが、でも、やりがいのある試みです。ブラッシュアップを続けていって欲しいと思います。
『the Last Supper』は、大胆な野心作です。僕はこの作品も押しました。ただ、実際の事件の印象が強く、それを越えて描くのは、なかなか大変なことです。最後の少女の言葉に物足りなさを感じました。ただ抜群の筆力を持つ作者です。最後のシーン、二人がスケッチするという部分が、もうひとつクリアな設定になっていれば傑作になっていたと思います。
総じて、5作は水準が拮抗し、例年にない僅差の投票になりました。間違いなく水準は上がっていると思います。劇作家志望者の闘いを応援します。
坂手洋二 ── 現実の心許なさの反映
『もものみ。』は、長い。この作品を最初に読み始めて、これから五本読むのはたまらんなあ、と感じ、何度も「まだ続くのか」と思った。しかし途中から「確信犯かもしれない」と感じた。似通いすぎた個々人のあり方、喋り過ぎる台詞の繰り返しも、農家の日常はそういうものでもあるし、あえて不条理として提示しようとしているのかもしれなかった。農村なのに子供がいない不穏さ、これからの日本の潜在的不安も描かれている。桃の使い方も悪くない。この手法でなければ描けない「リアル」がある。作者が実際に農家だった祖父の家で上演するという形態から、必然性を持って書かれていることも強みなのだろう。刺激的な作品に思われてきた。後で作者から「実際の上演時間は九十分だった」と聞き、たぶん私の勘は当たっているはずだと、あらためて思った。
『プラヌラ』は、自己言及、自己憐憫、自問自答に終始し、多用されるモノローグが安易に感じられてしまう。提示されたことが展開しないまま終わっている感じも多い。そこに「現在」の感触を認められるかどうかによって評価が分かれるところだが、どうしてもプラヌラについて説明する長い台詞の魅力に作品じたいが勝っていない感じがして、もったいない。
『触れただけ』は、三つの世界が描かれ、それがどこかで繋がっている。だけどそれがどうした、という感じがしてしまう。全体に、数行進んだところで停滞する、一種の「ノッキング」の感触があって、そこに作者が自らの置かれた状況と重ねて示そうとする、生理のようなものは伝わってくる。それを作品的な高みに昇華させてゆくには、もう一工夫が必要だともいえるが、作者が巧みさを持っていることは確かだ。あえて「ノッキング」させている。「繋がっているようで繋がっていない」。だからタイトルが「触れただけ」になるということだろう。
『カミと蒟蒻』は、きちんと調べなければ書けない内容に挑んでいる真摯さに好感が持てる。登場人物が自ら風船爆弾作りを買って出る情熱もいい。ただ、時代に即していない描写、ありきたりだったり、ただお喋りに感じられたりしてしまうところがあり、もう少し丁寧に時代の空気を捉えられるのではないかと思う。また、劇中に夢の要素が出てくるときには、それが誰の意識の中なのか、「夢の所有格」のようなものに関心がほしい。明確であるべきなのか、意図的に語り部を変える工夫が可能なのか。ミステリー的に使うこともできる。工夫を惜しまなければもっとできることがあるはずだ。
『the Last Supper』は、新潟の少女監禁事件から触発されている。事件自体はたいへん辛い内容だが、ストックホルム症候群のことも想起しうる普遍性はある。口の中に骨が刺さったり、床にテープが貼ってあったり、演劇的に興味深く感じられる趣向も、いい。ただ、登場人物の魅力や個性はもっと磨ける気がする。意匠を凝らすだけでなく、プロットをシンプルにすることで、よりダイナミックなものにできると思う。
今年の作品群は、多様な世界が「リンク」していることを示すものが多かったように思う。情報過多の社会の中に、人間存在そのものがただぶらさがっているしかないような、現実の心許なさが反映している。しかし、「繋がってしまっている」ことの意外さのみでは、それはさざ波のようなもので、「プロット」になっているとは言えないケースが多い。
戯曲とは何か、演劇でなければ示すことのできないものは何か、私も一緒に考えていきたい。
鈴江俊郎
受賞作に感心した。
マンションが互いに価値を削りあうようにせこく建っていく街の一角。自爆でマンションを買う営業マンの悲惨。卵買いに出たっきりで離婚してしまう男の動機の浅さ、けれど気分の重さ。都会の風景としてはとても日常的なものなのに、ひとつひとつが身に食い込むように深くこわい。孤独。経済の進化が究極まで来たあげくにやってきた労働の疎外。分断された人間たちの悲劇をここまで見つめてしまう作者の覚悟がすごい。日常をきちんとスケッチする原則的な努力、と見せながら、実は、日常の風景の中にこれほどの絶望を見出してしまうこの仕事は、感覚の鋭敏さがなせる特別なものかもしれない。
最大の魅力は、セリフのユーモアだ。笑わせるだけに、悲しみはよけいに悲しい。いや悲しみが底にある分、笑いは痛切におかしい。微妙な情けない行動、そしてそのもとになってる絶望。しかし深刻さを隠した表層の軽さ。その二重性が楽しい。「時々きつい夜がある」っていうセリフがあるが、私は「けっこう毎晩きついのよ」と相手には伝わってる表現なんだ、と受け取った。「紛らすだけ。誰でもいい。いや誰でもいいわけじゃない。」本心はどちらかあいまいだ。けれど私には「雄介じゃないとダメなんだ」という心の声をごまかすための装いだと受け取った。ロマンチックな読み方すぎるかもしれないけれど、最後の最後は相手に負担をかけたくないから距離をとって自分を収めようとする現代人の警戒心だったら深く納得できる。この作品に出てくる登場人物たちとなら、含みある会話を楽しみたい。あるいは含み過ぎる会話で傷つけ傷つくような時間を持ちたい、と私は思った。
ただ、おそらくこの戯曲の上演はおおむね登場人物のアクションに乏しく、おしゃべりばかり聞かされることになりはしないだろうか。そこに弱さを感じる。三つの局面が並べられて作品が一つ成立する、という体裁をとっているわりには、三つの局面が、この時とこの場所とこの人物であらねばならなかった、と感じさせない。まだ改善の余地がある。
最後に救いを見せないこの物語の結末が、私には好もしい。現実をごまかさないで直視しようとする堂々たる態度だ。絆や安易な希望でごまかせない交換不能な不幸せがいまの世に蔓延しているのだ、という指摘に、私は共感する。今の社会をともに怒る同志として、この同志の姿勢を支持したいのだ。
佃 典彦
はい、名古屋のミラーマン佃でございます。
今年は五作品ともそれぞれ特徴的で作家の個性が光っていたと思います。ワンシチュエーション家族劇、詩的なセリフの学園モノ、オムニバス、戦争体験記、時間軸を越えた犯罪モノ。こうして並べてみても実にバラエティーに富んだ作品群です。僕は<詩的なセリフの学園モノ>と<時間軸を越えた犯罪モノ>の二本に強く心を惹かれました。つまり『プラヌラ』と『the Last Supper』です。
もう50歳を過ぎた僕にはとてもじゃないけど書けやしない・・・と思わされたのが『プラヌラ』でした。「晴れ晴れとし過ぎていて何を見て見ぬふりをしているのかしっくりこないよね」というセリフが、今の高校生の得体の知れぬ不安感を上手く表現していて切実な感じが痛々しい。同年代の他愛もない会話が続く中、実は会話しながら脳ミソの中は自分のことだけで一杯になっているような薄い関係、それが回想シーンで表現されているのが上手いと思いました。お互い言葉が届かないといった感じ・・・。僕は最後までこの作品を推したのには24歳の作者の、今でしか書けないような危うさに感じ入ったからでした。
『the Last Supper』はドキドキしながら最後まで読んだ作品です。時系列が複雑で一見読みにくくもあったのですが、一階の母親の時間が淡々と過ぎて行くのに対して二階の息子と監禁されている少女の部屋には凄まじいことが起こって行く。家の中の時間軸がグニャリとひん曲がっていて、あの実際に起きた監禁事件の現場の空気感や質感に迫っていたと思いました。ただ<壁の大きな裸婦の絵>だとか<歯に挟まった骨>や<競馬の話>など次々出て来るエピソードやアイテムがもう少し整理されていた方が良かったように思いました。
『もものみ。』は家の中でそれぞれの居場所を見つけようとしている話だと思います。去年死んだ父親の存在、大黒柱が倒れた後の家族が自分の家の中で居場所を探すというは実に切ない、なのにそれをラストまで明るいトーンで描いているところが僕は好きでした。セリフも説明的でなく上手いです。恐らく五本の中では一番安心して観られる芝居でしょう。ただ僕はその安心感が少々物足りなく感じてしまい今一つ推せませんでした。
『触れただけ』はオムニバス作品ですが三つの話にさりげない繋がりがあって笑わせ方も上手いし一等賞になった理由も判ります。が、僕はどうしても二話目の男に納得がいかなくて推せませんでした。僕は卵を買いに行ったまま逃げた男がこの女子高生へあの対応をするのはちょっと解せないのです。<逃げる>という行動、しかも<逃げ切る>のには相当の覚悟が必要だと僕には思えて仕方ないのでした。
『カミと蒟蒻』は取材に来た女性に背景がないのが辛いです。ただ過去を引っ張り出すためだけに終始してしまっていて老夫婦の苦い思い出を噛みしめるだけになってしまっているのが一番大きい問題点だと思います。途中のマンザイみたいなやり取りも全体から浮いてしまっている様に感じました。
以上、選評でした。
土田英生
高石紗和子さんの『プラヌラ』を推そうと決めていた。細部の会話は具象で描かれ、私たちが現実に生きている世界の延長線上にあると思えるのに、作品全体の印象は抽象画を眺めているかのような感触。境界線が見えないことに興味を惹かれた。これは主人公である“まひろ”と彼女の同級生たちの関係にも言える。引きこもりになってしまったまひろと、日常生活を泳ぐ他の登場人物の間にも明確な線引きはない。地続きになっていることによって、まひろの生き辛さが自分のことのように感じられた。
南出謙吾さんの『触れただけ』の受賞には納得している。私が最後まで推し切れなかったのは、この作品がベストなのかという迷いが生じたからだ。元より力のある劇作家であり、これまでどの作品も面白く読ませてもらっているだけに、決定打に欠ける気がしてしまったのだ。三話の短編が緩やかに繋がっている構成になっているが、個人的にはそのつながり自体がもっとドラマになってていてくれたらと思った。二話目の援助交際の話は特に切なかった。
守田慎之介さんの『もものみ。』は台詞や人物の描写力が見事だった。地域に脈々と続いている共同体のルールに縛られている人々の有様が立ち上がってくる。分かりやすく終わらせていないのがいい、という他の審査員の意見にも同意しつつ、それでも直子が家を出て行くことにドラマを作ってもいいのではと感じた。家族のそれぞれが等価に描かれ、あくまで家自体を描写しているは理解できるのだが、構造のせいなのか私は直子を軸にして読んでしまった。それだけに直子が抱えていたものや、決意に至る流れをもっと知りたくなってしまったのだ。
太田衣緒さんの『the Last Supper』はイメージの作り方が面白かった。暗く深刻な設定ながら、極端に色付けされた登場人物の会話で愉快に読める。ただ、私は最後までこの劇のルールがつかめず、入り込むことができずに終わってしまった気がする。
長谷川源太さんの『カミと蒟蒻』はよく調べれて書かれているなとは思ったが、演劇としてどう見せたいかという視点が定まっていない印象だった。無理に愉快にしようとしているような箇所が散見され、むしろそれが邪魔になっているのがもったいないと感じた。
マキノノゾミ
守田氏の『もものみ。』には、さしたる筋立てはない。あるのは福岡県のとある果樹園農家の暮らし――その日々の営みのスケッチである。むろんこの市井家にも固有の家庭の事情はあって、きょうだい間の葛藤もあれば家族の各々に悩みの種もある。だがそれらもとりたてて個性的・劇的なものではなく、どこの家にもありそうな事情だ。にもかかわらず……この戯曲は傑作である。わたしは読んでいて途中で泣けて仕方がなかった。それはこの劇が「人々がただひたすらに日々を生きている」そのスケッチの精密さと繊細さをもって、ある種の「普遍」にまで到達しているからである。おそらく世界中の、どの時代の、どこの家族にも、戦争と差し迫った飢餓さえなければ、同じように日々の営みがあった(ある)ことを想起させるからである。幸福とはこういうことだ。これは百年後にも残り得る作品であるし、この時代の暮らしを知るための一級品の資料として百年後の劇作家が感謝を捧げるであろう戯曲である。
高石氏の『プラヌラ』は、登場人物のモノローグ(思考)と自然な会話が自在に混在しつつ進む小説的な作品で、手法的には手堅くまとまっていると感じた。主人公の脆弱性を表す「プラヌラ」という言葉のチョイスなど随所にセンスの光る箇所もある。ただ、作者自身がこの主人公と一体化し過ぎていやしまいか。主人公まひろの相対化はどこまでも水平方向に同世代の友人間においてのみ行われ、先行する世代は(姉のはんなでさえも)すべて風景のような扱いとなる。おそらく健在であるだろう親については一言の言及すらない。友人たちも主人公と拮抗しうるほど血肉化できているのはうめくらいで、あとはやはり風景的な扱いである。私小説ならこれでよいのだが、演劇はもっと、作者から等距離の他者同士の対話のダイナミズムによって支えられなくてはならないと思う。だから大詰めの雨の運河をはさんで会話する場面など、イメージも台詞も素晴らしいのに、対話の相手である肝心のけいの造形が曖昧であって実に惜しい。
受賞作となった南出氏の『触れただけ』は、昨年も最終候補に残った同氏の『ずぶ濡れのハト』とはまるで異なる感触をもつ、不思議な味わいの短編連作である。昨年の戯曲は地方のスーパーを舞台に土着的なリアリズムを強く感じたが、今年のはぐっと都会的な物語であり、そのぶんやや人工的な印象がある。いずれにしても、どちらも書けるという意味で作者の技量はそうとうに高いと思う。とくにこの作者は特殊な関係にある男女間の台詞を書くのが巧い。女子高生の高橋がチョコレートドリンクを飲んで「ものすごくまずいです!」と言って逆に感動するくだりなど、実にスリリングである。ただし、作品全体では少々物足りなさを感じる。三作のループの輪が最後のところできちんとつながれていないからだ(ト書きではわかるが、おそらく上演ではまったくわからないだろう)。そのための短いもう一場面を作ってもよかったのではないかと思った。
長谷川氏の『カミと蒟蒻』は、まず作品全体の構想が素晴らしい。現代に暮らす老夫婦のところへ戦時中の話を取材にくるという入り口から過去の物語に滑り込んでゆく展開といい、すべての物語をわずか四人の俳優で演じきるというアイデアといい、いずれも秀逸である。超がいくつもつく傑作となり得る可能性を秘めている。ただ、いかんせん台詞がどうにも書けていない。言いたいことはわかるのだが、いかんせん登場人物が往時の人間に見えない。たとえば戦前・戦中に作られた映画や書かれた小説などをもっと観たり読んだりして、当時の空気感や会話の生理などを研究するとよいと思う。狙いというよりはおそらく筆がすべったのであろうギャグ台詞も不発だし、不要だと感じた。何度でも改訂して真の傑作へと練り上げていってほしいと切に思う。
太田氏の『the Last Supper』は、かつてあった新潟での少女監禁事件を素材にしている。現実にはおぞましい事件であったが、だからこそ演劇的にその闇を解剖したくなる素材でもある。作品そのものは面白くは読んだのだが、不条理劇となるとわたしには力不足でじゅうぶんな批評はできない。恥ずかしながら、終幕などまったくわからなかった。展開するのは主に犯人(僕)の妄想の世界だと思うのだが――好みだけで書かせてもらえば――そこでは、現行の僕と少女の共闘関係からもっと主客が逆転した関係が見たかった。僕の妄想の中で、少女がもっと輝やかしく僕を圧倒するような存在であったならば、最後に衰弱して発見される現実との落差がより劇的に残酷なものとなったのではないか。それは作者の好みではないかも知れないが。
今年の最終候補作では、わたし個人では『もものみ。』がいちばん良かった。南出氏の受賞にむろん否やはないのだが、わたしの中では昨年との「合わせ一本」という意味合いが強い。氏の今後のいっそうの研鑽と飛躍を期待したい。
『もものみ』は、じつにゆったりとした時間が流れる素敵な作品でした。キャラクターも書きわけられていて、そこに流れる時間が確実に描写されていました。ただ、いかんせん、全体として長く、大きな欠点がない反面、もうひとつ食い足りない感覚がありました。
なにかドラマを。それは、殺人とか三角関係という明白なものではなく、この時間の中で現れる、もうひとつのドラマがあればよかったと思います。
『プラヌラ』を僕は一押ししました。じつに詩的なセリフで、引きこもってしまったまひろの内面がひりひりと描かれて、とても才能を感じました。
ただ、構造的にはひとつ弱い。最後、まひろに希望の光をともそうとする「けい」をちゃんと描写しておかないと、ご都合主義と言われてしまいます。
エッセー的な作品ですが、言語センスは抜群ですから、これからは、構造的に人物を造形し、物語を語るというテクニックをつければいいと思いました。なんにせよ、24歳でここまで書けるのは衝撃でした。
『触れただけ』は、じつに筆力の確かな作品でした。今回、最優秀作品になりましたが、なんの異論もありません。ただ、筆力があるからこそ、短編三作が有機的につながればより面白く傑作になったと、つい欲を出して感想を言いたくなります。
勇気を持って大胆に書き続けて、プロへの道を堂々と大胆に進んでいってもらいたいと思います。
『カミと蒟蒻』は、志の高い作品でした。ただ、「風船爆弾」という面白い素材に頼ってしまった感があります。人物が少し類型的なのが残念です。歴史的な事件を、どう、4人で描くかは、じつにやっかいなものですが、でも、やりがいのある試みです。ブラッシュアップを続けていって欲しいと思います。
『the Last Supper』は、大胆な野心作です。僕はこの作品も押しました。ただ、実際の事件の印象が強く、それを越えて描くのは、なかなか大変なことです。最後の少女の言葉に物足りなさを感じました。ただ抜群の筆力を持つ作者です。最後のシーン、二人がスケッチするという部分が、もうひとつクリアな設定になっていれば傑作になっていたと思います。
総じて、5作は水準が拮抗し、例年にない僅差の投票になりました。間違いなく水準は上がっていると思います。劇作家志望者の闘いを応援します。
坂手洋二 ── 現実の心許なさの反映
『もものみ。』は、長い。この作品を最初に読み始めて、これから五本読むのはたまらんなあ、と感じ、何度も「まだ続くのか」と思った。しかし途中から「確信犯かもしれない」と感じた。似通いすぎた個々人のあり方、喋り過ぎる台詞の繰り返しも、農家の日常はそういうものでもあるし、あえて不条理として提示しようとしているのかもしれなかった。農村なのに子供がいない不穏さ、これからの日本の潜在的不安も描かれている。桃の使い方も悪くない。この手法でなければ描けない「リアル」がある。作者が実際に農家だった祖父の家で上演するという形態から、必然性を持って書かれていることも強みなのだろう。刺激的な作品に思われてきた。後で作者から「実際の上演時間は九十分だった」と聞き、たぶん私の勘は当たっているはずだと、あらためて思った。
『プラヌラ』は、自己言及、自己憐憫、自問自答に終始し、多用されるモノローグが安易に感じられてしまう。提示されたことが展開しないまま終わっている感じも多い。そこに「現在」の感触を認められるかどうかによって評価が分かれるところだが、どうしてもプラヌラについて説明する長い台詞の魅力に作品じたいが勝っていない感じがして、もったいない。
『触れただけ』は、三つの世界が描かれ、それがどこかで繋がっている。だけどそれがどうした、という感じがしてしまう。全体に、数行進んだところで停滞する、一種の「ノッキング」の感触があって、そこに作者が自らの置かれた状況と重ねて示そうとする、生理のようなものは伝わってくる。それを作品的な高みに昇華させてゆくには、もう一工夫が必要だともいえるが、作者が巧みさを持っていることは確かだ。あえて「ノッキング」させている。「繋がっているようで繋がっていない」。だからタイトルが「触れただけ」になるということだろう。
『カミと蒟蒻』は、きちんと調べなければ書けない内容に挑んでいる真摯さに好感が持てる。登場人物が自ら風船爆弾作りを買って出る情熱もいい。ただ、時代に即していない描写、ありきたりだったり、ただお喋りに感じられたりしてしまうところがあり、もう少し丁寧に時代の空気を捉えられるのではないかと思う。また、劇中に夢の要素が出てくるときには、それが誰の意識の中なのか、「夢の所有格」のようなものに関心がほしい。明確であるべきなのか、意図的に語り部を変える工夫が可能なのか。ミステリー的に使うこともできる。工夫を惜しまなければもっとできることがあるはずだ。
『the Last Supper』は、新潟の少女監禁事件から触発されている。事件自体はたいへん辛い内容だが、ストックホルム症候群のことも想起しうる普遍性はある。口の中に骨が刺さったり、床にテープが貼ってあったり、演劇的に興味深く感じられる趣向も、いい。ただ、登場人物の魅力や個性はもっと磨ける気がする。意匠を凝らすだけでなく、プロットをシンプルにすることで、よりダイナミックなものにできると思う。
今年の作品群は、多様な世界が「リンク」していることを示すものが多かったように思う。情報過多の社会の中に、人間存在そのものがただぶらさがっているしかないような、現実の心許なさが反映している。しかし、「繋がってしまっている」ことの意外さのみでは、それはさざ波のようなもので、「プロット」になっているとは言えないケースが多い。
戯曲とは何か、演劇でなければ示すことのできないものは何か、私も一緒に考えていきたい。
鈴江俊郎
受賞作に感心した。
マンションが互いに価値を削りあうようにせこく建っていく街の一角。自爆でマンションを買う営業マンの悲惨。卵買いに出たっきりで離婚してしまう男の動機の浅さ、けれど気分の重さ。都会の風景としてはとても日常的なものなのに、ひとつひとつが身に食い込むように深くこわい。孤独。経済の進化が究極まで来たあげくにやってきた労働の疎外。分断された人間たちの悲劇をここまで見つめてしまう作者の覚悟がすごい。日常をきちんとスケッチする原則的な努力、と見せながら、実は、日常の風景の中にこれほどの絶望を見出してしまうこの仕事は、感覚の鋭敏さがなせる特別なものかもしれない。
最大の魅力は、セリフのユーモアだ。笑わせるだけに、悲しみはよけいに悲しい。いや悲しみが底にある分、笑いは痛切におかしい。微妙な情けない行動、そしてそのもとになってる絶望。しかし深刻さを隠した表層の軽さ。その二重性が楽しい。「時々きつい夜がある」っていうセリフがあるが、私は「けっこう毎晩きついのよ」と相手には伝わってる表現なんだ、と受け取った。「紛らすだけ。誰でもいい。いや誰でもいいわけじゃない。」本心はどちらかあいまいだ。けれど私には「雄介じゃないとダメなんだ」という心の声をごまかすための装いだと受け取った。ロマンチックな読み方すぎるかもしれないけれど、最後の最後は相手に負担をかけたくないから距離をとって自分を収めようとする現代人の警戒心だったら深く納得できる。この作品に出てくる登場人物たちとなら、含みある会話を楽しみたい。あるいは含み過ぎる会話で傷つけ傷つくような時間を持ちたい、と私は思った。
ただ、おそらくこの戯曲の上演はおおむね登場人物のアクションに乏しく、おしゃべりばかり聞かされることになりはしないだろうか。そこに弱さを感じる。三つの局面が並べられて作品が一つ成立する、という体裁をとっているわりには、三つの局面が、この時とこの場所とこの人物であらねばならなかった、と感じさせない。まだ改善の余地がある。
最後に救いを見せないこの物語の結末が、私には好もしい。現実をごまかさないで直視しようとする堂々たる態度だ。絆や安易な希望でごまかせない交換不能な不幸せがいまの世に蔓延しているのだ、という指摘に、私は共感する。今の社会をともに怒る同志として、この同志の姿勢を支持したいのだ。
佃 典彦
はい、名古屋のミラーマン佃でございます。
今年は五作品ともそれぞれ特徴的で作家の個性が光っていたと思います。ワンシチュエーション家族劇、詩的なセリフの学園モノ、オムニバス、戦争体験記、時間軸を越えた犯罪モノ。こうして並べてみても実にバラエティーに富んだ作品群です。僕は<詩的なセリフの学園モノ>と<時間軸を越えた犯罪モノ>の二本に強く心を惹かれました。つまり『プラヌラ』と『the Last Supper』です。
もう50歳を過ぎた僕にはとてもじゃないけど書けやしない・・・と思わされたのが『プラヌラ』でした。「晴れ晴れとし過ぎていて何を見て見ぬふりをしているのかしっくりこないよね」というセリフが、今の高校生の得体の知れぬ不安感を上手く表現していて切実な感じが痛々しい。同年代の他愛もない会話が続く中、実は会話しながら脳ミソの中は自分のことだけで一杯になっているような薄い関係、それが回想シーンで表現されているのが上手いと思いました。お互い言葉が届かないといった感じ・・・。僕は最後までこの作品を推したのには24歳の作者の、今でしか書けないような危うさに感じ入ったからでした。
『the Last Supper』はドキドキしながら最後まで読んだ作品です。時系列が複雑で一見読みにくくもあったのですが、一階の母親の時間が淡々と過ぎて行くのに対して二階の息子と監禁されている少女の部屋には凄まじいことが起こって行く。家の中の時間軸がグニャリとひん曲がっていて、あの実際に起きた監禁事件の現場の空気感や質感に迫っていたと思いました。ただ<壁の大きな裸婦の絵>だとか<歯に挟まった骨>や<競馬の話>など次々出て来るエピソードやアイテムがもう少し整理されていた方が良かったように思いました。
『もものみ。』は家の中でそれぞれの居場所を見つけようとしている話だと思います。去年死んだ父親の存在、大黒柱が倒れた後の家族が自分の家の中で居場所を探すというは実に切ない、なのにそれをラストまで明るいトーンで描いているところが僕は好きでした。セリフも説明的でなく上手いです。恐らく五本の中では一番安心して観られる芝居でしょう。ただ僕はその安心感が少々物足りなく感じてしまい今一つ推せませんでした。
『触れただけ』はオムニバス作品ですが三つの話にさりげない繋がりがあって笑わせ方も上手いし一等賞になった理由も判ります。が、僕はどうしても二話目の男に納得がいかなくて推せませんでした。僕は卵を買いに行ったまま逃げた男がこの女子高生へあの対応をするのはちょっと解せないのです。<逃げる>という行動、しかも<逃げ切る>のには相当の覚悟が必要だと僕には思えて仕方ないのでした。
『カミと蒟蒻』は取材に来た女性に背景がないのが辛いです。ただ過去を引っ張り出すためだけに終始してしまっていて老夫婦の苦い思い出を噛みしめるだけになってしまっているのが一番大きい問題点だと思います。途中のマンザイみたいなやり取りも全体から浮いてしまっている様に感じました。
以上、選評でした。
土田英生
高石紗和子さんの『プラヌラ』を推そうと決めていた。細部の会話は具象で描かれ、私たちが現実に生きている世界の延長線上にあると思えるのに、作品全体の印象は抽象画を眺めているかのような感触。境界線が見えないことに興味を惹かれた。これは主人公である“まひろ”と彼女の同級生たちの関係にも言える。引きこもりになってしまったまひろと、日常生活を泳ぐ他の登場人物の間にも明確な線引きはない。地続きになっていることによって、まひろの生き辛さが自分のことのように感じられた。
南出謙吾さんの『触れただけ』の受賞には納得している。私が最後まで推し切れなかったのは、この作品がベストなのかという迷いが生じたからだ。元より力のある劇作家であり、これまでどの作品も面白く読ませてもらっているだけに、決定打に欠ける気がしてしまったのだ。三話の短編が緩やかに繋がっている構成になっているが、個人的にはそのつながり自体がもっとドラマになってていてくれたらと思った。二話目の援助交際の話は特に切なかった。
守田慎之介さんの『もものみ。』は台詞や人物の描写力が見事だった。地域に脈々と続いている共同体のルールに縛られている人々の有様が立ち上がってくる。分かりやすく終わらせていないのがいい、という他の審査員の意見にも同意しつつ、それでも直子が家を出て行くことにドラマを作ってもいいのではと感じた。家族のそれぞれが等価に描かれ、あくまで家自体を描写しているは理解できるのだが、構造のせいなのか私は直子を軸にして読んでしまった。それだけに直子が抱えていたものや、決意に至る流れをもっと知りたくなってしまったのだ。
太田衣緒さんの『the Last Supper』はイメージの作り方が面白かった。暗く深刻な設定ながら、極端に色付けされた登場人物の会話で愉快に読める。ただ、私は最後までこの劇のルールがつかめず、入り込むことができずに終わってしまった気がする。
長谷川源太さんの『カミと蒟蒻』はよく調べれて書かれているなとは思ったが、演劇としてどう見せたいかという視点が定まっていない印象だった。無理に愉快にしようとしているような箇所が散見され、むしろそれが邪魔になっているのがもったいないと感じた。
マキノノゾミ
守田氏の『もものみ。』には、さしたる筋立てはない。あるのは福岡県のとある果樹園農家の暮らし――その日々の営みのスケッチである。むろんこの市井家にも固有の家庭の事情はあって、きょうだい間の葛藤もあれば家族の各々に悩みの種もある。だがそれらもとりたてて個性的・劇的なものではなく、どこの家にもありそうな事情だ。にもかかわらず……この戯曲は傑作である。わたしは読んでいて途中で泣けて仕方がなかった。それはこの劇が「人々がただひたすらに日々を生きている」そのスケッチの精密さと繊細さをもって、ある種の「普遍」にまで到達しているからである。おそらく世界中の、どの時代の、どこの家族にも、戦争と差し迫った飢餓さえなければ、同じように日々の営みがあった(ある)ことを想起させるからである。幸福とはこういうことだ。これは百年後にも残り得る作品であるし、この時代の暮らしを知るための一級品の資料として百年後の劇作家が感謝を捧げるであろう戯曲である。
高石氏の『プラヌラ』は、登場人物のモノローグ(思考)と自然な会話が自在に混在しつつ進む小説的な作品で、手法的には手堅くまとまっていると感じた。主人公の脆弱性を表す「プラヌラ」という言葉のチョイスなど随所にセンスの光る箇所もある。ただ、作者自身がこの主人公と一体化し過ぎていやしまいか。主人公まひろの相対化はどこまでも水平方向に同世代の友人間においてのみ行われ、先行する世代は(姉のはんなでさえも)すべて風景のような扱いとなる。おそらく健在であるだろう親については一言の言及すらない。友人たちも主人公と拮抗しうるほど血肉化できているのはうめくらいで、あとはやはり風景的な扱いである。私小説ならこれでよいのだが、演劇はもっと、作者から等距離の他者同士の対話のダイナミズムによって支えられなくてはならないと思う。だから大詰めの雨の運河をはさんで会話する場面など、イメージも台詞も素晴らしいのに、対話の相手である肝心のけいの造形が曖昧であって実に惜しい。
受賞作となった南出氏の『触れただけ』は、昨年も最終候補に残った同氏の『ずぶ濡れのハト』とはまるで異なる感触をもつ、不思議な味わいの短編連作である。昨年の戯曲は地方のスーパーを舞台に土着的なリアリズムを強く感じたが、今年のはぐっと都会的な物語であり、そのぶんやや人工的な印象がある。いずれにしても、どちらも書けるという意味で作者の技量はそうとうに高いと思う。とくにこの作者は特殊な関係にある男女間の台詞を書くのが巧い。女子高生の高橋がチョコレートドリンクを飲んで「ものすごくまずいです!」と言って逆に感動するくだりなど、実にスリリングである。ただし、作品全体では少々物足りなさを感じる。三作のループの輪が最後のところできちんとつながれていないからだ(ト書きではわかるが、おそらく上演ではまったくわからないだろう)。そのための短いもう一場面を作ってもよかったのではないかと思った。
長谷川氏の『カミと蒟蒻』は、まず作品全体の構想が素晴らしい。現代に暮らす老夫婦のところへ戦時中の話を取材にくるという入り口から過去の物語に滑り込んでゆく展開といい、すべての物語をわずか四人の俳優で演じきるというアイデアといい、いずれも秀逸である。超がいくつもつく傑作となり得る可能性を秘めている。ただ、いかんせん台詞がどうにも書けていない。言いたいことはわかるのだが、いかんせん登場人物が往時の人間に見えない。たとえば戦前・戦中に作られた映画や書かれた小説などをもっと観たり読んだりして、当時の空気感や会話の生理などを研究するとよいと思う。狙いというよりはおそらく筆がすべったのであろうギャグ台詞も不発だし、不要だと感じた。何度でも改訂して真の傑作へと練り上げていってほしいと切に思う。
太田氏の『the Last Supper』は、かつてあった新潟での少女監禁事件を素材にしている。現実にはおぞましい事件であったが、だからこそ演劇的にその闇を解剖したくなる素材でもある。作品そのものは面白くは読んだのだが、不条理劇となるとわたしには力不足でじゅうぶんな批評はできない。恥ずかしながら、終幕などまったくわからなかった。展開するのは主に犯人(僕)の妄想の世界だと思うのだが――好みだけで書かせてもらえば――そこでは、現行の僕と少女の共闘関係からもっと主客が逆転した関係が見たかった。僕の妄想の中で、少女がもっと輝やかしく僕を圧倒するような存在であったならば、最後に衰弱して発見される現実との落差がより劇的に残酷なものとなったのではないか。それは作者の好みではないかも知れないが。
今年の最終候補作では、わたし個人では『もものみ。』がいちばん良かった。南出氏の受賞にむろん否やはないのだが、わたしの中では昨年との「合わせ一本」という意味合いが強い。氏の今後のいっそうの研鑽と飛躍を期待したい。