
第17回 劇作家協会新人戯曲賞公開審査会は、2011年12月11日(日)、座・高円寺に於いて開催された。
審査員は、川村毅、坂手洋二、佃典彦、土田英生、マキノノゾミ、横内謙介、渡辺えりの7名。
応募総数は、昨年度の170本から大幅に増えた220本。
一次・二次審査を経て選出された最終候補作6本について討議を行なった。



川村 毅

『ロクな死に方』について、佃氏は「おもしろく読んだ。死者に対する切ない気持ちがよく書かれている」。渡辺氏は、「今回は六作品全部が高水準。3・11以後を踏まえた作品が多く、どれも違うところがまたいい。乱暴に書かれたものがない」と前置きしてから、『ロクな死に方』については、「いい意味で女性的な作品」と評した。
『ねぼすけさん』について、マキノ氏は「おもしろかったが、夢オチ風に終わるのが気になる。昭和三十、四十年代の風俗などをもう少しリアルに描くと、仕掛けも納得できる」。坂手氏は、「ギャグが秀逸で、大変おもしろかった。ラストにもうひとひねり欲しかった」。
『元禄夜討心中』に、横内氏は、「作者の腕力を感じる。だが、俳優へのサーヴィスが多すぎる」。坂手氏は、「情報の後出しジャンケンが多すぎる」。マキノ氏は、「座長芝居のように登場人物が多くて、設定倒れになっている。リアリズムに問題あり。町人が侍を罵倒したら普通切り捨てられる」。
『娘帰る』について土田氏は、「抑制が効いていて、おもしろかった。日常を淡々と描く手法が目茶苦茶うまい。ただ、駆け落ちからの展開が欲しかった。前半と後半のバランスが悪い」。佃氏は、「舞台を見たとしたらけっこうドキドキして見ていると思う。知らない世界を覗き見しているみたい。暗い感じになっていないのは、生活観がきっちり描かれているからだ」。
『スメル』について横内氏は、「最初のプロローグ的なエピソードがすごくおもしろかったが、段々読むにつれがっかりした。母の手紙は安易な小道具。ゴミ屋敷自体が母さくらの心象風景であるということを押し出すべきで、そうできなかった部分で神話的な広がりをなくしている」。渡辺氏は、「ちはるを余命いくばくもないと設定したところが安易」。佃氏は、「さくらはもっと狂っているべきだ」。
『花と魚』を坂手氏は「非常におもしろかった。臨場感があり、フィクションがリアルになっていていい。震災の時間が考えられており、放射能と日本の現実がきちんと描かれている」。佃氏は「イヨネスコの『犀』を思った。怪獣映画の常套ストーリーをうまく利用している。まさしく今我々が目の前にしている怪物を描いている」と絶賛し、続いてマキノ氏、渡辺氏も「おもしろかった」と異口同音に述べた。
一人二作品を挙げる一回目の投票結果は、『ロクな死に方』に坂手、佃、土田の三票。『ねぼすけさん』に川村の一票。『元禄夜討心中』に佃、渡辺の二票。『娘帰る』に土田、マキノ、横内の三票。『スメル』無票。『花と魚』には川村、坂手、マキノ、横内、渡辺の五票が入った。
休憩後、川村が『ねぼすけさん』が自分一票なのが意外だったと語った。『元禄夜討心中』について渡辺氏は、「時代劇でこれだけ女性がしゃべり、活躍し、女どうしの愛が描かれているところが新しい」と語った。『ロクな死に方』について、マキノ氏は「自分はこの年齢のせいか、死が身近にあり、このような死の捉え方は正直響いてこない」と言った。『娘帰る』について、土田、佃氏が積極的に推す言辞を述べた。
おおむね議論が出尽くしたと見えるところで、『ロクな死に方』、『娘帰る』、『花と魚』、三作品のひとつに一票ということになった。
結果、土田氏が『ロクな死に方』に一票、マキノ氏が『娘帰る』に一票。その他の全員が『花と魚』を選んだ。こうして『花と魚』に決定した。
「今回はどれも水準が高く、数年前だったら、どれもが最優秀作に選ばれてもおかしくないものだった」と、坂手氏が締めた。
『花と魚』を坂手氏は「非常におもしろかった。臨場感があり、フィクションがリアルになっていていい。震災の時間が考えられており、放射能と日本の現実がきちんと描かれている」。佃氏は「イヨネスコの『犀』を思った。怪獣映画の常套ストーリーをうまく利用している。まさしく今我々が目の前にしている怪物を描いている」と絶賛し、続いてマキノ氏、渡辺氏も「おもしろかった」と異口同音に述べた。
一人二作品を挙げる一回目の投票結果は、『ロクな死に方』に坂手、佃、土田の三票。『ねぼすけさん』に川村の一票。『元禄夜討心中』に佃、渡辺の二票。『娘帰る』に土田、マキノ、横内の三票。『スメル』無票。『花と魚』には川村、坂手、マキノ、横内、渡辺の五票が入った。
休憩後、川村が『ねぼすけさん』が自分一票なのが意外だったと語った。『元禄夜討心中』について渡辺氏は、「時代劇でこれだけ女性がしゃべり、活躍し、女どうしの愛が描かれているところが新しい」と語った。『ロクな死に方』について、マキノ氏は「自分はこの年齢のせいか、死が身近にあり、このような死の捉え方は正直響いてこない」と言った。『娘帰る』について、土田、佃氏が積極的に推す言辞を述べた。
おおむね議論が出尽くしたと見えるところで、『ロクな死に方』、『娘帰る』、『花と魚』、三作品のひとつに一票ということになった。
結果、土田氏が『ロクな死に方』に一票、マキノ氏が『娘帰る』に一票。その他の全員が『花と魚』を選んだ。こうして『花と魚』に決定した。
「今回はどれも水準が高く、数年前だったら、どれもが最優秀作に選ばれてもおかしくないものだった」と、坂手氏が締めた。

川村毅
『ねぼすけさん』は読んでいるとき、何度となく笑った。大爆笑もした。このセンスは相当にいいと思い、推した。だから一回目の投票の際、推したのが私ひとりだったのには正直驚いた。確かに劇の後半から終息にかけての、笑いの行き場所、着地点の決め方の弱さは否めない。展開するスラプスティックが、宇宙の果てに突き抜けてしまうかのような狂気へと散逸するか、収まりのいいヒューマニズムに収束するか、笑いの着地をどうこしらえるかによって読み手は作家の世界観、笑い観を知り、最終的にそれがおもしろいか、つまらないかを判断する。『ねぼすけさん』はそのどちらでもなく、かといって新たな地平を提出しているわけでもない。私の願いとしては、徹底した非合理にして狂的な大団円を披露していただきたかった。とはいうものの、現実に幾度も声を上げて笑わせてもらったので、推した。
私が推そうとしていたのは、『ねぼすけさん』と『花と魚』だったので、『花と魚』が最優秀賞と決まったことに異存はない。が、大絶賛する審査員がいるのには驚いた。もっともめて『花と魚』に決定されると想像していた。
『ロクな死にかた』も確実に自身の文体を獲得している戯曲なのだが、ト書きに演出の結果を書きすぎている。戯曲は上演記録ではなく、戯曲のト書きは演出メモではない。記録とメモの過剰なト書きは読み手の想像力を封じてしまう。戯曲が文芸作品として提出されているからには台詞と、最小限にしてなおかつ台詞と絶妙のセッションを奏でるト書きで勝負すべきだ。このことは看過できない。
坂手洋二
『ロクな死にかた』は、今振り返ると、〈劇団〉にこだわって書くことに、題材と料理の仕方が繋がっているところに利点がある。ただし、もう少しインパクトが必要とい
うか、突き抜けた部分がほしくなる。
『ねぼすけさん』は、おもしろかった。ラストには、もうひとひねり欲しかった。
『元禄夜討心中』は、力作。ちょっとご都合主義が目につく。情報の後出しジャンケンも多すぎる。もっとシンプルに整理することによって、研ぎ澄ませてほしい。
『娘帰る』は、重く鈍い光を放つ。ステレオタイプの印象を持たれる部分を逆に利用し、読む者を裏切り、手玉に取るべきだろう。
『スメル』は、興味深い部分も多いが、設定から想像される以上のことをどこまで構築できるかだろう。
『花と魚』は頭一つ抜けて面白かった。臨場感もある。フィクションだが、虚構であることを使った「リアル」の手法が選ばれていて、センスと力量を感じさせる。震災以降の時間が考えられており、放射能汚染に怯える日本の現実がきちんと描かれている。イヨネスコの『犀』やゾンビ物的でもあり、そうした「終末」フィクション作品の系譜の中に置いたとしても、しっかり作者の個性を表せていることに感心した。
最終候補作は共通して「物語」を語ることから逃げていない。作風は違っても、「文字の劇場」としての戯曲の特性と真正面から向き合っていることは、評価されるべきだ。
どの作品も水準が高かった。全体に低調な年だったら、どれが最優秀作に選ばれていてもおかしくない。そういう意味では、受賞できなかった方は不運なのだが、候補者どうし、この豊穣の年にお互い肩を並べあったことに、胸を張ってほしい。
佃 典彦
これは他の審査員の方々とも一致した感想だと思うのですが今年の最終候補作はどれも面白くて読み応えがあり、六本全て色合いが違っていて読んでいて楽しかったです。
広田さんの『ロクな死にかた』は死んでしまった人間を取り巻く人々の現代の若者的発想に感動しました。確かに死んだ者の手紙や形見よりもメールやブログの方が妙に生々しく感じます。僕も生前受け取ったメールを消去出来ないままでいたり、アドレス登録したままだったり……そんな捨て切れなさが表現されていて好きな作品です。
柳井さんの『花と魚』は怪獣映画大好きの僕の琴線に触れる作品です。全ての登場人物の目的と欲求がハッキリと描かれ、<神楽><足跡><怪物登場><確執><神話>という怪獣映画の定石を踏まえて尚且つ自分のモノにしています。この「定石を踏んで自分のモノ」ってのは結構至難の業なのです。
土田英生
候補作は水準が高く、また、六作がそれぞれの光を放っていることにも驚いた。佐々木さんの作品は笑いで全編を埋めながらもどこかはかなく、三谷さんの時代物を書く執念には尊敬の念を覚えた。大賞を受賞された柳井さんは間違いなく手練であり、『花と魚』の完成度は際立っていたと。おめでとうございます。
ただ、私は別の二作で迷った。咲さんの『娘帰る』に出てくる人物たちの圧倒的な実在感。被差別地域に住むある家族を、作者の主観を全く押し付けることなく描いている。そこにうごめく強烈な人々は私にとって官能的だった。後半にもう一つドラマがうねればスケールの大きな作品になったと思う。
広田さんの『ロクな死にかた』に描かれた身体性にも興味を惹かれた。まさに現代を描いていると思った。ネットの持つ即時性と、記号化する身体。人の死というものが、肉体的なものでなく、記号として扱われていることが面白かった。
マキノノゾミ
最初に「今年は最終候補作の水準がひじょうに高かった」というのが審査員間の一致した見解であった。わたしもまったく同意見である。
広田氏の『ロクな死にかた』は、死をリアルなものとして実感しにくい現代の若者たちが、自分の恋人や友人の死をいかにして受け入れてゆくかという主題で書かれた戯曲だが、多層的な仕掛けをほどこして、なかなか面白く読ませる。音響のキューまで細かく書き込まれたト書きはわずらわしく不要であるとの評もあったが、作品によってはこのような完全上演台本形式の戯曲もあっていいと思う。少なくとも本作においては、わたしはそれによって様々な想像力を刺激された。ただ、作者より二十年ほど年長でもあり個体としての死も確実に近くにある身からすれば、最後の着地点にべつだん珍しい発見はなく、少々物足りなさが残った。
佐々木氏の『ねぼすけさん』は、アイデア自体は悪くないと思った。審査会の楽屋でも話が出たが、今この時代にいまだ『サザエさん』が現代のドラマとして放映され続け、国民全員がその「現代の」の部分に暗黙の了解で目をつぶって高視聴率番組であり続けているという、その存在の不気味さにあらためて思い至らせてくれた、その着眼点は素晴らしい。ただ、ギャグで飛ばしておいて最後にいわゆる「夢オチ」としてシリアスなSF展開に持ち込む書き方からは、どうしても八〇年代の小劇場演劇を連想してしまい、その既視感(と気恥ずかしさ)から少々損をした部分がある。個人的な好みでいえば、「サザエさん」一家を模した「きな子さん」一家の風景を、高度成長期のドラマとしてもっと写実的に描写しておいてから最後の展開に持ち込んでくれたほうが、より衝撃的であり、面白く感じられたと思う。
三谷氏の『元禄夜討心中』は、登場人物全員の背景に劇的な要素を詰め込み過ぎた。結果、説明台詞が多くなって全体としては冗長に終わってしまった憾みがある。男装の美少女が二人も出てきて、なおかつその二人が出自も身分もまったく異なり、同性者でありながら恋愛感情を持つに至るというような展開は、その二人をきちんと主人公にしてもう一本別の芝居を書いたほうがよいくらいの劇的な要素である。あきらかに登場人物の初期設定が過剰だと思う。説明が必要となる要素が多すぎるのだ。いたずらに新奇さを求めぬオーソドックスな手法には好感を抱くし、いわゆる大劇場でかかりそうな、虚実とりまぜたオールスターキャストの本格娯楽時代劇を志向する新人劇作家の存在はたいへんに貴重であるからこそ、いっそうの練り直しと奮起を期待したい。
咲氏の『娘帰る』は、大阪の被差別地区にあると思われる皮革業者一家の後妻が不倫相手の男と出奔する前後の顛末を描いたものだが、重く陰惨にもなりがちな素材でありながら、作品世界が必要以上に暗くならないところがいい。起承転結といえるほどの筋立てもあえて持たず、まさに人間の営みそのものだけを切り取ってゴロンとそこに置いてみせただけのような印象で、その意味では、「死の実感」を求めて形而上的に身悶えし、多くの仕掛けや趣向を凝らした広田氏の作品とは好対照ともいえる。あえて直截に描かずとも、生々しい「死」がぽっかりと口を開けて確かにそこに同居している。咲氏は昨年の最終候補にも残った実力のある劇作家だが、人が生きてゆくということの「やるせなさ」や「どうしようもなさ」を、決して過剰にはならない筆致で冷静に書ききっている点、敬服に値すると感じた。台詞の巧さはいちばんだと思う。
登米氏の『スメル』は、ゴミ屋敷を舞台にした若者たち(と一人の老女)の群像劇だが、初見で読んだ時よりも二度目に読んだ時のほうがずっと印象が良くなった。噛むほどに味の出る戯曲だと思う。審査会では批判もあったが、二十年間義絶していた母親と娘の、双方強がりつつ和解して別れてゆく場面などもわたしは好きである。娘の読む手紙の内容を具体的には観客に聞かせない辺りの手法もなかなか上等なものだ。ただ、誰かも指摘していた通り、母親の個性をもっと強烈なものとしたほうが断然面白くなるのは間違いない。若者たち全員が今ふうの軽さをまとっているだけに、よけいにそう思う。不運にも票の集まらなかった候補作だが、秀逸な舞台設定を含め、惜しいものをたくさん持っている作品だった。
受賞作となった柳井氏の『花と魚』は、まさに圧巻というべき作品だった。宮崎県の架空の漁村を舞台に、その土地に住む人々の対立葛藤や欲望などを必要十分に描写しつつも、海からの謎の生物の出現と村の日常への侵蝕というサスペンスでぐんぐんと引っ張り、最後には人類の歴史が終わるその当日という壮大なカタストロフへと展開する。そのミクロからマクロへの視点の突き抜け方、劇作のダイナミズムが見事である。初見で読んだ時には思わず「えッ!」と声をあげたほどだ。その意味では結構の似ている佐々木氏の作品で感じた不満がこの作品にはまったくなかった。台詞もじゅうぶんに巧い。最終投票では咲氏の『娘帰る』を推したが(むろんその気持ちに偽りはないが)、内心で『花と魚』の受賞を確信した上でのものであって、もとより柳井氏の受賞には大賛成である。
横内謙介
『花と魚』の柳井祥緒さんの力量に驚愕した。読みながら、若い頃親しんだ、安部公房の作品を思い出した。今日的で、日本的で、しかしどこか深いところで、遠い異国や神話の世界と通じている、そんな広がりを持つ傑作だと思う。得体の知れない幻獣が、読み進むうちに、こちら側にひたひたと接近してきて、やがてリアルな日常を食い破って出現する。それが単純な破滅ではなく、むしろ、ひとつの希望であるかの如く胸に残る。そこが突き抜けている。もし他の審査員が誰も推さず、私一人であっても、意地になって応援しようと決めて審査会に臨んだが、多くの支持も得ていて安堵した。
『スメル』のユニークな発想と仕掛けは大いに期待を持ったが、中盤以降ドラマが膨らまなかったのが残念だった。
『娘帰る』の丁寧な時間と関係の紡ぎ方には好感を持つが、ドラマとしてこの結末のもっと先まで描ききらなきゃ作品は完成しないだろうと感じた。
『元禄夜討心中』の作者には、この道を極めて欲しいと思う。こういう当たり前の芝居では青臭さが魅力となりにくいので、コンテストでは不利だが、この作者が腕を磨けばものになると思う。まずは引き算を覚え、詰め込みすぎを間引き、展開に変化を付ける技が必要だろう。
『ねぼすけさん』は面白い。たぶん舞台で見たら退屈しないだろう。ただ私には構造がつかみ難く、ドラマとしてハマり込めなかった。もう少し説明をしてもいいのではないか。
『ロクな死にかた』の、本人が死んだのに日記が続くという状況は興味をかき立てる良い導入だと思った。ただ、そこからあぶり出される人間関係が、希薄に感じられた。素材から掘り起こされる何かを描き出すのではなく、何かを足してカタチにした感が残るのがもったいない。
渡辺えり
今回、どの作品もが例年に比べてもレベルが高く面白く読めた。しかもすべてタッチの違う個性的な作品であった。
3月11日の大震災と原発事故以後、やはり価値観が変化し、東北出身者である私自身の戯曲の読み方感じ方が前とは変化している。『花と魚』はまさに震災以後に書かれた作品であろう。時代を近未来に据えたのも大いなる皮肉と言える。恐ろしい人の思いこみと差別意識とを寓話的に描いていて面白い。そして大上段にその論理を押し付けるのではなく、そのグロテスクを甘美で詩的な台詞を交え、エロティックなファンタジーまで昇華させたのは見事であった。
『ねぼすけさん』もシュールで残酷な話しだが、ジム・キャリー主演の『トゥルーマン・ショー』のような、虚構の現実を生かされている登場人物たちによる、誰かのための演劇という設定、そしてそれがミヒャエル・エンデの『自由の牢獄』のような誰かの脳内に回帰するストーリーというところまでは良くある話だが、それが演じられた人形たちのストーリーですべてが砂と化していくという内容が面白かった。四重、五重の入れ子式が見事である。
三谷るみさんの作品も力強かった。新しいと思ったのは、侘助と寿々が女性同士でありながら、好き同志なら性別など関係なく好きという感情を大事にして結ばれて良いではないか、と思うところである。今では一般的に男装していた女性が女性と分かるとそれを好きだった女性は別な男性と結ばれ、女性にもどった人物にはその人を好きになる男性が現れて、男女が対になるのがお決まりであるが、そんなことにはせず、好きなモノは好きと感情をそのままにしたのが見事である。そして、女性を職人にしてくれたということも新しい。江戸時代などの時代物として女性を描くのは難しい作業だと思う。女性はこうであらねばならぬという縛りが現代よりも強く、自分を語る台詞も限られてくるからである。それを三谷さんは工夫を凝らして、女性が多く喋り、活躍できるようにした。そこを高く評価したい。
咲恵水さんの『娘帰る』は面白い作品なのだが、女性に対する縛りに自ら捕らわれているようなところがいつも気になるところである。今は、男子に気兼ねなく、もっと女性を生き生きと自由に書いて良いのではなかろうか?と思うのだ。
登米裕一さんの『スメル』も非常に面白かった。ただ、母親の癌の話などはもっと丁寧に描かないとご都合主義に過ぎるだろう。
今回私の出身地・山形にちなんだ台詞がなぜか多く見られるが、詳しく中身を調べずに表層的なニュアンスだけで登場させられたのだとしたら寂しい話しである。私も他県の名前を出す時は注意しようと反省させられた。
広田淳一さんの『ロクな死にかた』にも山形の酒、出羽桜が登場する。うまい酒だが、主人公はこの酒を飲んでいて死んでしまった。毬井がなんの仕事をしているのか?などは語られず、「生き死に」の概要だけが語られる、実感や実態のない、ニートな感覚。そしてインターネットに繋がれて縛られた現代人たちの意識。自己も他者も体や情感では繋がってはいず、もろいパソコンの器具の中だけで繋がっている。私などは嫌な世界だが、それが今という時代なのではあろう。孤独である。大いに孤独である。しかし、その孤独は描き方は違ってきても、昔から未来へと連なっていくテーマであろう。