追悼 別役実氏

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日本劇作家協会顧問の別役実氏が、2020年3月3日に逝去されました。

 別役 実 (べつやく みのる)
満州国新京特別市(中国長春市)生まれ。
1968年に『マッチ売りの少女』と『赤い鳥の居る風景』で岸田國士戯曲賞、1988年に芸術選奨文部大臣賞、1997年に毎日芸術賞特別賞、2007年に紀伊國屋演劇賞、2008年に『やってきたゴドー』で鶴屋南北戯曲賞、朝日賞、2013年より芸術院会員。
144本目となる2018年『ああ、それなのに、それなのに』が最後の作品となった。享年82歳。
1993年の日本劇作家協会創設に尽力し、1998年から2002年まで第2代会長。

  1963〜2015作品リスト(PDF/2015年10月発行 会報「ト書き」55号掲載)
<2016年以降の新作上演・出版>
・2016年『月・こうこう , 風・そうそう』7月に新国立劇場で上演。
・2016年『オズのオジさんやーい』8月に兵庫県立ピッコロ劇団により上演。
・2017年「別役実の混沌・コント」(三一書房) 未公開コント所収。
・2018年『ああ、それなのに、それなのに』10月に名取事務所により上演、悲劇喜劇2018年11月号掲載。


《対談》別役 実×ケラリーノ・サンドロヴィッチ

2015年5月8日収録。
同年8月開催の、「劇作家協会公開講座2015年夏 “ 別役を待ちながら” 」で公開した対談映像、および会報「ト書き」55号に掲載の採録です。

Youtubeで見る (約30分)
 
出演:別役 実 ケラリーノ・サンドロヴィッチ
聞き手:丸尾 聡
撮影・編集:古川貴義
記録・文芸:中田満之
構成・演出:鈴木 聡
Special Thanks:坂手洋二/べつやくれい


 会報「ト書き」55号
 
2015年10月発行


 
 ⇒ 対談を読む

 ⇒ 会報について









追悼文
各新聞社のご好意により、当協会運営委員による追悼文を紹介いたします。

  3/12 信濃毎日新聞(丸尾聡)   3/15 朝日新聞(坂手洋二)   3/10 発表コメント(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)


2020年3月12日 信濃毎日新聞掲載
踏破されぬ「巨大な山脈」 別役実さんを悼む
丸尾 聡 (劇作家、長野市出身)

 40年ほど前、高校の図書館にある現代戯曲は、別役実戯曲集ばかりだった記憶がある。山形出身でわたしよりも上の世代の渡辺えりさんも同じことを仰っていたから、別役さんが中学高校時代を過ごされた長野市だからというわけではなく、日本全国である時代そんな感じだったのだと思う。
 「日本の不条理劇を切り開いた」「独特の作風」「エッセイ、童話も多く手掛けた」、、、。別役さんの死去を知らせるネットの情報はどれも正しい。しかし、どう書けばいいのだろう。そう、もっと大きな、言ってみれば掴んだと思ったら、吹き抜けていく風のような、そんな人で、そんな作品を書き続けた。

 「蓄積する時間じゃなくてね、消費しちゃうんだよね、全部。悲惨な体験も、言葉にして外へ投げ出されることによって消費されちゃう。沈黙して自分の内側に溜め込むという蓄積ができなくなってきている。それは大きな問題だろうという感じがするんですよね」

 5年ほど前、別役さんの話を聞いておかなきゃいけない、そんな思いで劇作家協会の会報誌「ト書き」で特集を組んだ。ご自宅で療養中の別役さんは、一階のダイニングにベッドを運び込まれて生活していた。しかし、口から出る言葉は驚くほど論理的で知的で、ゆっくりとではあったが淀みがなかった。先の言葉は、東日本大震災の後、僕がこのことを書くとしたら10年先だろう、という別役さんの言を受け、震災被害の当事者がマイクを向けられ語らなければならないことについて伺った問いへの返答。
 蓄積された時間。思い。言葉。それを別役さんはごく静かに多くの作品として残された。そして、多くの劇作家、いやほとんど全ての劇作家に多大な影響を今現在も与え続けている。
唐十郎、つかこうへい、平田オリザ、宮沢章夫、岩松了、渡辺えり、ケラリーノ•サンドロヴィッチ•••また、この劇作家たちの作品を見て演劇を志した人たちも、皆。もちろん、わたしも。
 ある作家は「ナンセンスな笑い」に着目し、別な作家は「破綻のない美しい数式」とその戯曲を評した。「止まってる時間や時間を進めないもの」に興味を持つことが自分と似ているという人あり、「何のバックボーン持たない極めてフラットな人物を造形し、その場のやりとりだけで演劇を作った」ことがすごい、あるいは「戦争がいかに人間を蝕み、個人の発想や個性を脅かすか」が描かれている、「戦後、豊かさにシフトしていく中で、何かがぼろぼろぼろぼろ抜け落ちていく、そういう感覚」を書いている、そう言った人もいた。
別役実は、巨大な山脈だ。しかも、未だ踏破されていない頂に溢れ、登攀ルートも未知なもの数限りない。
別役さんは亡くなった。だが幸いなことに140本を超える戯曲と、様々な文章、言葉を残してくれた。そして、それは演劇と関わりのある人、関心のある人だけにではなく、誰もに人間の「真実」を差し出し、考えさせてくれるものだと心から思う。
 「どこかに書いたんだよ。男は定年退職したら出家すべきだって。出家したら人間でなくなるのよ。自由にしていい。人間である間はいろいろ難しいね。」
 本当に自由な風になったんですね、別役さん。今までありがとうございました。



2020年3月15日 朝日新聞掲載
戯れ続けた、論理の綻びや言葉と 別役実さんを悼む
坂手洋二 (劇作家、演出家)
 ⇒ 朝日新聞デジタル

 私の世代の劇作家の多くは、別役作品の影響下で戯曲を書くようになったと思う。
 別役戯曲は「不条理劇」とまとめられることが多いが、一番影響を受けたのはアーサー・ミラーの『セールスマンの死』だと、ご自身から聞いた。社会批評性と、主観によって時空が構成されていく手法、登場人物の情熱に寄り添うという点では、確かに頷ける。もっとも、ポーカーフェイスで多様な価値観を渡り歩く別役さんのことなので、私以外の人には、違う作品に影響を受けたと言っているかもしれない。
 労働組合の仕事をしていたこともあるのだろう、制度に抗いきれない人間の見つめ方に、独自の着眼点を持っていた。大陸からの引き揚げ者であることは、天皇制など共同体の求心力に対する違和感に結びついている。それがどのような作品にも顕れていた。ジャンルだけでなく、時代と思想をクロスオーバーさせるところが、魅力だった。
 仮に「不条理」だとしても、抽象には向かわない。「小市民」を描く家庭劇の連作に続く1980年前後の2、3年に顕著だが、『赤色エレジー』『木に花咲く』など、ときに別役さん自身の過去を辿り、あるいは激しい情念の持ち主に傾倒し、切ったら血が出るような、生々しい作品もあった。
 誰かの「確信」が、別な者からすると「勘違い」でしかないという理不尽は、決して「不条理」に収斂しきれるものではない。コントに向かうときもそうだが、言葉そのものにこだわり、論理の綻びへの関心が強かった。犯罪事件からさえも、当事者の気づいていない行動のロジックを読み取った。別役さんからは「言葉や構造と遊ぶ」ことを学んだ気がする。
 言葉の強度に対する信頼ゆえと思うが、ブランク、空白を多用したところもあった。いわゆる「……」という間の取り方のことではなく、指示代名詞の多用などによる会話の停滞、自然とうまれる空白を、せりふのやり取りの中に意図的に刻みこんだ。このように「間」を意識的に書いた作家は、他にいないのではないかと思う。
 私が演出した別役作品は『マッチ売りの少女』『象』だが、上演に向かうたび、謎が残った。疑問の箇所を別役さんに聞いても説明はなく、「これは、まあ、そういうものなんだよ」と言う。不条理ではない。現実では、すべてのことが納得できたり、整理されているわけではないということの、反映であろう。同時に別役さんには、直観的かつ断定的なところがあり、著書『舞台を遊ぶ』にあるように、「登場人物は必ず上手から登場して、下手に去る」と決めつけてしまうような性癖があって、なんだか今でも謎をかけられ続けているような気がするのだ。
 杉並区には在住演劇人が多い。家が近所なので、こちらが一方的に存じ上げているだけの頃から、喫茶店で、踏切で、立ち読みする書店内の隣で、あの長身の別役さんにばったり遭遇してしまうことがあった。
 同じくご近所だった斎藤憐さんが〈劇作家協会〉を作りたいという意思を持っていると聞き、平田オリザ、川村毅両氏と憐さんの家に話しに行った。別役さんと小松幹生さんが、そこにいた。その流れでそのまま、井上ひさしさんも加わっていただくことを相談し、一九九三年に日本劇作家協会を立ち上げることになった。
 最後にお会いしたのは二〇一七年、細長い造形が特徴的なスイスの彫刻家、ジャコメッティの展覧会だった。私と別役さんが某誌の〈ベケット特集〉で対談したとき、「ベケットの登場人物は、ジャコメッティ作品のイメージだ」と言われていたことから、ご一緒したのだ。
 そのとき思ったのは、別役さんの佇まいこそが、「君にそう見えるなら、きっと私はそのような存在なのだ」という、ジャコメッティ作品のあり方そのものだった、ということなのである。




2020年3月10日
別役さんは日本の「キング・オブ・ナンセンス」
ケラリーノ・サンドロヴィッチ (劇作家、演出家)

  私にとって特別中の特別。そんな劇作家が居なくなってしまった。
 別役さんから受けた影響は計り知れない。不条理劇を日本に定着させた功績はもちろんだが、高校時代に氏の戯曲に出逢ってからずっと、私にとっての別役さんは「ある種の笑い」の最高峰に位置した。不条理劇の巨匠がその世界の枠組の中で笑いをやるとこうなるのか、と衝撃を受けたのだ。「なにが可笑しいのかわからないのに可笑しい」
 そんな「ある種の笑い」を、後に、私も別役さん御自身も「ナンセンス」と呼び、連綿と書き連ねられた作品群を躊躇なく「ナンセンス喜劇」と称されていた。
 別役さんと(ある時期の)赤塚不二夫さんは間違いなく日本の「キング・オブ・ナンセンス」だ。
 誰にもマネできない(私はマネしてますが)独自のナンセンスな笑いを作り続けてこられた才能と功績は、もっともっと評価されて然るべきだと思う。
 これまで細かいものを入れると7作の別役戯曲を演出させて頂いたが、『病気』という舞台の初日は忘れられない。私の二列前の客席に、迷惑なくらいよく笑う男性客がいて、終演後に顔を見てやろうと思ったら作者本人だったのだ。とても嬉しかったし、まだ神妙に上演されることが多かった別役さんの戯曲を、こんな風に馬鹿馬鹿しい喜劇にして上演してもよいのだ、と行動で示してくださった。
 作風同様、ドライで飄々とした方だった。ご病気を患われた後、3度ほどお宅にお邪魔したが、病気も死も、非常に客観的にとらまえてらした。今も「俺のことはいいから、稽古中だろ、そっちやりなさいよ」と言われているような気がしてならない。別役さん、またお会いしましょう。

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