第27回鶴屋南北戯曲賞

受賞作決定!

 

リーディングフェスタ2023

沈黙を読む〜太田省吾『小町風伝』リーディング
トークセッション「教えて、太田省吾さん」

映像配信中!

 

長編戯曲の改稿講座

リーディング発表の映像公開中!

 

劇作家協会公開講座2023年夏

8/19(土) シンポジウム「SNS・配信時代における戯曲と演劇」
19日シンポジウム配信中!

8/20(日)「演劇の現場でのハラスメントを考えるフォーラムシアター」
⇒終了しました

 

戯曲セミナー
「2.5次元脚本コース」を開設!

受付は終了しました
受講案内
開講:2023年12月8日(金)
申込締切:12月4日(月)

 

改稿サポートする輪。
(月いちリーディング)

趣旨・概要

2023年度の改稿サポートする輪。/月いちリーディングは終了しました。
2024年度の実施については改めてご案内申し上げます。

◎ 東京+オンライン

リーディングWG

◎ 東北支部
東北支部FB

関西支部
関西支部FB


◎ 九州支部
九州支部FB

◎ アーカイブ
1年分の動画(YouTube)

 

新!劇作家協会のナカミ

インタビュー公開中!
劇作家協会の活動と人を紹介するインタビュー企画

 

若手劇作家応援プラン!

2024年度も受付中!
プロを目指す若手劇作家を対象に、一定期間の年会費を免除する制度です
ぜひご入会をご検討ください

 

戯曲デジタルアーカイブ

劇作家権利処理DX化プロジェクト 報告書公開!

500本以上収録の戯曲の電子図書館(別サイト)

 

会報『ト書き』

67号〜69号を全ページ閲覧/ダウンロードできます

 


第22回劇作家協会新人戯曲賞選考経過



受賞作 南出謙吾『触れただけ』


左から:南出謙吾、鴻上尚史(劇作家協会会長)





審査会の模様
左から:瀬戸山美咲(司会)、土田英生、川村毅、鴻上尚史、マキノノゾミ、坂手洋二、鈴江俊郎、佃 典彦



授賞式
最終候補作
 『もものみ。』   守田慎之介 (福岡県)
 『プラヌラ』    高石紗和子 (東京都)
 『触れただけ』   南出謙吾 (東京都⇒大阪府)
 『カミと蒟蒻』   長谷川源太 (京都府)
 『the Last Supper』 太田衣緒 (東京都)

 
最終選考委員
  川村 毅、鴻上尚史、坂手洋二、鈴江俊郎、佃 典彦、土田英生、マキノノゾミ
  (司会:瀬戸山美咲)

*第22回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら

選考経過   瀬戸山美咲

 今回は接戦であった。

 『もものみ。』について、マキノ氏「ただひたすら営みが描かれている。その営みが普遍に到達している」。佃氏「喪失感が明るいトーンで描かれていてうまい」。坂手氏「不穏だ。この農家には子供がいない。これからの日本が農村を通して描かれている」。川村氏「ミニマリズムと口語体ではっきりとしたドラマを回避している。ムードが出ている」。
  『プラヌラ』について、鴻上氏「プラヌラというイメージを見つけたことが素敵」。マキノ氏「同世代しか出て来ず、先行世代への言及がない」。土田氏「登場人物全員の地続き感がすごい。どこかに正しさを置いていないのがすごい」。
 『触れただけ』について、鴻上氏「短編の水準は高い。三話がもう少し有機的に展開されていれば」。坂手氏「つなげることに執着していないのがよい。今の時代の空気感を描けている」。鈴江氏「風景が主役。それを強く舞台上に突きつけられれば」。
 『カミと蒟蒻』について、土田氏「嘘の作り方がうまくいっていない」。鴻上氏「風船爆弾は魅力的な素材。うまくやらないと素材に負けてしまう」。鈴江氏「出だしは単調にならない工夫をしているが、途中から説明的になってしまった」。
 『the Last Supper』について、川村氏「別役実をよく勉強している。ただ、誘拐事件自体が不条理。異常な設定に不条理のセリフをかぶせても生きない」。佃氏「一階の日常の時間の上に二階の得体の知れない時間が載っている構造がうまい」。 

 二作品ずつ選んだ一回目の投票結果は以下のとおり。
 『もものみ。』   土田、マキノ、坂手
 『プラヌラ』      土田、鴻上、鈴江、佃
 『触れただけ』   川村、マキノ、坂手、鈴江
 『the last supper』  川村、鴻上、佃

 この時点で『カミと蒟蒻』は選考対象から外れることに。休憩後、一作品ずつ選ぶということで、再度投票をおこなった。その結果、以下のようになった。
 『もものみ。』   マキノ
 『プラヌラ』    土田、鴻上
 『触れただけ』   坂手、鈴江
 『the last supper』  川村、佃

 票が割れたため、それぞれ自分の推す作品について応援演説をおこなう。
 『もものみ。』については、マキノ氏が「空間とそこにいる人が生んだ作品。豊かな時間で値打ちがある」と熱く語る。
 『プラヌラ』については、佃氏が「若い人にしか書けない作品。切実さが感じられる」と評価。坂手氏からは「プラヌラというものの説明に作品が勝っていない」という意見が出た。
 『触れただけ』については、鈴江氏が「無常観がある。経済が進化していく中で疎外される人々の悲惨が描かれている」と分析。
  『the Last Supper』については、川村氏から「わけわからなさに可能性がある。うまくおさまったお手本的作品でないのがいい」という意見が出た。

 応援演説を受けて佃氏が自分の票を『プラヌラ』に移動させたことから二票以上を獲得した二作品で決選投票となった。その結果、
 『プラヌラ』  土田、鴻上、佃
 『触れただけ』 川村、マキノ、坂手、鈴江
となり、『触れただけ』に決定した。
 



選評


川村 毅 ── 選評らしきもの

 今回の最終候補作品はそこそこの仕上がりと読めた。そこそこのなかにも強度の段階はある。強いそこそこに比べて弱いそこそこ、普通のそこそこといった具合に。とはいうものの強いそこそこもそこそこの向こう側を越えることはない。
 そこそことは、とりたてて大きな欠点弱点はないものの、作者の絶対に揺るがない意志に基づいた突破点もない、とでも言えばいいだろうか。突破点とは読む者の好み云々などを抑え込む強度を持つ核のことで、しかし核の原型はありつつもそれを描くのに失敗した時は目も当てられないので、それがたとえ偉大なる失敗作だとしても、最終候補には上がってこられないのだろう。
 そこそこの作品とは、こうした失敗を回避しているので安心して読める。つまりそこそこ読めるそこそこのものだ。失敗の予感は微塵もないのだ。
 そこそこの作品の上演は、見に来た身内の者たちの温かい賛辞に包まれるだろう。そしてさらに彼らは作者に応援の言葉を贈るだろう。
 協会とは身内の集まりだから、私もまたここで温かいエールを贈るのが筋とも言えようが、審査しろということは劇作家として真剣勝負で立ち会うことだと解釈しているからはっきり言う。
 こうしたそこそこレベルの作品は少なくはない。月いちリーディングで取り上げられる多くのものもそうだ。それでも救われるのは月いちリーディングの作家たちはそれがそこそこだと自覚していることだ。
 その作家でしか書けない物語、台詞、情景、構成。これらの全部をクリアにしろというわけではない、このうちのどれかひとつが突破点となって躍動する作品がそこそこを越える。多少の失敗はあってもいい。殊に新人を名乗る者の作品にはそれがあったほうが良心的だ。
 『the Last Supper』を最初に推したわけは、わからなさが少しばかりそこそこからはみ出ているからなのだが、そのわからなさの確信の根拠がわからないので、わからない作品として成功していない。
 『触れただけ』の受賞に異論はまったくない。五作品中一番面白くすらすら読めた。ここでいうすらすらは決して皮肉ではない。単純に面白いからすらすら読めたのだ。しかしこのすらすら感がそこそこと結託してしまったのかも知れない。しかしここには謎がある。この謎からは今後この作者がそこそこから大いに飛躍する萌芽が読み取れる。



鴻上尚史 ── 力作揃いでした。

 『もものみ』は、じつにゆったりとした時間が流れる素敵な作品でした。キャラクターも書きわけられていて、そこに流れる時間が確実に描写されていました。ただ、いかんせん、全体として長く、大きな欠点がない反面、もうひとつ食い足りない感覚がありました。
 なにかドラマを。それは、殺人とか三角関係という明白なものではなく、この時間の中で現れる、もうひとつのドラマがあればよかったと思います。
 『プラヌラ』を僕は一押ししました。じつに詩的なセリフで、引きこもってしまったまひろの内面がひりひりと描かれて、とても才能を感じました。
 ただ、構造的にはひとつ弱い。最後、まひろに希望の光をともそうとする「けい」をちゃんと描写しておかないと、ご都合主義と言われてしまいます。
 エッセー的な作品ですが、言語センスは抜群ですから、これからは、構造的に人物を造形し、物語を語るというテクニックをつければいいと思いました。なんにせよ、24歳でここまで書けるのは衝撃でした。
 『触れただけ』は、じつに筆力の確かな作品でした。今回、最優秀作品になりましたが、なんの異論もありません。ただ、筆力があるからこそ、短編三作が有機的につながればより面白く傑作になったと、つい欲を出して感想を言いたくなります。
 勇気を持って大胆に書き続けて、プロへの道を堂々と大胆に進んでいってもらいたいと思います。
 『カミと蒟蒻』は、志の高い作品でした。ただ、「風船爆弾」という面白い素材に頼ってしまった感があります。人物が少し類型的なのが残念です。歴史的な事件を、どう、4人で描くかは、じつにやっかいなものですが、でも、やりがいのある試みです。ブラッシュアップを続けていって欲しいと思います。
 『the Last Supper』は、大胆な野心作です。僕はこの作品も押しました。ただ、実際の事件の印象が強く、それを越えて描くのは、なかなか大変なことです。最後の少女の言葉に物足りなさを感じました。ただ抜群の筆力を持つ作者です。最後のシーン、二人がスケッチするという部分が、もうひとつクリアな設定になっていれば傑作になっていたと思います。
 総じて、5作は水準が拮抗し、例年にない僅差の投票になりました。間違いなく水準は上がっていると思います。劇作家志望者の闘いを応援します。



坂手洋二  ── 現実の心許なさの反映

 『もものみ。』は、長い。この作品を最初に読み始めて、これから五本読むのはたまらんなあ、と感じ、何度も「まだ続くのか」と思った。しかし途中から「確信犯かもしれない」と感じた。似通いすぎた個々人のあり方、喋り過ぎる台詞の繰り返しも、農家の日常はそういうものでもあるし、あえて不条理として提示しようとしているのかもしれなかった。農村なのに子供がいない不穏さ、これからの日本の潜在的不安も描かれている。桃の使い方も悪くない。この手法でなければ描けない「リアル」がある。作者が実際に農家だった祖父の家で上演するという形態から、必然性を持って書かれていることも強みなのだろう。刺激的な作品に思われてきた。後で作者から「実際の上演時間は九十分だった」と聞き、たぶん私の勘は当たっているはずだと、あらためて思った。
 『プラヌラ』は、自己言及、自己憐憫、自問自答に終始し、多用されるモノローグが安易に感じられてしまう。提示されたことが展開しないまま終わっている感じも多い。そこに「現在」の感触を認められるかどうかによって評価が分かれるところだが、どうしてもプラヌラについて説明する長い台詞の魅力に作品じたいが勝っていない感じがして、もったいない。
 『触れただけ』は、三つの世界が描かれ、それがどこかで繋がっている。だけどそれがどうした、という感じがしてしまう。全体に、数行進んだところで停滞する、一種の「ノッキング」の感触があって、そこに作者が自らの置かれた状況と重ねて示そうとする、生理のようなものは伝わってくる。それを作品的な高みに昇華させてゆくには、もう一工夫が必要だともいえるが、作者が巧みさを持っていることは確かだ。あえて「ノッキング」させている。「繋がっているようで繋がっていない」。だからタイトルが「触れただけ」になるということだろう。
 『カミと蒟蒻』は、きちんと調べなければ書けない内容に挑んでいる真摯さに好感が持てる。登場人物が自ら風船爆弾作りを買って出る情熱もいい。ただ、時代に即していない描写、ありきたりだったり、ただお喋りに感じられたりしてしまうところがあり、もう少し丁寧に時代の空気を捉えられるのではないかと思う。また、劇中に夢の要素が出てくるときには、それが誰の意識の中なのか、「夢の所有格」のようなものに関心がほしい。明確であるべきなのか、意図的に語り部を変える工夫が可能なのか。ミステリー的に使うこともできる。工夫を惜しまなければもっとできることがあるはずだ。
 『the Last Supper』は、新潟の少女監禁事件から触発されている。事件自体はたいへん辛い内容だが、ストックホルム症候群のことも想起しうる普遍性はある。口の中に骨が刺さったり、床にテープが貼ってあったり、演劇的に興味深く感じられる趣向も、いい。ただ、登場人物の魅力や個性はもっと磨ける気がする。意匠を凝らすだけでなく、プロットをシンプルにすることで、よりダイナミックなものにできると思う。
 今年の作品群は、多様な世界が「リンク」していることを示すものが多かったように思う。情報過多の社会の中に、人間存在そのものがただぶらさがっているしかないような、現実の心許なさが反映している。しかし、「繋がってしまっている」ことの意外さのみでは、それはさざ波のようなもので、「プロット」になっているとは言えないケースが多い。
戯曲とは何か、演劇でなければ示すことのできないものは何か、私も一緒に考えていきたい。



鈴江俊郎

 受賞作に感心した。
 マンションが互いに価値を削りあうようにせこく建っていく街の一角。自爆でマンションを買う営業マンの悲惨。卵買いに出たっきりで離婚してしまう男の動機の浅さ、けれど気分の重さ。都会の風景としてはとても日常的なものなのに、ひとつひとつが身に食い込むように深くこわい。孤独。経済の進化が究極まで来たあげくにやってきた労働の疎外。分断された人間たちの悲劇をここまで見つめてしまう作者の覚悟がすごい。日常をきちんとスケッチする原則的な努力、と見せながら、実は、日常の風景の中にこれほどの絶望を見出してしまうこの仕事は、感覚の鋭敏さがなせる特別なものかもしれない。
 最大の魅力は、セリフのユーモアだ。笑わせるだけに、悲しみはよけいに悲しい。いや悲しみが底にある分、笑いは痛切におかしい。微妙な情けない行動、そしてそのもとになってる絶望。しかし深刻さを隠した表層の軽さ。その二重性が楽しい。「時々きつい夜がある」っていうセリフがあるが、私は「けっこう毎晩きついのよ」と相手には伝わってる表現なんだ、と受け取った。「紛らすだけ。誰でもいい。いや誰でもいいわけじゃない。」本心はどちらかあいまいだ。けれど私には「雄介じゃないとダメなんだ」という心の声をごまかすための装いだと受け取った。ロマンチックな読み方すぎるかもしれないけれど、最後の最後は相手に負担をかけたくないから距離をとって自分を収めようとする現代人の警戒心だったら深く納得できる。この作品に出てくる登場人物たちとなら、含みある会話を楽しみたい。あるいは含み過ぎる会話で傷つけ傷つくような時間を持ちたい、と私は思った。
 ただ、おそらくこの戯曲の上演はおおむね登場人物のアクションに乏しく、おしゃべりばかり聞かされることになりはしないだろうか。そこに弱さを感じる。三つの局面が並べられて作品が一つ成立する、という体裁をとっているわりには、三つの局面が、この時とこの場所とこの人物であらねばならなかった、と感じさせない。まだ改善の余地がある。
最後に救いを見せないこの物語の結末が、私には好もしい。現実をごまかさないで直視しようとする堂々たる態度だ。絆や安易な希望でごまかせない交換不能な不幸せがいまの世に蔓延しているのだ、という指摘に、私は共感する。今の社会をともに怒る同志として、この同志の姿勢を支持したいのだ。



佃 典彦

 はい、名古屋のミラーマン佃でございます。
 今年は五作品ともそれぞれ特徴的で作家の個性が光っていたと思います。ワンシチュエーション家族劇、詩的なセリフの学園モノ、オムニバス、戦争体験記、時間軸を越えた犯罪モノ。こうして並べてみても実にバラエティーに富んだ作品群です。僕は<詩的なセリフの学園モノ>と<時間軸を越えた犯罪モノ>の二本に強く心を惹かれました。つまり『プラヌラ』『the Last Supper』です。
 もう50歳を過ぎた僕にはとてもじゃないけど書けやしない・・・と思わされたのが『プラヌラ』でした。「晴れ晴れとし過ぎていて何を見て見ぬふりをしているのかしっくりこないよね」というセリフが、今の高校生の得体の知れぬ不安感を上手く表現していて切実な感じが痛々しい。同年代の他愛もない会話が続く中、実は会話しながら脳ミソの中は自分のことだけで一杯になっているような薄い関係、それが回想シーンで表現されているのが上手いと思いました。お互い言葉が届かないといった感じ・・・。僕は最後までこの作品を推したのには24歳の作者の、今でしか書けないような危うさに感じ入ったからでした。
 『the Last Supper』はドキドキしながら最後まで読んだ作品です。時系列が複雑で一見読みにくくもあったのですが、一階の母親の時間が淡々と過ぎて行くのに対して二階の息子と監禁されている少女の部屋には凄まじいことが起こって行く。家の中の時間軸がグニャリとひん曲がっていて、あの実際に起きた監禁事件の現場の空気感や質感に迫っていたと思いました。ただ<壁の大きな裸婦の絵>だとか<歯に挟まった骨>や<競馬の話>など次々出て来るエピソードやアイテムがもう少し整理されていた方が良かったように思いました。
 『もものみ。』は家の中でそれぞれの居場所を見つけようとしている話だと思います。去年死んだ父親の存在、大黒柱が倒れた後の家族が自分の家の中で居場所を探すというは実に切ない、なのにそれをラストまで明るいトーンで描いているところが僕は好きでした。セリフも説明的でなく上手いです。恐らく五本の中では一番安心して観られる芝居でしょう。ただ僕はその安心感が少々物足りなく感じてしまい今一つ推せませんでした。
 『触れただけ』はオムニバス作品ですが三つの話にさりげない繋がりがあって笑わせ方も上手いし一等賞になった理由も判ります。が、僕はどうしても二話目の男に納得がいかなくて推せませんでした。僕は卵を買いに行ったまま逃げた男がこの女子高生へあの対応をするのはちょっと解せないのです。<逃げる>という行動、しかも<逃げ切る>のには相当の覚悟が必要だと僕には思えて仕方ないのでした。
 『カミと蒟蒻』は取材に来た女性に背景がないのが辛いです。ただ過去を引っ張り出すためだけに終始してしまっていて老夫婦の苦い思い出を噛みしめるだけになってしまっているのが一番大きい問題点だと思います。途中のマンザイみたいなやり取りも全体から浮いてしまっている様に感じました。
 以上、選評でした。



土田英生

 高石紗和子さんの『プラヌラ』を推そうと決めていた。細部の会話は具象で描かれ、私たちが現実に生きている世界の延長線上にあると思えるのに、作品全体の印象は抽象画を眺めているかのような感触。境界線が見えないことに興味を惹かれた。これは主人公である“まひろ”と彼女の同級生たちの関係にも言える。引きこもりになってしまったまひろと、日常生活を泳ぐ他の登場人物の間にも明確な線引きはない。地続きになっていることによって、まひろの生き辛さが自分のことのように感じられた。
 南出謙吾さんの『触れただけ』の受賞には納得している。私が最後まで推し切れなかったのは、この作品がベストなのかという迷いが生じたからだ。元より力のある劇作家であり、これまでどの作品も面白く読ませてもらっているだけに、決定打に欠ける気がしてしまったのだ。三話の短編が緩やかに繋がっている構成になっているが、個人的にはそのつながり自体がもっとドラマになってていてくれたらと思った。二話目の援助交際の話は特に切なかった。
 守田慎之介さんの『もものみ。』は台詞や人物の描写力が見事だった。地域に脈々と続いている共同体のルールに縛られている人々の有様が立ち上がってくる。分かりやすく終わらせていないのがいい、という他の審査員の意見にも同意しつつ、それでも直子が家を出て行くことにドラマを作ってもいいのではと感じた。家族のそれぞれが等価に描かれ、あくまで家自体を描写しているは理解できるのだが、構造のせいなのか私は直子を軸にして読んでしまった。それだけに直子が抱えていたものや、決意に至る流れをもっと知りたくなってしまったのだ。
 太田衣緒さんの『the Last Supper』はイメージの作り方が面白かった。暗く深刻な設定ながら、極端に色付けされた登場人物の会話で愉快に読める。ただ、私は最後までこの劇のルールがつかめず、入り込むことができずに終わってしまった気がする。
 長谷川源太さんの『カミと蒟蒻』はよく調べれて書かれているなとは思ったが、演劇としてどう見せたいかという視点が定まっていない印象だった。無理に愉快にしようとしているような箇所が散見され、むしろそれが邪魔になっているのがもったいないと感じた。



マキノノゾミ

 守田氏の『もものみ。』には、さしたる筋立てはない。あるのは福岡県のとある果樹園農家の暮らし――その日々の営みのスケッチである。むろんこの市井家にも固有の家庭の事情はあって、きょうだい間の葛藤もあれば家族の各々に悩みの種もある。だがそれらもとりたてて個性的・劇的なものではなく、どこの家にもありそうな事情だ。にもかかわらず……この戯曲は傑作である。わたしは読んでいて途中で泣けて仕方がなかった。それはこの劇が「人々がただひたすらに日々を生きている」そのスケッチの精密さと繊細さをもって、ある種の「普遍」にまで到達しているからである。おそらく世界中の、どの時代の、どこの家族にも、戦争と差し迫った飢餓さえなければ、同じように日々の営みがあった(ある)ことを想起させるからである。幸福とはこういうことだ。これは百年後にも残り得る作品であるし、この時代の暮らしを知るための一級品の資料として百年後の劇作家が感謝を捧げるであろう戯曲である。

 高石氏の『プラヌラ』は、登場人物のモノローグ(思考)と自然な会話が自在に混在しつつ進む小説的な作品で、手法的には手堅くまとまっていると感じた。主人公の脆弱性を表す「プラヌラ」という言葉のチョイスなど随所にセンスの光る箇所もある。ただ、作者自身がこの主人公と一体化し過ぎていやしまいか。主人公まひろの相対化はどこまでも水平方向に同世代の友人間においてのみ行われ、先行する世代は(姉のはんなでさえも)すべて風景のような扱いとなる。おそらく健在であるだろう親については一言の言及すらない。友人たちも主人公と拮抗しうるほど血肉化できているのはうめくらいで、あとはやはり風景的な扱いである。私小説ならこれでよいのだが、演劇はもっと、作者から等距離の他者同士の対話のダイナミズムによって支えられなくてはならないと思う。だから大詰めの雨の運河をはさんで会話する場面など、イメージも台詞も素晴らしいのに、対話の相手である肝心のけいの造形が曖昧であって実に惜しい。

 受賞作となった南出氏の『触れただけ』は、昨年も最終候補に残った同氏の『ずぶ濡れのハト』とはまるで異なる感触をもつ、不思議な味わいの短編連作である。昨年の戯曲は地方のスーパーを舞台に土着的なリアリズムを強く感じたが、今年のはぐっと都会的な物語であり、そのぶんやや人工的な印象がある。いずれにしても、どちらも書けるという意味で作者の技量はそうとうに高いと思う。とくにこの作者は特殊な関係にある男女間の台詞を書くのが巧い。女子高生の高橋がチョコレートドリンクを飲んで「ものすごくまずいです!」と言って逆に感動するくだりなど、実にスリリングである。ただし、作品全体では少々物足りなさを感じる。三作のループの輪が最後のところできちんとつながれていないからだ(ト書きではわかるが、おそらく上演ではまったくわからないだろう)。そのための短いもう一場面を作ってもよかったのではないかと思った。

 長谷川氏の『カミと蒟蒻』は、まず作品全体の構想が素晴らしい。現代に暮らす老夫婦のところへ戦時中の話を取材にくるという入り口から過去の物語に滑り込んでゆく展開といい、すべての物語をわずか四人の俳優で演じきるというアイデアといい、いずれも秀逸である。超がいくつもつく傑作となり得る可能性を秘めている。ただ、いかんせん台詞がどうにも書けていない。言いたいことはわかるのだが、いかんせん登場人物が往時の人間に見えない。たとえば戦前・戦中に作られた映画や書かれた小説などをもっと観たり読んだりして、当時の空気感や会話の生理などを研究するとよいと思う。狙いというよりはおそらく筆がすべったのであろうギャグ台詞も不発だし、不要だと感じた。何度でも改訂して真の傑作へと練り上げていってほしいと切に思う。

 太田氏の『the Last Supper』は、かつてあった新潟での少女監禁事件を素材にしている。現実にはおぞましい事件であったが、だからこそ演劇的にその闇を解剖したくなる素材でもある。作品そのものは面白くは読んだのだが、不条理劇となるとわたしには力不足でじゅうぶんな批評はできない。恥ずかしながら、終幕などまったくわからなかった。展開するのは主に犯人(僕)の妄想の世界だと思うのだが――好みだけで書かせてもらえば――そこでは、現行の僕と少女の共闘関係からもっと主客が逆転した関係が見たかった。僕の妄想の中で、少女がもっと輝やかしく僕を圧倒するような存在であったならば、最後に衰弱して発見される現実との落差がより劇的に残酷なものとなったのではないか。それは作者の好みではないかも知れないが。

 今年の最終候補作では、わたし個人では『もものみ。』がいちばん良かった。南出氏の受賞にむろん否やはないのだが、わたしの中では昨年との「合わせ一本」という意味合いが強い。氏の今後のいっそうの研鑽と飛躍を期待したい。

第23回劇作家協会新人戯曲賞選考経過

受賞作 出口 明、大田雄史『うかうかと終焉』

左から:大田雄史、鴻上尚史(劇作家協会会長)、出口明





<審査会の模様>
左から:瀬戸山美咲(司会)、川村毅、渡辺えり、土田英生、永井愛、マキノノゾミ、坂手洋二、 典彦



<授賞式>
左から:鴻上尚史、大田雄史、出口明、ピンク地底人3号、八鍬健之介、長谷川彩、くるみざわしん

  最終候補作
 『精神病院つばき荘』 くるみざわしん (大阪府)
 『黒いらくだ』    ピンク地底人3号 (京都府)
 『アカメ』      八鍬健之介 (東京都)
 『下校の時間』    長谷川彩 (愛知県)
 『うかうかと終焉』  出口 明、大田雄史 (東京都)
 
  
最終審査員
  川村 毅、坂手洋二、佃 典彦、土田英生、永井 愛、マキノノゾミ、渡辺えり
  (司会:瀬戸山美咲)

 *第23回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら

選考経過   瀬戸山美咲

 今回はレベルの高い作品が多いという声が複数の審査員から上がりました。
 『精神病院つばき荘』について、渡辺氏「少人数で今の日本社会をうまく描いている」。マキノ氏「ひとりひとりの人生と向き合うところから始めるラストに希望を感じた」。川村氏「出だしが面白いが、中盤からテーマが前面に出てきている」。永井氏「作者の都合で登場人物が動いているところが気になる」。
 『黒いらくだ』について、佃氏「一番、体感があった。一家をぶっつぶそうとしている昌美という人物が面白い」。坂手氏「ベランダで繋がっている部屋という設定がよい」。マキノ氏「セリフがこなれている。映像的なシナリオの書き方になっている」。
  『アカメ』について、土田氏「会話がうまいが、最初になんだろうという疑問がなくてドラマに入っていけない」。永井氏「キイチという人物が弱い。ライターという職業が活かされていない」。坂手氏「アイヌという言葉だけで人の特質を語ってしまうのは一種のステレオタイプで差別だ」。
  『下校の時間』について、土田氏「ぎこちない会話にじんと来た。構造に作者の社会に対する大きな視線が含まれている」。マキノ氏「震災で避難してきた子の訛りが変わる。それだけの時間が流れたことをうまく描いている」。佃氏「何気ないやりとりだが、裏を引っぺがすと激しい葛藤や悔しさがある」。
  『うかうかと終焉』について、川村氏「男女が一緒の寮ものは斬新」。渡辺氏「冒頭がアングラ的でどんなものが始まるのかと思ったら肩透かしを食らった」。永井氏「反対運動に敗れた人たちの最後の5日間というのがよい。バカバカしい出来事の中に、青春のきらめきがある」。

 2作品ずつ選んだ一回目の投票は以下のとおり。
  『精神病院つばき荘』川村 渡辺 マキノ
  『黒いらくだ』   佃
  『アカメ』     渡辺     
  『下校の時間』   土田 永井 マキノ 坂手 佃   
  『うかうかと終焉』 川村 土田 永井 坂手


<1回目の投票中の模様> 右:瀬戸山美咲

 休憩後、3票以上の作品について1票ずつ投票することにしました。
  『精神病院つばき荘』渡辺 マキノ       
  『下校の時間』   佃 土田    
  『うかうかと終焉』 川村 永井 坂手


<投票結果> 黒丸が1回目、その内側の赤丸が2回目。右側の数字は1回目の丸の数。

 票が割れたため、選んだ作品について各審査員が応援演説をし、全員で議論を重ねました。
 『精神病院つばき荘』について、マキノ氏「天に唾したものを自分で引き受けるという、スケール感がいい」、渡辺氏「私たち自身の姿が描かれている。涙なくしては読めなかった」。
 『下校の時間』について、佃氏「2人の背景で、藤田がピアノを弾いているところも見逃したくない。たくさんのことが詰まっている」、土田氏「今の社会問題が中学生の生活まで入り込んできていることが伝わってくる」。
 『うかうかと終焉』について、永井氏「たわいのない会話からラストで逸脱して、人間の普遍性を描いていている」、坂手氏「壁に書いた言葉もよい。さらっと書いたことに意味がある」。
 応援演説を受けて再度1票ずつ投票したところ2回目と同じ結果になり、『うかうかと終焉』に決定しました。






選評


川村 毅 ── 選評らしきもの

 『うかうかと終焉』が一番いいと読んだ。
 私の審査基準は、作家が、書きたいことをそれに見合った的確な文体と構成で描いているかどうかだ。作家の主義主張、イデオロギーは重要ではない。何を考えようと個人の勝手だ。次に審査現場においてよく審査員の好みという言葉も出てくるが、そもそも私にはどういう劇が好きとかいう好みなどない。故にどういう傾向のものがいいという観点で審査を作動させない。
 これは勝手な想像だが、『うかうかと終焉』の勝利は共同執筆にあったのではなかろうか。お二方の間で具体的にどういう作業が行われたか知らないが、お互いに的確な俯瞰者を共有できていたのではないか。編集者が存在していたということだ。小説は作家と編集者の共同作業によって発表をみる。初稿は編集者の容赦ない批評とチェックに相見える。戯曲の場合、こうしたことを経ずにいきなり舞台に上がってくる。編集者のような存在として演出家、プロデューサーがいるはずなのだが、彼らの批評、チェックを劇作家が受け入れられる信頼関係を構築できるかどうか、現在日本の演劇環境においてはなかなかに難しい。
 だから、戯曲は劇作家ひとりのものとして動き出すが、それが戯曲にとってベストだとは言えない。例えば、 『精神病院つばき莊』、『黒いらくだ』『アカメ』に関してだ。どれも書きたいことはわかるし、狙うところはとてもアクチュアルだが、まだまだ再考、推敲が必要だ。この際だから(どの際だか知らないが)がんがんエラソーに言わせてもらう。
 思うに、ひとつの作品を発表するには、初稿に対して容赦のない意見感想、作家が逆ギレもしくは自信喪失になるほどのダメ出しを、愛を持って発信してくれる、もうひとりが必要だ。
 そうした作業が『うかうかと終焉』では為されていたと推測できるほどに、この戯曲はしっかりしていて、瑕疵がない。だから、私は推した。
 『下校の時間』も目立った欠点はない。淋しい大人がキュンときそうな小品である。『うかうかと終焉』のほうが大きい。読んでいて、舞台に上げた時にどうなるのかという想像の幅が広がる。




坂手洋二

  『精神病院つばき荘』は、震災からさほど間をおかず書かれたはずで、以前にも読んでいる。精神病院が舞台であるが、その後起きた「やまゆり園」事件の現実のリアルの前には、寓話的に見えすぎてしまう。
 とにかく登場人物が喋り過ぎで、「リーディング向けの台本」として書かれたのではないかとさえ思ったし、「なぜこの人たちはこんなに言葉が出てくるのだろう」という問いを抑えられない。何かにこだわり続ける人物達であるともいえるのだが、岩松了的な粘着とも違う。登場人物に対する距離感のためか、立場が逆転したり等、いろいろ展開があっても、劇的高揚はあまり感じられない。
 タイトルにもなっている施設名の「つばき」が、「椿」と「唾」を掛けているというようなレトリックが、私にはどうしても面白いとは思えなかったものの、才気もキャパシティも随所に感じさせる。この作者はもっと書けるはずだ。
 『黒いらくだ』は、団地の共同ベランダが舞台。隣の別所帯と繋がっている設定が面白い。子供の頃の「透」が出てくるのも、演劇ならでは。繰り返される暴力も興味深いが、「義雄」のいかにもなオーバーアクトの言動になってくると、いささかうんざりする。結果、狂気やギャグも「演劇用」にしつらえられただけではないかという疑念が拭えなくなってくる。
 『黒いらくだ』という架空かも知れない映画、カンヌを騒然とさせたというその存在は、じつに面白い。短いシーンが挿入(カットイン)されるこの劇の場面処理じたいも、どこか映像的といえるのだろう。
 文字の向こうに確実に劇の現場を浮かびあがらせられる筆致は認めるが、この作品も、喋り過ぎ、不必要と思われるまでに理屈をこね回すところがある。「透」が、もしかしたら自分自身が犯人ではないかと疑う展開は興味深いが、その性質が父親から受け継いだものとして説明されると、少しガッカリする。
 『アカメ』は、ゲストハウスのテーブルがある部屋という舞台設定の「(登場人物の)出入り自由な空間」が、作風に似合わない。便利というか都合がいいだけである。直接でも寸止めでもない曖昧な会話が続き、弾まない。人間関係がわかりにくい。いかにもな蘊蓄も、次第に退屈に感じられてしまう。
 ストーリーはあるのだが、葛藤がきちんと組み立てられていない。屋内から雄鹿の姿を見る展開が、何か盛り上がりになってくれるわけでもない。過去の記憶が現在の人間にのしかかってくる痛みとクロスするだけの、進行形のビビッドさが不足している。
 「いけなかったんだべや、アイヌだから」という「差別」のステレオタイプは、その「差別」を劇のネタで使った、という以上のことになっていない。逆に「アイヌ」という言葉だけでその人の特質を語ってしまうのは、それじたいが新たな差別の再生産となる可能性さえある。
作者は書ける人だと思う。幹を太くすること、不必要な部分を削ぎ落とし軸を鮮明にする集中力を求めたい。
 『下校の時間』。完成度の高さという意味では、候補作中、明らかに断トツ。物語としては、柳瀬の言う「(藤田が)弾けるかどうかは知らんけどさ、弾きたいかどうかは自分で決められるじゃん」、これが名台詞になるかどうかが問われるところだ。藤田の実体、登場人物達との関わりが今ひとつ鮮明にわからないため、不発に終っている気がしてしまうのが、惜しい。
 声がかき消されて二人が歌うクライマックスは、もったいない。合唱とは違う幕引きの方法がなかったかと、思う。
 登場人物達は子供というよりは大人に思われる。そこがどこか岸田國士の戯曲を思わせる。この作者は無意識に自分に課しているらしい制約を、どう解いていくのだろう。大器を予感させる。
 『うかうかと終焉』は、京都にある大学学生寮の廃絶・取り壊しに立ち会う若者達を描いている。退寮者が壁に落書きを残してゆくという習慣があるという設定が、仕掛けとしてうまくいっている。いまの若者からすれば「時代色」を感じさせもするのだろうが、私も以前、(学生でもないのに)京都大学西部講堂連絡協議会のメンバーだったし、長いあいだ京大構内に逗留したこともある。その頃から「過去の亡霊」の存在感は、半端ではなかった。
 登場人物達は現在の世相で言えば、かなりな少数派と捉えられることになるのだろう。ノスタルジックな世界のようだが、現在進行形の「いま」の物語として、なんとか持ちこたえていることを、讃えたい。
 「年齢ごとの心の賞味期限」という言葉も含蓄がある。昔も今も人間は寄り添いたがる生きものだし、別れの積み重ねこそ生きることだという達観も、また然り。
皆が電球を見ていて点灯した瞬間にまぶしさに一瞬うろたえる導入部から、演劇的な仕掛けの一つ一つが、悪くない。わかっていて書いているのだろうが、生硬でナマすぎる言葉も多々あり、実に荒削りだが、書き手が心から楽しんでいることがわかる。
 この作品の強さは、自分が生きている現実に対する違和感を描こうとする意欲と、演劇という表現の特性への関心が、うまく噛み合っているところだろう。

 最終候補作はどの作品も、書くことが好きなんだなあと感じさせた。そこが頼もしくもあるし、もっとその先に飛び出してほしいとも思わせられるところだ。



佃 典彦

 はい、名古屋のミラーマン佃です。
 まずは審査員の一人として一言。僕は過去に二回この賞に応募しまして二回とも最終候補どまりでした。つまり一等賞の新人戯曲賞からは落選しております。舞台上の審査員の方々のご意見を聞きながら「いやいや違うんだけどなぁ」とか「おいおいちゃんと読んでくれてんの?」とか心の中で叫びながら反論を許されない観客席でヤキモキしておりました。もちろん参考になるお話も聞けましたが素直に腑に落とせるまでには時間がかかりました。
 なので僕は舞台上で審査員が「よく判らない」と口にすることは非常にマズいと考えています。まぁ、「判らない」モノは「判らない」のですが所詮は他人の書いたモノなので「判らない」のは当たり前、少なくとも誤読でも何でもいいので「判ろうとした」意思は示しておかないと今回この賞に応募してくれた231名の劇作家達に納得して貰えないのではないか・・・と、考えております。偉そうなこと言っちゃいましたが審査員の中で審査される側に二度立ち会ったのは僕だけなので心情的にそんなふうに思ってしまうのです。

 今回はどの作品も個性的で面白く、票も割れに割れました。どれが一等賞になってもおかしくありませんでした。その中で僕はピンク地底人3号さんの『黒いらくだ』と長谷川彩さんの『下校の時間』に票を入れました。
 『黒いらくだ』は掃き溜めの様な町の描写に嫌悪感を抱くほどでした。重い空気、曇った空、その町で生きる人々に蓄積されるうっ憤。主人公・透のトラウマに潜む父親・健人の暴力性が剥き出しになる瞬間の恐怖が非常によく描かれていて五作品の中で一番<体感>させてくれた作品でした。特に僕は主人公の隣人のオバサン・昌実の執念に満ちた有様に感動しました。昌実は登場した時から隣の坂本家を破滅に導く事だけを願っている凄まじい女性です。そしてそれを笑顔で押し隠しながら付き合いを続けている。この人物をそうさせるに至ったのは他でも無くこの<町>です。自分の娘を森に置き去りにしてしまった主人公への恨み、娘が殺害された原因を作った主人公への恨みがラストまで貫かれています。しかも主人公・透は父親のトラウマ(血)から自分が殺害したのではないかと苦しんでいる。様々な感情の糸が複雑に絡み合った作品で僕はすごく評価しております。
 『下校の時間』はこの作家得意のパターンですが過去の作品に比べても贅肉が削ぎ落とされて洗練されていると思いました。ラストの柳瀬が野中に「俺、野中でいいと思う」というシーンでは不覚にも読みながら涙してしまいました。実はこの会話のリズムと言葉の音色は名古屋弁でしか表現しきれないと言うか是非とも名古屋弁で読んで貰いたいところなのですが・・・。二人の背後にずっとピアノが流れているのが切ない。このピアノは野中より上手くないのに車椅子であると言う理由で卒業式に演奏することが決まった藤田が弾いている。その場の空気で決定される理不尽さ。それは福島から避難してきた柳瀬も同様です。地元で死にたいと言うお婆ちゃんの気持ちに寄り添わなくてはならないと言う空気感を背負っているからです。中学生の切なさを説明セリフを一切使わずに描き切ったこの作品を僕は最後まで推しました。
 『精神病院つばき荘』も票を入れようか非常に迷いました。三人の登場人物だけでこのダイナミックな作品を創り上げたことに驚きます。院長のセリフが長いのに全く飽きさせません。ラストに本当に原発事故が起きて日本のほとんどが住めなくなったシーンに少々疑問を感じてしまいました。実際にそうなった時に果たして高木と浅田は院長を心配して来訪する余裕があるのだろうか。それよりも原発事故は院長の頭の中だけで起きていて病院に閉じ籠っている方が良いのではないかと考えたのですが、それだと<つばき>の意味が薄れてしまうのでしょうか?
 『アカメ』は最初に読んだ時にはこの作品に一票!と感じました。雪の中に閉じ込められるシチュエーションは有りがちなのですが登場人物たちの関係性が露わになっていく様子が非常に面白く、さらに片目の巨大な鹿が登場するシーンは神々しく感じられてグイグイ引き込まれながら読みました。が、野球部時代にボールを目に当てて潰してしまったアイヌの知山の話がどうも取って付けた感じがしてしまいました。構成的にもう少し前半に堂々と伏線を張っていいと思います。
 『うかうかと終焉』が一等賞を取りました。他の審査員の意見を聞いて納得する部分もあるのですが、どうしても諸手を挙げて賛成という感じがしませんでした。審査会で「テラスハウスみたい」と少々失礼な意見を述べてしまったのですが、やはり僕は今一つ登場人物たちに感情移入仕切れないのでした。例えば最初のシーン、麻雀の途中で電球が切れてしまった所から始まりますが電球が復活したら何が何でも麻雀の続きをするべきでは無いかと思うのです。半チャン途中で終わりにするほど麻雀打ちにとって気持ち悪いことはありません。引っ越しの準備をしなきゃならないのに延々と麻雀を打ち続けるバカな連中であって欲しい。もしかしたら実際の俳優たちが麻雀打てないのかも知れませんが・・・。ヘビ鍋にしても今一つ突っ込みが足りないと言うか登場人物たちの想いを引き出すための道具にしかなっていなくて勿体無い。「うかうか」する小道具が用意されながらも実は「うかうか」してない気がするのです。
 
 ともあれ今回の五作品には本当に楽しませて貰いました。以上!



土田英生

 受賞作である『うかうかと終焉』は2次審査の時にも読み、面白くて随分と高得点を付けたけれど私は最後まで『下校の時間』を推した。今回の最終候補作はどれも会話主体で質も高く、読むのに苦労を強いられるものはなかった。私が長谷川彩さんの作品に特に感心した理由は、「書かれたもの」であることを意識せずに最後まで読ませた事だった。私は審査であることも忘れ、ただ登場人物の幼さと切なさに心を打たれた。下校前のちょっとした時間に交される中学生男女の会話を描きながら、背景が明確に浮かび上がってくる。当たり前のことながら作者は何かしらの意図をして書いていたと思うのだが、そうした作為を全く感じることはなかった。自分が台本を書く立場で考えた時この事実には素直に驚いた。この作品があったことで、今回はどうしてもこの「作為のなさ」が私の選考の基準になってしまったのだと思う。
 出口さん、大田さんの『うかうかと終焉』も大学の寮が持つ空気、時代から取り残されている感じをとても自然に漂わせていて (二人で書いたとは到底思えない!)、多い登場人物を見事に書き分けていたと思う。特に三濃部の造形は見事だったと思う。
 八鍬さんの『アカメ』はその点で、やや作者の観念が先に立ってしまっている印象を受けた。上演で見れば気にならないのかもしれないが、戯曲で読むと無理やり筆を進めている痕跡を感じてしまう。力量のある人だし、最初の設定の温度を上げ、流れに任せて書いて欲しい。それはなかなかに難しいことであるけど。
 くるみざわさんの『精神病院つばき荘』も、読んでいると突然作者が顔を出す瞬間があるのがもったいない。特にラストは構造としては理解できるのだが、素直にそれが入ってこない。実はこの作品は別の機会に読んだことがあり、その時と比べるとかなりこなれた戯曲に仕上がっていた。それでもまだ登場人物の輪郭よりも、書かれた文章に目が行ってしまう嫌いがあった。
 ピンク地底人3号さんの『黒いラクダ』は、会話のうまさに唸りながら興味深く読んだのだが、読む時の丁寧さが私自身に欠けていた。選考会で話していて当たり前の事実に気付かされる始末だった。反省している。
 


永井 愛

 最終候補5作は、それぞれにしたたかな才能が感じられ、読み応えがあった。
 『精神病院つばき荘』は、原発事故後の「とてつもなく大きなものに見放され、置き去りにされた」危機感を精神病院の院長、患者、看護師の3人に託して描く社会批評性の強い作品だ。発想は面白いし、コミカルで大胆な筆力も買う。ただ、登場人物(特に看護師)がその内的な動機というよりは、作者の都合で動かされているように思えたのが惜しかった。このように突飛な物語が、すべてなるほどと信じられる、人物の主体的な欲求によって動いていったのなら、それは快挙と言えるだろう。くるみざわさんは細心の踏み込みと強度のジャンプ力を必要とする戯曲を書いた。ぜひ挑戦を続けてほしい。
 『黒いらくだ』には謎が多い。主人公・透の父の死、かつての恋人の死は、透自身の手によるものなのか、はっきりとは読み取れない。構成をあえて映像作品的にしたのかもしれないが、芝居としての効果になっているとは思えなかった。だが貧しさの中で暴力、万引き、言い争いを繰り返しながら生きる人々の言葉には生々しい実在感があり、今という時代を突きつける力があった。
 『アカメ』は北海道を舞台に、鹿撃ちイベントのために集まった人々を描く。丹念に日常語を組み立てているが、時にそれが細か過ぎて出来事の輪郭がぼやけ、同じような印象に埋没してゆく気がした。一本角の牡鹿の出現は鮮やかだが、それをアイヌの少年への加害の記憶と結びつけ、ラストにつなげるためには、キイチという人物の前半にもっと伏線が必要だったのではないだろうか。
 『下校の時間』は中学校の玄関口で雨上がりを待つ女子生徒と男子生徒に流れた時間を描いて美しい。ぶっきらぼうに、でもリズミカルに交わされる会話から互いへの思いがこぼれでるたび、妙にドキドキさせられた。被災地から来た男子生徒がもうすぐ地元に戻ると知ると寂しくなった。つまり、かなり素直に二人の心を体験させられたわけで、狙いや技巧が透けて見えたら、こうはならない。ひたすら純度の高い表現に向かった作者の姿勢がそれを可能にしたのだろう。受賞作に推す声が多かったのもうなずける。
 受賞作となった『うかうかと終焉』は、取り壊しの決まった学生寮の最後の5日間を描く。退寮する際、室内の壁に別れのメッセージを書き残すという習わしがあるのだが、今回去る寮生たちは、もうすぐ瓦礫となる壁に何を書くかで悩むわけで、その設定がまず面白い。次々と人が去る中、寮での出来事は実に他愛ない。皆、最後にふさわしい何かを求めはするものの、すぐドタバタした日常に流れてしまう。それがかえって、ともに過ごした年月と関係の深さを感じさせる。この寮生たちは、寮の取り壊し反対運動の中心となり、敗北した経験を共有していた。互いの心に踏み込むことへのためらいは、そこから生じているのだろう。でも、負けっぱなしなのではない。それぞれに守ろうとするものを自分の中に確かめつつある。それが最後の言葉となって壁に示される。愚かしさの中に詩情があり、挫折を知った若い心をとらえて見事だと思う。



マキノノゾミ

 最終審査員をやらせていただいたのは今度で11回目なのだが、今回ほど自分の中で最優秀作を決めかねたのは初めてである。
 絵画に例えれば、自分は具象画の作家であると自任している。まぁ町の絵画教室で先生をやれるくらいの腕はあると己惚れている。抽象画(不条理演劇)となるとお手上げだが、具象作品ならば、その良し悪しはある程度正確に判断できると思っていた。つまり具象的な台詞の巧拙の判断で、これまではある程度候補をしぼり込むことができた。
 また「新人戯曲賞」という名を冠するからには、可能な限り「技術の多寡」をこそもっとも考量に入れるべきとも思っていた。劇作家が他の劇作家の書いた作品を審査しようというのだから、それ以上の真剣勝負はなかろうと。
 それができなかったということは、つまり、みんなが巧かったということだ。本当に五人の候補者誰もが台詞が巧い。本当によく書けている。これだけ甲乙のつけがたい最終候補作が並んだのは、わたしの体験上では初めてことであった。
 こうなるともはや個人的な好みでしか選べないということになるのだが、これがまた個人的に好きな作品が何本もあるのだ。本当に困った。まぁ嬉しい悲鳴ではあるのだが。

 例えば、長谷川氏の『下校の時間』も大好きな作品だ。「少年と少女が何かを待ちながらとりとめのない会話をする」というシチュエーションが、やはり五年前に候補作となった同氏の『メガネとマスク』とよく似ていながらも、その完成度や情感の深さでは何倍もスケールアップしている。例年ならば、最優秀賞となってもまったくおかしくない傑作だと思う。
 八鍬氏の『アカメ』も同様である。この作品が昨年か一昨年に出されていたら、たぶん最優秀作品となっていたのではないか。少なくとも、わたしは間違いなく一番に推したと思う。それほど氏の写実的な台詞を書く技術は申し分ない。雪に封じ込められる北海道南央部のゲストハウスという設定の取り方も秀逸だし、登場人物全員に切実な事情を仕組む周到さも見事だ。
 ピンク地底人氏の『黒いらくだ』の冒頭に激しい雨が降っているところも好きだし、受賞作となった出口氏(with大田氏)の『うかうかと終焉』など、かつて京都でノンシャランな下宿生活をおくった個人的体験からすれば、もはや審査員中でこの作品がもっとも好きなのは自分だと言い切れる自信があるほどだ(わたしはかつてこのような作品が書いてみたくて『東京原子核クラブ』を書いたのだ)。登場人物全員が愛おしいが、ことに最後に出て行く美濃部など最高に大好物のキャラクターである。
 その中でわたしは、くるみざわ氏の『精神病院つばき荘』を推した。それは、この作品が、わたしにとってはもっとも迫力があったからである。福島の原発事故は、やはり三年前に最終候補となった同氏の『蛇には、蛇を』でも重要なモチーフとなっていた。けれども、あの事故を語るとき、それを第三者としての批判や糾弾の域にとどまるのではなく、そこから一歩進んで、自らも「天に唾した者の一人」として我が身に引き受けようとする主人公・山上の在り方に胸を打たれたからである。最後の浅田の台詞も感動的だ。入り口はチェーホフの『六号室』なみに精神病院の院長と入院患者の主客が転倒する喜劇の様相でありながら、この戯曲が最後に到達する場所は、わたしたちこの国に住まう者たち全員にとって、とてつもなく重く、大切な意味を含んでいると思った。今のわたし自身に「他人事ではないぞ」と、もっとも切迫してきた作品だった。



渡辺えり

 戯曲とは何なのだろうか?
 今回の審査にあたって、良い戯曲、優れた戯曲とは何なのだろうかと改めて思った。審査員の好みや、その時の感情や感覚に響いた作品が、受賞作ということになるのではなかろうか? 審査員が変われば、まるで違った作品が受賞する可能性がある。それらの偶然や今この時の社会背景がこの戯曲賞の個性にもなっているのかもしれない。
 私はくるみざわしんさんの『精神病院つばき荘』を推した。今現在の社会の矛盾、正義とは何か? 体制側、反体制側の心理の矛盾。善悪とは簡単に言い表せない、人間心理の矛盾と不思議さが、リアルとファンタジーの交錯する世界で面白く表現されていると感じた。そして、今劇作家が書いておかなくてはならない問題でもあると感じたからだった。
 受賞した『うかうかと終焉』は私の心には響かなかった。革命を信じた学生運動の終焉のことを書きたかったのか? 学生寮という特殊な環境の中での会話の中にもっと力強いメッセージが必要ではなかったか?と、高卒の私にも響く何かが欲しかった。
 『黒いらくだ』も面白く読んだ。ト書きに書かれたマタイの福音書「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。今の社会がそうではなくなっているということの大いなる皮肉を書きたかったのだと思う。
 『アカメ』も個性の強い文体の、好きな作家である。ざっくりとした質感のシーンと顕微鏡を覗いたようなシーンとのアンバランスをもっと駆使すればさらに個性が強まるのではないだろうか?
 『下校の時間』も面白い。長谷川さんの作品は繊細で登場人物の個性に合わせた言葉のチョイスも独特で新鮮である。 
 今回の作家たちは次回作を読み続けたいと思わせる方ばかりであった。私自身も書く力と読む力を磨いていかなければといつも思うが、感情と感覚が先に立ち、うまさよりも、作品の存在感、力強さを感じた作品を推したい思いが強い。今回は女性作家が少なかったが次回はさらに期待したい。


第21回劇作家協会新人戯曲賞選考経過



受賞作 象 千誠『畳と巡礼』





審査会の模様
左から:鈴木聡(司会)、土田英生、渡辺えり、鴻上尚史、マキノノゾミ、坂手洋二、鈴江俊郎、佃 典彦



授賞式
左から:坂手洋二(会長)、藤原佳奈、南出謙吾、ハセガワアユム、象千誠、國吉咲貴、鈴木聡(審査会司会)


最終候補作
 『南吉野村の春』     岡田鉄兵 (大阪府)
 『アキラ君は老け顔』   國吉咲貴 (埼玉県)
 『畳と巡礼』       象千誠 (広島県)
 『少年は銃を抱く』    ハセガワアユム (東京都)
 『ずぶ濡れのハト』    南出謙吾 (東京都)
 『夜明けに、月の手触りを』藤原佳奈 (東京都)

 
最終選考委員
  鴻上尚史、坂手洋二、鈴江俊郎、佃 典彦、土田英生、マキノノゾミ、渡辺えり
  (司会:鈴木聡)

*第21回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら

選考経過   小松幹生

 第21回劇作家協会新人戯曲賞公開審査会は、12月13日午後6時半、座・高円寺2で、定刻に開始された。司会は初めての鈴木聡、大きな笑顔が特徴だ。客席はほぼ満杯の盛況。

 応募順に従ってテキパキと開始。1本目、岡田鉄兵『南吉野村の春』について、マキノ審査員が口火を切る。セリフはうまいのだがツウ・ショットの会話が多く、どうしても説明が多くなり、父が死んでいるという設定のせいで兄のやさしい心がもったいないと述べると、土田審査員がユーモラスで楽しいけれどと続き、全員の審査員が会話のうまさと物足りなさを賑やかに語る。

 続いて國吉咲貴『アキラ君は老け顔』。鴻上審査員が、これは人の美醜の問題を語っている作品でそれがたまたま老け顔と設定されている、と言えば坂手審査員が、現実に若い時から老けるという病気があって、それがあまり考えずに使われているのが気になると発言、ここで鴻上審査員との間で議論があり、鈴江審査員の、自分の顔が他からどう見えるかではなく、世界の見え方が人によって違うことを考えさせると意見がある。

 象千誠『畳と巡礼』は、土田審査員と佃審査員から、面白い会話の背後にこれは日本の戦争の歴史を語る深みを抱えていると指摘があり、渡辺審査員も同調する。

 ハセガワアユム『少年は銃を抱く』は、坂手審査員が、いいところはあるのだが、収斂していくべき中心が判りにくいとの意見があり、渡辺審査員は、実は銃などはどうでもいいことになっているのが面白い、マキノ審査員が、主題は距離感を保ちつつの会話、佃審査員、ただ、おさまってしまうのが不満。

 続いて南出謙吾『ずぶ濡れのハト』。鈴江審査員、設定の自由さがいい。マキノ審査員、秀逸なセリフのセンス。坂手審査員、リアリティが不足。鴻上審査員、明快な出だしだが、それで終わってしまうのがもったいない。

 最後に藤原佳奈『夜明けに、月の手触りを』。鴻上審査員が、いろんな言葉に感動したと例をあげて読むと、渡辺審査員がモノローグだけで出来ているのだが、会話にしたくない、出来ない自分を語ることになっているのが悲しく切ない。


 と、一通り全作品を議論し終わって約1時間半経過。例年どおり、1審査員が2作品を押すというかたちで投票です。結果は『アキラ君は老け顔』 『畳と巡礼』 『ずぶ濡れのハト』 『夜明けに、月の手触りを』の4本に3票とならび、『少年は銃を抱く』が2票という結果。ここで休憩に入ったのですが、こう拮抗しては、後半の議論が大変だなと司会者の悩む顔を残して暗転です。

 さて後半、3票が入った作品から、それを押した審査員の「応援演説」から開始したのですが、『アキラ君は老け顔』の若くして身体自体が年を取る病気があることに関していきなり激論です。『畳と巡礼』は土田審査員が、これぞ演劇という感じ、佃審査員が、家の制度がなくなってしまってる現代について考えさせる、渡辺審査員、スーッと入ってサーッと自然に読めた、マキノ審査員、スケールが大きい。『ずぶ濡れのハト』、マキノ審査員、希望が見えないのが、希望の無さも含めて切ない。『夜明けに、月の手触りを』、渡辺審査員、小さい星がたくさん光ってる。ぼんやりした満月、これがいい。と、このあたり、各審査員の意見が賑やかに錯綜して客席に坐ったわたくし、とてもメモが取りきれない。

 そして、では、各審査員、1本を押す投票をしようと司会者。
 投票してみると、見事に分かれます。『畳と巡礼』『アキラ君は老け顔』が2本。『少年は銃を抱く』『ずぶ濡れのハト』『夜明に、月の手触りを』が各1票。
 では、「2票が入った2作品で決選投票にしましょう」と、司会者が提案。
 さて、その結果は、『畳と巡礼』が5票、『アキラ君は老け顔』が2票。
 こうなると文句なく決定です。
 観客席からの審査員へのお疲れさまの意味も込めての暖かい拍手で、審査会は無事終了です。お疲れ様でした。
 



選評


鴻上尚史

 『南吉野村の春』は、確かな筆力でありながら、物語の展開がやや観念的というか、定型に陥った感があります。女子中学生のお尻の感想など、じつに面白い所もありますから、細部に凝って物語にリアリティを与えられるといいと思います。
 『アキラ君は老け顔』は、僕の一押しでした。「そういう病気がある」という審査員の一部の批判はまったく意味不明に感じました。一行「病気でない」と書けばすむのなら、それは問題にならないと思います。言語センスもアイデアも素敵で、キャラクターも面白い。「老けて見えること」をもっと掘り下げると傑作戯曲になったと思います。母との和解がやや唐突なことが惜しまれます。
 『畳と巡礼』は僕には観念的で「読む戯曲(レーゼ・ドラマ)」として成立していても、上演に向けて例えば水の扱いとか、納得できませんでした。多数決で決まりましたが、僕は疑問でした。けれど、筆力があることは間違いないので、これからの活躍に期待します。
 『少年は銃を抱く』は、風呂敷を広げすぎたように思います。後半も銃に絞って物語を展開していけば、もっと面白くなったと思います。教師にリアリティがないことが、残念でした。
 『ずぶ濡れのハト』は、最初のシーンはとても素敵なのですが、そのあとの展開がどうも予定調和に感じてしまいました。筆力は確実にあります。なんとか、少しでいいので、なんらかの希望を描いて欲しかったと思います。
 『夜明けに、月の手触りを』は、ここまで卓越した言語センスを持っているのですから、ここから堂々とドラマを立ち上げていって欲しいと思います。淡々としたスケッチだけでは、インパクトが薄く、とても残念です。でも、本当に素敵な言葉使いです。
 総じて、どの作品も水準が高く、とても面白く感じました。全員のこれからに期待しています。



坂手洋二 「情景」よりも「出来事」を

 このような審査会で、「結局は好みで選ぶことになる」と言う人がいるが、どうだろうか。少なくとも私は「好み」で選んではいない。自分の「好み」自体がよくわからないし、関係ないという気がしている。作品の実力というのは、わかるものだ。
 『南吉野村の春』は、最初のト書きに「丸顔でメタボ体型」「人の良さそうな雰囲気」と書いてしまうところで、もう躓いてしまう。しかもその「いい人」は、最初から最後まで「いい人」のままだ。ここまで設定がステレオタイプだと、そのこと自体がある種の批評性を持っていないと、むつかしい。
 『アキラ君は老け顔』も、ト書きを「外見は六十代」と簡単に書いてしまう。で、この「老け顔」が現在の日常を描く劇にねじれを作る狙いなら設定としてはわかる。だが実際にそういう「早老症」の病に苦しんでいる人たちがいることを、作者は気にかけていないようだ。社会性が必要と言いたいのではない。自分が扱う題材に対する関心が不足している。「世界改革男」が父親だったという話は、物語らしく見せるためだけの因果話で感心できない。
 『畳と巡礼』は、水を使うとか、畳を背負うとか、一瞬目を惹く仕掛けがあることは、とてもいい。作者の象千誠さんには、自分なりに演劇の世界に馴染んできた蓄積があるのだろう。だが作品としては雰囲気だけで終わっている。イメージの羅列、「情景」ばかりだからだ。
 『少年は銃を抱く』は、この長さを書くスタミナは買うし、風俗の描き方に興味深いところがある。確信犯らしい緩さもあり、寺山修司の『サード』のように、作り手が大胆に現場のリアルに委ねているのであればいいと思ったが、残念ながら予定調和に終わる。ざわざわしているのは必ずしもマイナスではないが、その混沌をねじ伏せる意欲が今ひとつ。バラエティ番組的な「突っ込み」も多すぎる。やはり作者が「情景」を描いて満足していることが透けて見える。プロットも磨き切れていない。例えば、銃は一丁であるべきだ。
 『ずぶ濡れのハト』は、設定、登場人物への視座が、際立ってしっかりしている。気の利いた台詞も多い。地に足が着いていて、簡潔を心掛けつつ「技あり」を取っていく腕前がある。ただし男女関係の話が多すぎ。そして、その先が見たい、と思っているうちに終わってしまう。つまりプロットが弱い。もったいないのだ。
 『夜明けに、月の手触りを』は、パッチワーク的ではあるし、モノローグ調を安易と考える向きもあるだろう。しかし、物語が収斂するように構成されていることの強みで、最終的にさまざまな瑕疵が目立たなくなる。「向かいのマンションのベランダで、若い母親が、子供を抱えていた」という一節が、それが誤解であり実際にはそうでないということ、そのズレの先に現実世界があるという示唆自体が、批評として成功している。「情景」ではなく、「人と人の間に起きる出来事」を描くのが、演劇だ。この作品を最も強く推した所以である。



佃 典彦

 どうも、名古屋のミラーマン佃です。
今回の最終候補6本を読んでまず感じたことは「セリフが上手い」「センスがいい」ってことでした。どの作品も面白く読めたので何を基準にするか悩みましたが、結局僕の胸に一番ガツンと響いた作品を推すことにしました。
 僕のイチオシは『畳と巡礼』でした。まず〈畳を背負った男〉のイメージが痛烈で〈流れ続ける水〉〈水没する事務所〉〈畳の島〉と次々に鮮明なイメージを僕に提供し続けてくれた作品でした。ただイメージの羅列と言うワケではありません。それは罪を抱えたまま沈んでいくニッポン、家制度の崩壊というこの国が背負っているジレンマに作家自身が正面から向き合っていると感じたのです。抽象と具象のバランスも良く、特にお婆さんが水に突っ伏して窒息死するシーンに感銘を受けたのです。
 『アキラ君は老け顔』のセリフの面白さは抜群でした。戸部とアキラ君の最初の出会いの場面は凄くセンスがいいと思います。いわゆる出オチをどう展開していくかという点がミソだと思うのですが周りの人間の変な部分を描くことで実は誰もがマイノリティーであるというコトを証明していくことで成功していると思いました。
 『少年は銃を抱く』にも惹かれました。大勢の登場人物が出てくるのですがその全員の輪郭がしっかりしています。僕自身、中学の時にイジメに遭っていた頃はカバンに銃があればなんて想像したりしてました。実際に銃を手にする高揚感にも共感します。ただ、せっかく3部構成になっているのに時間軸に沿って場面が変わっているのが勿体ないと思いました。学校の先生達のエピソードをラストに持ってきたのが僕には少々不満だったのです。
 僕は二十代の頃にバイトしていた会社が倒産寸前になった経験がありまして『ずぶ濡れのハト』を読んだ時には感心しました。ダメと判っているのにズルズルと手をこまねいたまま潰れていく様が非常にリアルに伝わってきたのです。惜しいのは月日の流れと登場人物の行動にズレを感じてしまった点です。もっと短期間の話でも良かったように思いました。
 『夜明けに、月の手触りを』はモノローグで綴ったドラマですが、これが短編ならイチオシしていたかもしれません。凄く言葉に切れ味があって人物の相関図も面白いのですが、この手法ではこの尺はやはり長いと思うのです。
 『南吉野村の春』はキャラクター設定がしっかりしていて楽しい喜劇になってると思いますが、その分登場人物の行動パターンが読めてしまってドキドキする感じがしないのが難点でした。非常に読みやすい作品だったのは間違いないのですが……。



土田英生

 個人的な想いをただ書き連ねただけでは戯曲にはならない。演劇として観客に届かなければいけない。個人的な想いや幻想を普遍化する作業が必要だ。最もオーソドックスな方法は、いわゆる物語として描くことだ。表面上はわかりやすく読ませながら、気がつけばこれまで体験したことのない何かしらの想いや感覚を味わわせる。また、一般的な物語の手法を使わず、詩的なイメージや抽象的な言語で虚構を創り上げる戯曲もある。
 今回の最終候補作は基本的には物語、いわゆるドラマ的なものが多かったが、オーソドックスなものになるほど、矛盾や軋みを発見しやすい。岡田鉄平さんの『南吉野村の春』はまさしくそうで、読みやすく、理解しやすいがために、どうしても欠点が目立ってしまう。
 南出謙吾さんの『ずぶ濡れのハト』もそうだった。これは確実な技術がなければ書けない作品だと思う。ただ、上手く書いてあるがゆえに、少しでも逃げた痕跡があると目立ってしまう。
 ハセガワアユムさんの『少年は銃を抱く』はとても好きだったが、一つだけ気になったのは、より広く届けようという意思がやや欠けているように感じたことだ。扱っている事象がどんなものであれ、普遍化された表現はその事柄を知らない者にも届くはずだ。
 そういう意味で群を抜いて面白かったのが國吉咲貴さんの『アキラ君は老け顔』だ。読みやすいドラマでありながら、人が持つどうしようもない差別意識やコンプレックスを、全く説明臭くなく突きつけてくる。確実にそれは読んでいる私たちに届けられた。ただ、選評会の時にも話したが、この老け顔であるという事実がメタファーになり切れなかった一点が引っかかった。一行でも台詞が入っていたら、私は文句なくこの作品を推したと思う。
 藤原佳奈さんの『夜明けに、月の手触りを』は女性5人のモノローグでそれぞれの抱えるものを浮き立たせつつ、その人たちが街で交錯するという構造だ。そういう意味では物語の形を取らずに世界を見せるという、演劇ならではの面白さがあった。ただ、もったいなかったのは構造がやや消化不良で、モノローグの力だけに頼ってしまっている気がしたことだ。
 大賞となった象千誠さんの『畳と巡礼』は物語とイメージがバランスよく溶け合っていて、それが評価されたのだと思う。欲をいえばそのイメージがやや絞り切れていない感は否めなかった。



マキノノゾミ

 岡田氏の『南吉野村の春』は、穏やかな農村を舞台に愛情深い兄弟の物語と、その裏でクライム・サスペンスが並行する。ただし犯罪も露悪的には描かないという点で個人的には好きな作品世界である。残念なのは雄一と龍の兄弟に、物語を通して乗り越えるべき葛藤が少ないこと。単に周囲から白い目で見られるといった以上に龍の帰郷を許さない、もっと絶対的な存在を設定したほうがよかった。その意味で父親を故人としてしまった点が惜しいと思う。厳父が存命ならば、龍はもちろん、父と弟の板挟みとなる雄一にもじゅうぶんな劇的葛藤を持たせることができる。いつの日にかブラッシュアップして、ウェルメイドな佳品として完成させてほしいと思う。
 國吉氏の『アキラ君は老け顔』は、主人公である22歳の大学生の「生きにくさ」を主題にした作品だが、その生きにくさの原因が「異様なほどの老け顔」と設定したことで滑稽味が生まれ、演劇的でもあると感じた。終始受け身とならざるを得ない主人公に対して、小春、荒井、戸部などのキャラクターが魅力的に造形できている。ネカフェの長期滞在客である戸部がアキラの誕生日を寿ぐところは良い場面だが、この場面は母の話によって戸部が実父であると知る前にあるほうが良いと思った。実父と知って会いに行くと「もう戸部はチェックアウトしていなくなっている」くらいにしたほうが、物語に余韻が生まれたのではないかと思う。
 受賞作となった象氏の『畳と巡礼』は、かつては造船業で栄え、今は寂れてしまった瀬戸内の港町を舞台に、27年前に父が失踪したという村上一家の家族の物語。壊れた蛇口から滴り落ちた水がやがて舞台面一杯に溢れてゆくのを登場人物の誰もが気づかない(中国人の技能研修生だけが見えている)という何やら象徴的な仕掛けも含めて、今回の候補作中もっとも重厚かつ難解だった。とはいえ、台詞の一つ一つは土着的なリアリズムをもってたいへんよく書けており、なおかつ歴史的・空間的なスケールの大きさを感じさせる。大詰め、かつて村上家の血族的掟の象徴だった祖母のセツ子が、すべてを謝すようにして自死する場面には言い知れぬ迫力がある。恥ずかしながら完全に理解できたわけではないが、それでも作者の持つ筆力、力量は相当なものであると感じた。
 ハセガワ氏の『少年は銃を抱く』は、第1部から3部まで次々と新しい登場人物が出てくる斬新な形式の群像劇で面白く読んだ。総勢21名の人物を、各自の内的屈託まで感じさせつつリアルに書き分けて見せた技術は大したものだと感じた。登場人物説明の「もこもこしてるカウンセラー」、「ぬるぬるしている。水をよく飲む」といった独特の言語感覚も面白い。いわく付きの拳銃が様々な人の手を転々とする筋書きは古典的な骨法だろうが、この劇では、ストーリーよりもむしろ登場人物間の空気=距離感や温度といったものを精密に描出することのほうに作者の興味と狙いがあったように思われる。そしてそれは成功している。首都圏の高校生周辺で採取された「現代日本人標本」といった趣があると思った。
 南出氏の『ずぶ濡れのハト』は、新しく出店した大型スーパーによって静かに崩壊してゆく北陸の小さな町の老舗スーパーのバックヤードを舞台にした群像劇。おそらく日本のどんな地方にも起きている経済的地殻変動であろうし、普遍性のあるドラマだと感じた。ことさらに悲愴感があるわけでもなく、劇自体は長閑にむしろ淡々と進む。随所にユーモラスで巧い台詞もたくさんある。しかし目の前に迫る危機を承知しながら、為すすべもなく敗れ去ってゆく人々の姿は、ある意味で典型的な日本人(=われわれ自身)の姿でもあり、読後に苦味と痛みを残す。一点、中途半端に店長室の場面を作ったのが惜しいと思う。シャッターを開けると川原に面する搬入口の休憩室というのは素敵な設定だし、この芝居ならばその一場面だけで通したほうが劇としての集中度は増したと思う。
 藤原氏の『夜明けに、月の手触りを』も首都圏の20代女性の標本といった趣を持っている。5人の登場人物の書き分けも巧みである。モノローグの連続で劇を紡いでゆく手法は、観客の想像力を最大限に喚起するという点で利もあるが、同時にダレ場を作れず、ずっと一定の緊張を強いるシャープ過ぎる手法でもある。劇としてのカタルシスを持たせるためには、大詰めで5人の生活や運命が再びある一点で交わるといったような「構成の妙」がもっと必要だと思う。
 今年の最終候補作は、総じて読みやすかった。どの作家も日常的リアリズムの台詞がかなり巧い。年ごとに一次~二次審査員の趣味を反映するところもあるのかも知れないが、全体的に少し潮目が変わってきていると感じた。その中でひと際作品のスケールが大きかった『畳と巡礼』の受賞は順当であったと思う。



渡辺えり

 『畳と巡礼』を面白く読んだ。私が影響を受けた先達たちの芝居のオマージュとも読める作品で、畳を担ぐ男や始終滴り落ちる水音など、混在する異空間の中の点在する人物の意識が強く現出しているように感じた。
 『夜明けに、月の手触りを』。月の手触りという表現が美しい。触れることのできない月の感触を自己の感覚を研ぎ澄ませてまさぐろうというのだろうか? もはや月の光さえも届かない大都会ではないのか? そんな感覚的な台詞が飛び交う。痛いような台詞である。
 6作品とも個性的で、演出された上演作品を観たいと思った。ただ、読んだだけでは作品の意図するテーマが見えにくいと思える作品があった。
 『アキラ君は老け顔』『少年は銃を抱く』『南吉野村の春』、『ずぶ濡れのハト』
 私の読み方が違うのかもしれないと思った作品だった。私が生真面目に読みすぎて、作者の意図を真逆に捉えてしまったのではないかと思えてくる。自分の作品の上演直前と重なり、物凄く大変な思いをした今回の審査だった。そんななか誤読したのでは?と気になる。
 と、この瞬間も消えてしまう。『畳と巡礼』冒頭に、「もっともっと昔の骨は(中略)地面のきっとそこら中にあるんだ。つまりほんとうのところ、いまお前がいるのは骨の上だよ」とあるように。 ──みんな骨の上で生きている。好きな台詞であった。

サイト内検索

日本劇作家協会プログラム

2023年度のプログラム公演

最新情報は座・高円寺のサイトでご確認ください。

▽ 3月27日(水)〜31日(日)
演劇集団Ring-Bong
『シングルファザーになりまして。』
作:山谷典子

▽ 4月17日(水)〜21日(日)
まるは食堂製作委員会
『まるは食堂2024』
作・演出:佃 典彦

▽ 5月15日(水)〜19日(日)
BQMAP
『ジャックはひとり木に登る』
作・演出=奥村直義
音楽=佐藤 太・竹下 亮