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◯ 俳優と戯曲でセッション
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◯ 新人戯曲賞 佳作リーデイング
『わたしのそばの、ゆれる木馬』
作:仁科久美
演出:日澤雄介
出演:
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高畑こと美
西尾友樹(劇団チョコレートケーキ)
山田宏平
山本郁子(文学座)

 

第28回劇作家協会新人戯曲賞

佳作決定!
審査員による選評

 

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会報『ト書き』

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劇作家が知らなければいけない「著作権」の話

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Japan Playwrights Association’s New Playwright’s Award
第28回 劇作家協会新人戯曲賞
[主催] 一般社団法人 日本劇作家協会
[後援] 公益財団法人 一ツ橋綜合財団

第28回劇作家協会新人戯曲賞は該当作なし、佳作を選出

一次審査から最終審査まで、審査員はすべて劇作家。劇作家協会新人戯曲賞は、劇作家が運営し、劇作家が選ぶ戯曲賞です。今年は応募総数182作のうち、37作品が一次審査を通過しました。二次審査を経て選出された最終候補作を対象に、最終審査会を10月25日(火)深夜に開催しました。討議を十分に重ねましたが新人戯曲賞は該当作なし。佳作を選出しました。


選評を公開しました
6名の審査員による選評 (2022年12月10日公開)

12月下旬
・佳作作紹介リーディング・授賞式:YouTubeで12月公開予定



最終審査結果  二次審査結果   一次審査結果   選評(別ページ)   応募要項(別ページ/受付終了) 


  劇作家協会新人戯曲賞
  該当作なし

佳作
 仁科久美『わたしのそばの、ゆれる木馬』



最終審査員
 鹿目由紀 川村 毅 瀬戸山美咲 中屋敷法仁 平田オリザ 渡辺えり

*当初は最終審査員を7名として発表しておりましたが、坂手洋二は辞退いたしました。代わりの審査員を立てる時間的余裕がなく、6名での審査といたしました


最終候補作 (5作品・応募戯曲到着順/2022年9月26日発表)

『犬のペスト』        くるみざわしん (大阪府)
『妄膜/剥離』        川津羊太郎 (熊本県)
『ガンダーラ、愛の国』    田中浩之 (京都府)
『僕らの城』         八木橋努 (東京都)
『わたしのそばの、ゆれる木馬』仁科久美 (広島県)


*くるみざわしん氏から、最終審査を拒否するとのお申し出があり、『犬のペスト』以外の4作を対象に最終審査を行いました。


二次審査員
赤澤ムック 鹿目由紀 黒川陽子 中屋敷法仁 成井 豊 畑澤聖悟 ピンク地底人3号 マキノノゾミ わかぎゑふ 渡辺えり




 一次審査通過作一覧 (37作品・応募戯曲到着順/2022年8月19日発表)

   
作品タイトル
作者氏名
居住地
 本当の語るべき言葉のために  竹下力  東京都
 犬のペスト  くるみざわしん  大阪府
 害悪  升味加耀  神奈川県
 ジョージ・オーウェル -沈黙の声  鈴木アツト  東京都
 おもいだすまでまっていて  山下由  東京都
 ポンペイ  尾崎太郎  東京都
 殻  海路 埼玉県
 妄膜/剥離  川津羊太郎  熊本県
 縷々としてなお
 -F・ヴェーデキント氏との邂逅あるいは僅少の離別
 伊豆野眸  愛媛県
 パルクール  藤原達郎  福岡県
 ながれて  山田淳也  兵庫県
 嫌い  春陽漁介  東京都
 パヘ  はぎわら水雨子  東京都
 蒼ノ空  関戸哲也  愛知県
 ミルキーウェイ  村松みさき  千葉県
 残火  斜田章大  愛知県
 赤頭巾ちゃん  ビト  奈良県
 朝ぼらけ  Azuki  東京都
 SANC・SANC・SANC  下野佑樹  大阪府
 ついながれる  小野毅  兵庫県
 ネットスーパーの女  太田衣緒  東京都
 ガンダーラ、愛の国  田中浩之  京都府
 僕らの城  八木橋努  東京都
 貝の殻  ナガイヒデミ  京都府 
 永く、ゆっくり、もっと遠くへ  恵南牧  広島県
 本当に困りません、って僕が言われてきたとしたら、それは、はかりかねます  山田めい  広島県
 生電波  西田悠哉
 永淵大河
 京都府
 危ういながらあなたと、  野花紅葉  東京都
 漣 -さざなみ  日下渚  大分県
 海と夢と小さな秘密  桒原秀一  東京都
 百万分の一  伊織  東京都
 わたしのそばの、ゆれる木馬      仁科久美  広島県
 今日、明日も私たちは生きています  新田澄海  新潟県
 花として  武内紀子  東京都
 そして惑星は森へかえる  前原豊子  岡山県
 対岸は、火事。  川村智基  奈良県
 この橋で、いつか  野村由美  宮崎県



一次審査員
岡部尚子 小里 清 鹿目由紀 刈馬カオス 工藤千夏 黒川陽子
齋藤雅文 佐藤剛史 角ひろみ 髙橋 恵 髙山さなえ 竹田モモコ
田辺 剛 永山智行 平塚直隆 ピンク地底人3号 福山啓子 南出謙吾





Japan Playwrights Association’s New Playwright’s Award
第28回劇作家協会新人戯曲賞 選評

佳作
仁科久美『わたしのそばの、ゆれる木馬』

[主催] 一般社団法人 日本劇作家協会
[後援] 公益財団法人 一ツ橋綜合財団
[協賛] 小学館、北九州市芸術文化振興財団




<上・審査会の模様>
左上から:中屋敷法仁、川村毅、渡辺えり、関根信一(司会)、
鹿目由紀、瀬戸山美咲、平田オリザ
最終候補作

『犬のペスト』くるみざわしん (大阪府)
『妄膜/剥離』川津羊太郎 (熊本県)
『ガンダーラ、愛の国』田中浩之 (京都府)
『僕らの城』八木橋努 (東京都)
『わたしのそばの、ゆれる木馬』仁科久美 (広島県)

** くるみざわしん氏から、最終審査を拒否するとのお申し出があり、『犬のペスト』以外の4作を対象に最終審査を行いました

最終審査員

 鹿目由紀 川村 毅 瀬戸山美咲 中屋敷法仁 平田オリザ 渡辺えり
 司会:関根信一

最終候補作5作品全文掲載の「優秀新人戯曲集2023」(ブロンズ新社刊/2,300円+税)
 Amazon楽天ブックス紀伊國屋書店WebTSUTAYA、ほか各種書店で取扱あり

*第28回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら


選評

鹿目由紀

 このたび、初めて劇作家協会新人戯曲賞の最終審査を担当いたしました。これまで一次審査、二次審査には関わったことがありましたし、また自分自身もこの賞の審査される側だったことがあります。
 審査すること、されることの重みをそれぞれ受け止めながら、今回の審査に臨みました。
 全体として感じたのは、戯曲には作家の価値観がどんな形であれ表れるものだし、その価値観は、日々さまざまなものから影響をもらいながら、磨かれながら、同時に刷新されていく「時代の捉え方」とのバランスで成り立っていくものなのだろう、ということです。
 今回の候補作には、紋切り型の人物造形が多いと感じました。たとえば作品の芯の部分に、ご自身が本当に描きたいものがあるとしても、ステレオタイプな関係や会話や行動の扱いがまず入ってくると、「なぜ?」「どうして?」という疑問が湧いて芯までたどり着けない、ということが今回の作品たちには幾度かありました。そしてその関係、会話、行動は、男性・女性の捉え方、人間関係の捉え方の浅さから生まれてしまっていると感じられました。もし偏った人間を描くとしても、捉え方を知って描くのと知らないで描くのでは、だいぶ話が変わってくると思います。
 自分も陥ることがあったりするかもしれないと思いましたので、気を引き締めながら読みました。

 『妄膜/剥離』は、他の方からのご指摘にもあったように、岡田利規さんの影響を大きく感じる作品でした。その意味では既存の優れた岡田作品とはっきり比べてしまう形になり残念でした。ですが、言葉の選択の端々に好感を持ちました。本来の視覚→視力を越えた視覚、自分の内面を見つめていく作品になっていて、最終的に小さくまとまってしまったのが勿体なかったですが、眼科に行くとき思わずスーツを着てしまう器の小ささや、物語の小ささが、逆に潔くて、岡田作品の手法を取らずにこの物語を紡いだ場合、もっと面白いものになるように感じました。

 『ガンダーラ、愛の国』は、大麻草を露出過多の女性で擬人化すること、それ自体がまずいというより、それをあくまでその姿形の擬人化としてのみでなく「消費」してしまったように思えたのが気になりました。最終的には大麻草たちに手のひらで踊らされていた、となるのですが、それ以上発展することもなく、ただ使われたという印象でした。また男たちや消防団員たちの女性の見方が意図的なものなら、それが後半の大麻草に操られていた、でひっくり返されるためであるなら、あまり上手く作用していないと感じました。「 “死者が恨んで自分が恨まれている”と思いたいのは生きている人間のほうなのかもな、そう思うことで救われる」という台詞は良くて、印象に残りました。

 『僕らの城』、始まりは面白かったです。出てくる人たちが皆ちょっとずつ嫌なヤツで、お、ここからどうぶつかっていくのだろうと興味を持ちました。けれどかなり早い段階で、ほとんどが紋切り型の関係になってしまったのが残念でした。イヤミスのような嫌な部分を抱えた者たちの集まりかと思えば、割合ストレートに言葉の拳で殴り合う感じになり、ひねりが無くなったというか、人物造形が浅くなってしまった気がしました。また、三段分割形式の台本が活かされていると思えませんでした。あの形式だともっともっと複雑に絡み合っていくのを期待しましたが、一段でも十分理解できる流れだったかと思います。坂本が関西弁になり調子に乗ってくる感じなどは変化があり面白かったのですが、活かしきれず終わってしまったな、という印象でした。

 『わたしのそばの、ゆれる木馬』は、女性の【揺れる】生き様や実際の身体の変遷を「木馬」で具現化したのが面白かったです。ばあやというよりは木馬に惹かれました。各時代の流行を表しながら進むのも悪くなかったですし、丁寧にひとつひとつ描いている印象を受けました。ただし、そこからもうひとつ発展して欲しかったです。花子と幸子は対象的に描かれていましたが、そこからもう一歩進んで、幸子がもっと現代と繋がる人間に変化していっても良かったように思いました。というのも、登場人物の在り方が全体的に刷新されていかない印象だったからです。特に男性の登場人物に関して似たような立ち位置になってしまっていました。時代が進んでいく昭和平成史のようなところのある話なので、余計に旧時代的ステレオタイプな人物たちが関わることで終わってしまっているのが勿体ない気がしました。また、周りの変化があったほうが花子の死についても対比が感じられて、良かったのではないかと思います。時を経ても、変化するところとしないところが存在するということが如実に分かったほうが、それでもやっぱり死んでしまったという事実を受け止められそうな気がしました。けれど全体的に丁寧に紡いでいることに好感を持ちました。それで総合的な評価として、この作品を最も推しました。



川村 毅
 
 冗談でも皮肉でもなく、審査を引き受けると、今回はどのような新しい世界、文体、いかような不思議な、あるいは奇天烈な世界、文体を発見できるだろうかとわくわくする。「あったあった」とうれしい時もあり、最後の候補作のページを閉じてがっかりする回もある。

 『妄膜/剥離』は、いくらなんでも岡田利規氏の影響が強すぎやしないか。まず語りのテイスト、文体がデビュー時の岡田節である。さらに読み進めると、語り手の主体の意図的逸脱、混乱があり、これもまた岡田得意の岡田調ではあるまいか。次に幽霊まで登場するが、幽霊は最近の岡田キーワードではないだろうか。
 先行世代の影響が認められるから、良くないと一刀両断にする気はさらさらないが、この作品の露骨な影響の発露は戦略がなさすぎで、単なる模倣としてしか読めない。
 戦略とは、先行世代のやり口を利用して、最終的にはちゃっかり自家薬籠中の物としてしまう、狡猾さに満ちたリスペクトの方法だ。無論、これは一例に過ぎない。
 この戯曲には、岡田節特有の、読み切った後にじわじわ立ち現れる独自の形而上学の影も形もない。岡田節形而上学までを模倣せよと言っているのではない、岡田調をここまで恥ずかしげもなく披露しながら、まるでこの作家本人の世界観の影が薄く、後半、完璧な男性目線によるセックス描写の印象ばかりが強く刻まれ、この戯曲の肝は、そこにあると読んだ自分は、気取った知的ぶったタイトルとは裏腹に、要するに性的欲求不満の一男性のポートレイトに過ぎないのではないかとまで思い至らざるを得なかった。その肖像の彼が面白い人間であるのならば文句はないが、この彼はあまりに幼稚だ。

 『ガンダーラ、愛の国』はまず長すぎる。コメディを志向していると思われるが、台詞に笑いのリズムがなく、しかもやたら長い説明台詞があるので、テンポが出ない。演出された舞台を見れば、笑える方には笑えるのだろうが、このダラダラと長い変形コメディに、80年代小劇場の周辺で見たという既視感が生まれる。うんざりするような長い時間、小屋に座っていたという記憶が蘇る。しかもけっこう周りはへらへら笑っているのだが、自分はくすりとも笑えない。おかしくないからだ。
 最終的にこの戯曲には何も書かれていない。そう言えば、何も書かれていないことを書くのもまた、80年代には多く見られたと記憶する。

 『僕らの城』の舞台の老舗居酒屋のモデルとなっている実在の店舗は明白である。あたかも作者はそこでアルバイトでもしていたのではないかと思わせるリアルさを基礎にした筆致から、もらった戯曲の表紙に書かれた、タイトルの上の“俺は見た 第五回”という表題に、なるほどバイトの実体験をもとに、作者はこうした現実体験を「俺は見た」シリーズとして五回まで書いたのであろうと合点していたら、審査会で“ 俺は見た”は劇団の名前だと指摘された。
 それにしても、見てきたような筆致で、モデルとした居酒屋への悪意がどこか感じ取れる。登場人物への愛がまるでないからだ。誰もかれも見事なまでに類型である。しかも、店舗は最後に中国人オーナーの手に渡り、取り壊される未来が示唆される。
 これを読んだ店舗の関係者、特に従業員、そして店を愛する常連客がいかに困惑するか、作者は考慮に入れていたのだろうか。それとも確信犯なのか。
 なぜ三段組で書かなければならないのかという、その必然性を問う気力も失せてくる。
 ここには、新宿界隈で働いている演劇人、映画人なんてもんは、こんなもんだろうといった、悪意の類型でいっぱいだからだ。

 『わたしのそばの、ゆれる木馬』は、面白いと思いつつ読み進んだ。現在50代半ばの女性を主人公にした戯曲をあまり目にしたことがない。単純に、その世代のたまりにたまった鬱憤が発散されていて、しかもその発散は、ある種現代史と並行する書き方という作為の意識によって独りよがりを免れている。この書き進め方は決して新しいものではなく、いうなれば使い古しの方法なのだが、あまり書かれていない世代を登場人物にしたために有効となっており、時代をいっちょう俯瞰してやろうじゃないのという、最近の新人では滅多に見られなくなった大風呂敷の志がいい。
 しかし、最後に主人公を死なせてしまうというのは、どうしたものだろう。審査会で指摘すると、これが現実なのですという趣旨で反論されたが、現実に寄り添えばいいというものでもない。今や、どんな現代人を書こうとも現実に寄り添えば悲惨になる。それが現在の類型というものだ。
 このラストは作者が汗をかいていない。もっと想像力を駆使した終わらせ方をしていただきたい。
 そういうわけで、全面的に『わたしのそばの、ゆれる木馬』を推したわけではない。受賞作として推すまでには至らない。しかし、四作品のなかにおいては、一番、「書きたいこと」と文体と方法が素直に合致しているところが、いいと思った。受賞作ではなく、佳作とするという案に賛同した。


瀬戸山美咲
 
 今回の最終候補作品はジェンダー描写において疑問の残るものが多かった。社会を覆う価値観と自分自身の価値観をもっと疑ったほうがよい。そして、創作物が世の中に及ぼす影響力について意識的であってほしいと感じた。

 『妄膜/剥離』はモノローグ主体の作品だ。まず、その語り口が既存の作家のものと似過ぎていると思った。その作家の作品を観たことがある人なら、おそらく誰でも気がつくレベルだ。影響を受けるのはよいと思うが、同じようなモノローグ主体の作品を書くならば、自分の文体を見つける必要がある。内容的には、性欲を抑えられない男と、人を救いたいがゆえに男とセックスする女が歪んだ形で依存し合う物語で、およそ社会では理解されないふたりの関係自体は興味深かった。ある意味、ふたりとも等しく不快な存在であり、ぎりぎり均衡は取れていた。しかし、終盤、男にレイプされた女が故郷に戻る描写以降、女のエピソードが登場しなくなってしまう。女は結局、物語上の装置で、しかも加害されて終わってしまうことに落胆した。故郷に戻ったあとの彼女のことまで想像してほしかった。

 『ガンダーラ、愛の国』は、男2が幽霊であり、最終的にはその死の真相がわかってくるという構成は面白かった。消防団たちのサブストーリーも先を読ませる力があった。ただ、女4人が担う「風俗嬢」「大麻草」の役が集合体としての描写に留まり、生身の人間が演じるには演じどころがないと感じた。このようなアンサンブル的な役も必要な場合はある。ただ、それが一方のジェンダーだけに偏ると、ジェンダー規範の強化になる恐れがある。また、男に囚われていた大麻草が受粉して(妊娠して)自由になるという描写も、ほかに女性が自由を獲得する方法はないのかという疑問が生じた。

 『僕らの城』は洋風居酒屋の経営者交代をめぐる話で、世代間の意識の違いや世代交代の難しさなど、現実を反映したものとして読めた。ただ、全体的に露悪的なだけで、それらの現実に対する批評性は感じられなかった。また、女性の描き方については、この作品がもっとも問題があった。途中で出てくる若者の集団を除くと、女性と思われる役は17人中3人のみ。そのうち2人は性的な関係を結んで男性に取り込まれていく役だ。残りのひとりは他の役に比べて職業などの描写がない。この3人の役名の表記がすべて下の名前であることも気になった。(男性は苗字の人、下の名前の人、フルネームの人などがいる)。以上から、無自覚な差別意識(差別はほとんど無自覚だが)を強く感じた。

 『わたしのそばの、ゆれる木馬』は、1960年代後半に日本で生まれたある女性の一生を描きながら、女性が求められてきた社会規範などを浮き彫りにする作品だった。この作品も男性の描き方が類型的ではという意見もあった。しかし、それを持ってあまりある魅力がこの作品にはあった。この作品に出てくる「木馬に乗ったばあや」は女性ホルモンのエストロゲンである。はっきりと言及されていないので、最初は月経そのものかと思って読んでいたが、このばあやと主人公の距離はまさにホルモンと女性の距離であった。自分の体の一部でありながら、自分ではコントロールできない、味方にも敵にもなる存在。それを人間の姿で描き、可視化させるのは画期的だと思った。
 また、この作品の魅力はこの50年強の日本の社会風俗を描いていることだと思う。「ノーパンしゃぶしゃぶ」など久しぶりに字面を見たが、そんなものが存在していて、ワイドショーに興味本位で取り上げられていた異常な世界で自分が育ったことを再認識した。作中に多く出てくる歌謡曲の歌詞からも女性たちが社会に何を求められてきたのかを汲み取ることができた。そういう表象を飲み込みながら、はねのけながら女性たちは生きてきたのだ。最後に彼女が命を落とすことについては、審査員の中でも意見が割れた。私は、彼女が死ぬという描写が痛烈な社会批判になっていると感じた。今も変わらない現実への異議申し立てだ。というわけで、『わたしのそばの、ゆれる木馬』を推した。ばあやの描き方や、男性の描き方などまだ改善できる点があるのでは、という他の審査員からの意見も踏まえ、佳作受賞がふさわしいと判断した。

 今回は残念ながら作品の内容以前の、倫理的な部分で問題を抱えた作品が多かった。なぜ、そのような作品が最終候補に残ったのかということを改めて検証し、改善していきたい。私たち劇作家は現実に刺激を受け、作品を書く。しかし、書いた作品が現実にある差別を再生産してはいけない。フィクションを書くことの責任について、私自身ももっと慎重に考えていきたい。


中屋敷法仁
 
 選考において最も重視したのは、俳優と観客、つまりは劇場空間へのたくらみです。さまざまに変化していく時代の中で、演劇の形式や俳優の身体もまた変化しています。それらの動きを敏感に察知し、次の時代へ向けた鋭い考察や、新たな挑戦が見られる作品を期待しました。最終選考で出会った戯曲からは、残念ながら、そのような息吹を感じることはできませんでした。いずれの作品も、戯曲上の文字や物語への興味に終始し、劇場空間に対する意識が弱い印象を受けました。戯曲に書かれた言葉が、生きている人間を集め、演劇となるための本質的な核が見つかりません。俳優として演じたい。観客として劇場で観たい。演出家としてこの戯曲を手がけたい。そんな欲求を阻害する要素が多すぎました。

 『妄膜/剥離』は、好意的に読めば、劇中人物の感覚が軽妙なモノローグによりじわじわと観客に伝播していくスリリングさがあります。後半部分の性暴力に関わる描写に劇作家の覚悟を感じます。声に出して読んだ時、音として聞いた時、この部分が最も劇場空間で緊張を与えると予感します。それ故に、それまでの言葉、医療用語、ボクシング、労働などに関する台詞が淡白で、冗長に思えました。となると、この戯曲は男と女というありきたりな対比に帰結してしまいます。個人の感覚から飛躍する要素が欲しかったです。

 『ガンダーラ、愛の国』は、好意的に読めば、性差別的な描写をあえて繰り返すことにより、愛や宗教への疑問を観客に突きつける衝撃作です。しかし、マリファナや幻覚という非現実的なモチーフを盾に、主題から逃げているように思えてなりません。作品がトリップするのではなく、観客をトリップさせるべきです(もちろん、ドラッグやアルコールではなく、演劇のマジックによって)。独創的なト書きや独白が多い反面、会話の妙味がほとんどないのも気になりました。それぞれの人物の背景やそこに存在する理由が定義できていないからだと思います。

 『僕らの城』は、好意的に読めば、人物を表層的に描くことで、新宿という街の中に流れる孤独やディスコミュニケーションを表現しているのでしょう。ただ、人物描写があまりにも軽薄です。登場人物をこのように「見せたい」という作為ありきで書いているためか、人物同士の対話による緊迫感がいつまでも生まれません。また舞台の構造を三場面の同時進行という形式にしていますが、効果的とは思えませんでした。

 『わたしのそばの、ゆれる木馬』は、好意的に読めば、日本で生まれ育った女性たちに巻き起こるさまざまなライフイベントを余すところなく網羅している大作です。「日本花子」という主人公の名前に野心を感じました。ただ、さまざま事象を描く中で、女性だけでなく、男性もステレオタイプな存在となり、結果としてはよくある話の羅列になってしまっています。主人公のそばに存在し続ける「ばあや」のみが特異性を放っていますが、木馬に乗るおばあさんというキャラクターや隠喩が、戯曲全体で扱われている諸問題を引き受けられるほど万能とは思えませんでした。ファンタジーのような登場人物の要素を利用し、現実の問題が肉感的に迫る瞬間が欲しかったです。

 どの作品も、俳優、観客、劇場といった演劇的行為に関わる肝心の部分が描かれていないように思いました。物語や台詞の形にこだわるあまり、演劇の形式や演技プラン、そして何より、観客という一人一人の人間への興味が薄く感じます。それは、稽古を進め、劇場で上演する中で、解決していくこともできるでしょう。しかし、優れた戯曲は戯曲内でその解決法を示し、読み手、作り手の想像力を自由に羽ばたかせてくれます。今回出会った戯曲は、書き手の意図が色濃く出るあまり、劇場空間でどのように立ち上げるべきか、戸惑うものばかりでした。



平田オリザ
 
 劇作家協会新人戯曲賞は、劇作家による劇作家のための劇作家の賞という主旨から「該当作なし」は出さないという不文律があった。今回、初めてその禁が破られたことは審査員一同にとってもきわめて厳しい決断だった。
 全体の印象としては、Wikipedia をそのまま貼り付けたような作品が多いように感じた。これは今回に限ったことではなく、最近の様々な戯曲賞の審査や、若い劇作家たちの作品を読むたびに感じる印象でもある。資料収集は大事なことで、インターネットの発達によってそれが飛躍的に便利になったことは素直に喜ばしいことだと思う。私はその便利さを否定しないけれども、落とし穴も大きい。
 本来、戯曲を書く際にどれくらい取材するか、資料を集めるかは諸刃の剣で、資料に振り回されすぎると身体性が欠如したせりふになる。ネットの急速な発達によって、いまそのバランスが、各自まだとれていない状態にあるのかもしれない。

 八木橋さんの『僕らの城』は構成がしっかりしており、読み応えのある戯曲だった。一つの組織が壊れていくときの殺伐とした人間関係や薄気味悪い雰囲気の描写も強く目を引いた。
 ただ残念なことに、主要な役割である麗奈の描き方に代表されるように、一人ひとりの人物造型がステレオタイプなことは否めない。曖昧であったり、揺れ動いたり、戸惑ったりする人物が少なく、演劇ならではの醍醐味に欠ける。筆力のある方なので次回以降にも期待したい。

 川津羊太郎さんの『妄膜/剥離』も力強い作品だった。しかしながら、主体-客体が微妙にずれていく特徴的な長せりふが、あまり効果を生み出していない。登場人物が二人だけなので、結局、主体-客体が入れ替わるだけで、この手法の魅力を生かすまでにはいたっていないように感じた。

 田中浩之さんの『ガンダーラ、愛の国』は、要所要所に入る蘊蓄が、逆に全体の勢いをそいでしまっている。蘊蓄が悪いというわけではなく、登場人物一人ひとりの持っている(想定されている)知的レベルと発言が大きく乖離し、その乖離が物語全体に有効に働いているわけでもない。そのために身体性の薄いせりふが物語を中断してしまう感覚が強い。後半、短いせりふの応酬の部分はとても魅力的なので、もったいない印象が強く残った。蘊蓄に逃げずに、粘り強く、言葉をつむいでほしかった。

  仁科久美さんの『わたしのそばの、ゆれる木馬』は、戯曲としては多くの欠点があるが、全審査員にとって候補作の中ではもっとも好感の持てる書きぶりが評価された。
  高度経済成長期に生まれた日本の典型的な一女性の生涯を女性ホルモン「エストロゲン」の分泌を縦軸にして描く。しかしそれは、過不足なくというよりも、あまりに均等に描かれるために深みを欠いている点は否めない。
  時間に制限のある戯曲という表現は、何を書くかと同時に何を書かないかがきわめて重要だ。その取捨選択こそが執筆の要諦とさえ言える。場面の想像しやすい魅力的な筆致と、構成の稚拙さのアンバランスは読み手を不安にさせる。経験を積めば、すぐに解決される部分も多く感じるので、ぜひ創作を続けていただきたい。


渡辺えり
 
 今まで40年近く戯曲賞の審査をやってきて今回ほど残念なことはない。
 最終候補に残っていたくるみざわさんが直前に審査を拒否なさったこと。そして応募した劇作家たちによって審査員の一人に選ばれたはずの坂手洋二さんがこれまた直前に選考を辞退したこと。
 そして、これが一番残念なのだが、私が二次審査で11本の戯曲を読み、一番面白いと思った山田めいさんの『本当に困りません、って僕が言われてきたとしたら、それは、はかりかねます』という作品が最終候補作に残っていなかったことである。私はこの作品を他の選考員がどう評価して考えをのべてくれるのかとても楽しみにしていた。自分で伝える言葉も考えていた。最終候補作として送られてきた作品には私が二次で読んだ作品は一編しかなく、二次で面白いと思った作品は一本も残っていなかった。
 あんなに真剣に大量に読んだのに、こんなにがっかりしたことは近年には稀であると言ってよいほど落胆した。

 まず今の戦争中の世の中に対して劇作家として何か伝えたいと願う心の状態を感じた作品は、最終候補の中ではくるみざわさんの作品だけであった。劇作家は昔から世界の状況の中で異変を察知するカナリヤ的存在であったはずである。それが生の芸術の緊張感と面白さでもあるはずである。ある権威に対しての反逆でもあるべきものだとも思う。その今の記録と創作が重なり合って普遍的な作品として残っていくものと考えていた。根底に社会に対する問題意識のない作品は戯曲とは言えないのではないか?
 少数の者が観る、感じる演劇と万人の観るテレビドラマでの問題意識と手法の違いはここにあると思って今まで生きて来た。それが今回で覆されてしまったようで、多大なショックを受けたのである。
 時代や年代が違うからといった問題ではない気がしている。
 『本当に困りません、って僕が言われてきたとしたら、それは、はかりかねます』という作品は、発達障害を持った登場人物たちがかみ合わない会話をしているうちに、自分たちが規制された社会の中で個性をむしり取られながら一生を終えていくといった理不尽さと矛盾さを感じていくミステリーとも言える風刺の効いた作品だった。映画『シャイニング』を思わせる空回りした社会の狂気が浮き彫りなっていた。障害者の立場から書くその視線が新しいと感じた作品だった。

 くるみざわさんは選考を拒絶なさったのでここで取り上げるのは良くないと、司会の方や他の審査員の方にも注意されたが、私はそうは思わない。拒絶する自由があるのと同時に、私にも選考する自由がある。劇作家協会新人戯曲賞の審査員は作品を応募してきた劇作家たちの投票によってきめられている。私にも選ばれたという責任がある。選考は忙しい中時間をかけて読み、同業者を評価しなければならないという死ぬ気の作業である。演劇が好きで、新しい作品を生み出そうとしている新人たちを心の底から応援したい、演劇の未来を支えたいと望む者にしかできない作業である。一度応募してきた作品を間際に審査拒否と言われても、こちらも読んだ以上、心に思うものが生まれ、意見が生まれる。それを言うなという方がひとつの圧力ではないのか? こういうことが自由な言論表現の場であるはずの劇作家協会で起こってしまうということの方に、私は大いなるショックを覚える。
 この場の正義とはなんなのだろう? 何が正義なのだろう?
 ウクライナ、ミャンマー、パレスチナと問題の絶えない現代社会の中で、こんな不自由で規制の強いコロナ禍の状態での不自由。不寛容。
 演劇はもっと面白いものではなかったのか?
 
 『ガンダーラ、愛の国』。シュールな展開をしたい場合に、大麻や覚せい剤といった幻覚を起こしてしまう麻薬に頼った展開は安易すぎる。今まで劇作家たちは避けて通ってきたストーリー展開である。麻薬を使えば何でもありになってしまうからである。いくら笑える台詞を書いたとしても最初から幻覚であるという言い訳が入っていると白けてしまう。そして、女性の役も全員男性が演じるという「お笑い」的な演出なのかもしれないが、女性の役があまりに人間味がなく性的対象としてしか描がかれていないのがなんとも残念である。

 『妄膜/剥離』は手法が現存する何人かの劇作家に似すぎている感があり、オリジナルな構成を考えたほうが良いと感じた。最初から全体を説明する要素の濃い情報が持ち出されるので、役者の会話や存在が逆に薄くなる印象を受けてしまった。

 『僕らの城』は、この作家が演劇を志そうとする根本の視点を知りたいと思った。ご自分がどこにいてどの視点から書こうとしているのか? あまりにステレオタイプのかつて誰かが体験したことの表面的なことを書いている気がしてしまう。もっと自分のことを書いて良いのではないだろうか? そして女性の役の存在をもっと生きた人間として表現していただきたいと思った。

 『わたしのそばの、ゆれる木馬』は女性の今も続く悲痛な問題に取り組むという応援したい内容だが、男性の役に面白みがなく存在感が弱い。全体的にもっと個性的でオリジナリティーのある面白い表現があっても良いのではないか?と思う。命を切り刻むような登場人物を描く場合、作家自身の命も切り刻むような追求が必要なのかもしれない。

 ここまで書いてきて、今回の最終選考作品を論じる時にこんなにむきになって真剣に、せっかく書いて応募してくれた劇作家たちを傷付け、嫌な思いをさせてしまうような選評を書いて良いのか?とどんどん落ち込んでしまった。
 こういう時代だからこそ生の演劇は重要だと身をもって感じるし、劇作家の仕事の大切さを思う。とにかく皆様お疲れさまでした。 




 
 
 

Japan Playwrights Association’s New Playwright’s Award
第27回劇作家協会新人戯曲賞 選考経過と選評

受賞作
髙山さなえ『あなたがわたしを忘れた頃に』

[主催] 一般社団法人 日本劇作家協会
[後援] 公益財団法人 一ツ橋綜合財団
[協賛] (株)ジャストシステム、小学館、北九州市芸術文化振興財団

選考経過   選評  賞の概要(別ページ)  第27回応募募要項(別ページ/受付終了)



<上・審査会の模様>
左上から:関根信一(司会) 川村 毅、渡辺えり、佃典彦
赤澤ムック、坂手洋二、瀬戸山美咲、横山拓也

 
<会長・渡辺えりの挨拶/受賞者・髙山さなえ>




<上・最終候補作の作者>
上段中:鈴木アツト、上段右:ナガイヒデミ
下段左から:深谷晃成、近藤輝一
最終候補作
『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』 鈴木アツト (東京都)
『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』 深谷晃成 (東京都)
『天と地のまなか』 上岡久美子 (広島県)
『あなたがわたしを忘れた頃に』 髙山さなえ (長野県)
『荒野 Heath』 ナガイヒデミ (京都府)
『ナイト・クラブ』 近藤輝一 (大阪府)

** 上岡久美子氏は、『天と地のまなか』公演千秋楽当日だったため授賞式への参加が叶わず、上掲載の写真に入っていません。

最終審査員

 赤澤ムック 川村 毅 坂手洋二 瀬戸山美咲 佃 典彦 横山拓也 渡辺えり
 司会:関根信一

最終候補作全文掲載の「優秀新人戯曲集2022
 Amazon楽天ブックス紀伊國屋書店WebTSUTAYA、ほか各種書店で取扱あり

*第27回劇作家協会新人戯曲賞の総合情報はこちら

選考経過   関根信一

 座・高円寺2の舞台上に審査員が集まっての無観客開催となった。まず一作品について二名の審査員がコメントした。

 『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』。川村氏「ていねいに描かれているが、想像によって描かれた部分が弱い。もう一つ仕掛けがあってもよかった。」渡辺氏は「志の高い作品として心にひびいたが、一人の人物に絞り込んだ方がよかった。」
 『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』について。佃氏は「今の若い人の距離感がよく描かれている。」赤澤氏は「せりふがうまい。唯一人間ではない海獣の描き方がよかった。」
 『天と地のまなか』について。坂手氏は「最適な形式だったか疑問。原民喜を描いた意義は大きい。」瀬戸山氏「心に届くものがあった。原民喜の文章以上のものがもっとあってほしかった。」
 『あなたがわたしを忘れた頃に』について。横山氏は「おもしろい感覚が満載。オムニバスの構成として前の場面を超えていく勢いがもっとあるといい。」川村氏は「ジェンダーについて描こうとしたのか、スラップスティックをねらっているのか。楽しく読めたが、笑いがあざとく感じられた。」
 『荒野 Heath』について。渡辺氏は「認知症の問題を『リア王』とからめてよく描いているが、リアのせりふを引用したことできびしく読まざるをえなくなった。」佃氏は「父親のどうしようもなさに圧倒された。」
 『ナイト・クラブ』について。赤澤氏は「登場人物それぞれの物語を一つずつ見たいと思った。アフターコロナの演劇として提示しているようにも感じられた。」

引き続き1作品ずつのフリートークとなった。

 『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』。渡辺氏は「ケストナーの言葉か作者の言葉かが知りたい。」瀬戸山は「タイトルのわりに、ケストナーが描かれていないのではないか。」
 『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』。川村氏「タイトルの期待感が大きかったが、けっこうナイーブだった。イヤなヤツの物語としてつきつめてほしかった。」
 『天と地のまなか』。横山氏「民喜のノートを朗読者が読み上げていくシーン。都合のいい展開になっていないだろうか。」
 『あなたがわたしを忘れた頃に』。渡辺氏「すごくおもしろく読んだ。」瀬戸山氏「母性というものにしばられていると感じた。それも乗り越えてほしかった。」
 『荒野 Heath』。川村氏「介護される側の心理が『リア王』と『山月記』になってしまっているのが弱い。」横山氏「現代のこわさがうまく書かれている。引用のしかたに問題があるが胸にせまる」
 『ナイト・クラブ』。渡辺氏「なつかしい雰囲気の芝居。」川村氏「80年代小劇場を思い出した。」

 意見が出そろったところで、1回目の投票を行った。
 『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』川村氏、坂手氏の2票。『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』佃氏の1票。『天と地のまなか』投票者なし。『あなたがわたしを忘れた頃に』川村氏、渡辺氏、赤澤氏、坂手氏の4票。『荒野 Heath』佃氏、赤澤氏、瀬戸山氏、横山氏の4票。『ナイト・クラブ』渡辺氏、瀬戸山氏、横山氏の3票となった。

 休憩後、上位3作にしぼりこんで審査を再開した。
 『ナイト・クラブ』について。横山氏「導入してすぐ世界に引き込む力がある。」
 『あなたがわたしを忘れた頃に』について、佃氏の「一人称の小説とどう違うのか? 誰に向かう言葉か?」という問いに対して、坂手氏「戯曲だと思う。語る必然性を感じる。」渡辺氏「客席の遠くにいる神のようなものに向かっている。」
 『荒野 Heath』について。赤澤氏は「執念をかんじるが、『リア王』と『山月記』にいったのは惜しい。」と評した。

 『あなたがわたしを忘れた頃に』『荒野 Heath』『ナイト・クラブ』の3作にしぼって2回目の投票を行った。結果は、『あなたがわたしを忘れた頃に』川村氏、渡辺氏、佃氏、赤澤氏、坂手氏の5票。『荒野 Heath』横山氏の1票。『ナイト・クラブ』瀬戸山氏の1票となり、髙山さなえ氏の『あなたがわたしを忘れた頃に』を受賞作とするということに決定した。
 評伝劇とオムニバスがそれぞれ二作ということで、引用のしかたについて、作者のオリジナリティについて、作品の構成上の問題についての議論が多く交わされた審査会だった。


<投票結果> 赤丸が1回目、青丸が2回目

投票の挙手



選評

赤澤ムック

 戯曲には、その時の、その作家にしか書けないものが宿ることがある。今回の最終候補作にもその輝きが見られた。がしかし作家がそれを自覚し、掘り下げ尽くしたものはなかったように思う。

『エーリヒ・ケストナー ~消された名前〜』
 誠実に紡がれた物語への興味が途切れることはないが、語りだけで説明される描かれていない場面にこそ興味がわいた。それは怒涛の変化を続けざるをえない登場人物たちの変化の瞬間だ。特に、3年間なにも書けなかったケストナーが筆をとり夢中で書いてしまったその瞬間、私はそれが見たいと思う。レニを筆頭に周囲の人物たちは強烈なドラマを備えている。それが(同じく強烈なドラマを持つはずの)ケストナーを霞ませる理由となってしまうのは勿体ない。彼のラストの台詞が彼そのものを現すのならば、なおさらに。

『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』
 店の中で集まった(にも関わらず浮き彫りになる)面々の無力感、虚しさ。なかでもイルカの置かれた孤独にぐっときた。この作者ならば、他の登場人物にももっと背景を想像させる力を与えられるように思う。時に露悪的に時に淡々と、様々な差別や偏見が存在し、寛容であり無自覚な日本人を浮き彫りにさせているが、これらの差別への作家の理解は果たして同等なのか。深度の差があるように感じ引っかかる。

『天と地のまなか』
 原民喜を読んだのは中学生の頃だったか。改めて、彼の筆の力を思い知る。(青空文庫にもあるので興味がわいた方は是非読んでみてほしい)彼の作品を広く知らしめるための舞台戯曲として完成されているのだが、これを劇作家の作品とするにはより強いアイディアが必要に思う。

『荒野 Heath』
 読後しばらく他の作品を拒絶する鈍痛にみまわれた。リア王のごとき「父」は戯曲の中で肉体を持ち、娘二人にゴネリルとリーガンを重ねることで、かえって彼女たちの困難に説得力をもたせるのは巧い。リア王としてどう終わらせるのか期待したからこそ、ラストが腑に落ちない。なぜ『山月記』なのか。あるいは三つ以上の重なりならば気にならなかったかもしれない。

『ナイト・クラブ』
 ショートドラマはそれぞれが美しい。それぞれ素敵な作品だった。では数字名の俳優が行きつく先はどこだったのか。タイトルさえも回収する大オチがあるのではと期待したからこそ、あっさりと無言で提示される現実(虚構)が歯がゆい。

 と、今回の最終候補作はどれも読みながら期待が膨らむもの揃いだった。そして、その期待が(私個人の勝手なものではあるが)かえって読後の胸にひっかかる要因となった。受賞作には、それがなかったものを推させてもらった。

『あなたがわたしを忘れた頃に』
 この作品は、軽やかに架空の世界へと私を誘ってくれた。書き手のセンスだけではなく、描かれていないところまで丁寧に設計し、世界を構築したのだろう。疑わず没入できる安心感がある。「出産後のへその穴は宇宙とつながっている」というワンアイディアだけでもわくわくする。自分が演出するならラストにこの三名が誰の視点でもなく、観客という第四の視点で眺められる時間を束の間設けたいななどと考えたりもした。地に足のついた厳しさと優しさがうまく混ざっている、心地のよい作品だった。


川村 毅 ── 審査会を終えて
 
 公開審査会では語り切れなかったこと、補足説明などを書くのがこの選評の役割だと考える。話したことを繰り返すなら審査を公開している意味がない。
 今回、6作品を読み終えての正直な思いは、「受賞作なし」だった。しかし一出版社の賞ならともかくも、これは協会という言わば互助会的性格を持つ組織が設けるものなので、そうはいかない。故に今回は審査会で他の委員の様々な意見を聞いて決めようと覚悟した。

 一回目の投票で『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』と『あなたがわたしを忘れた頃に』を推した。審査会の筋道に乗っての消極的な推しである。
 『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』は真摯な志を持った作品であることは理解するが、演劇であること・演劇を成すことへの意識が薄く、その薄さがそのまま対象への肉薄度の弱さを露呈させている。有体に言えば戯曲として芸がなさすぎる。薄手の評伝エッセイを読まされている気分だ。
 高い志は、いい意味での手練手管を覚えないと、生真面目さばかりが上滑りする。

 『あなたがわたしを忘れた頃に』は6作品のなかで一番筆力があると思った。文体を獲得しているということだ。だから受賞作とするのに異存はないものの、積極的に推す理由を私は持たない。その詳細は審査会で語ったので、ここで繰り返したくはない。

 他の作品に対しても、公開で多くの批判を並べ立てたので、それをここで繰り返せば、作者たちはそれを今一度文章で読む羽目に陥らされるわけで気分が良くないだろう。審査員といってもたかだか一人間でしかないのであり、たかだかひとりの人間の言うことであるのだから、どうか安易な反省などせずに(しないか)、他人の批判などとっとと忘れて新作に取り掛かっていただきたい。
 と言いつつも、すでに『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』の批判を書いている。気になるのだろう。作者には、ここは批判されたからといって審査員に恨みを抱いたりせず、自身の先を見て邁進していただきたい。批判は期待の裏返しでもあるのだから。
 それにつけても、賞というのは、まことに時の運に左右されるもので、今回の受賞作が、力を感じさせるものが軒並み揃った去年の作品群のなかにあったとしたならば、などと意地の悪い想像をするのは、この際やめておこう。
 今年はこれぐらいしか書くことがない。


坂手洋二 ── 候補作との出会いに感謝します
 
 鈴木アツトさんの『エーリヒ・ケストナー〜消された名前〜』については、評伝劇ゆえの困難さとの格闘は避けられず、あれこれ言い出せば、きりがない。しかし、とにかく自分の興味に基づいてのびのび書いてみたいというこの「肯定性」の姿勢には、賛成である。どんなにネガティヴな世界を描いた作品でも、そうすることは可能だ。そして、全ての登場人物を作者が愛している様子だ。これは、井上ひさしさんもそうだが、その方向での作品づくりを選択した場合に備わる「仁義」のようなもの、がある。作者はその方法論を、自分流で発見しつつある。翻訳調のせりふも馴染んでいる。これから大きく踏み出す何かを、手に入れはじめているのだと思う。かつてこの賞の最終候補になった彼の『グローバル・ベイビー・ファクトリー』が厳しく批評されたのはもうずいぶん前だが、彼はそのことも糧にして、真っ直ぐに、おおらかに、駒を進めてきた。そして、本人も自覚しているはずだが、次作に向けて必要なのは、オリジナリティの強度だと思う。

 深谷晃成さんの『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』については、いろいろと引っかかってしまう部分が多いが、それが「わざと」なのだということは、もちろんわかっている。エピソードや設定をステレオタイプに描いていることも、一人一人の人物が、割と似通った感じになっていることも確信犯だろう。残念なのは、「冗談」や「〜な感じの言葉」を戯曲で明確に示さず、現場任せにしていいのか、ということである。細かな「具体」を描くことを厭わず、その過程で発見できるものがあるということを、信じてもいいのではないかと思う。……イルカを想起させる登場人物が出てくるが、イルカ・クジラについては、クジラ関連戯曲を数多く書いてきた私はついつい点が辛くなるのだが、「疑似人間」という設定なら、もう少し丁寧に設定されていた方がいい。そちらもその過程で手に入れられる「具体」があると思うからだ。名前の付け方も含めて、面白みもあるけれど、直観的というほどには突き抜けていないので雑な感じがしてしまい、残念である。ゲーム的であることが、もっと大きなビジョンを示すためのバネになってほしいと思う。

 上岡久美子さんの『天と地のまなか』は、時系列の組み方を恣意的に操作しすぎていて、観客はなかなか素直についていけないだろうし、演じる方だってたいへんだと思う。作劇じたいが、原民喜原本の引用に太刀打ちできていない。もっともっと考えてから書くべきだと思う。よりシンプルにできるのではないかという自問自答も、時に大切だ。言葉遊び的な部分も出てくるが、熟練が足りず、ありきたりに感じられて残念である。自分が戯曲を書いていること自体に新鮮さを感じている時期の作品としては、出し惜しみなく「自分にしか書けないこと」を選んでいくことが、作劇そのものを牽引してくれると、信じてほしい。

 髙山さなえさんの『あなたがわたしを忘れた頃に』は、「上演順については上演者に任せる」という潔さが身上である。何に対して潔いかというと、この作品はあえて、「三つの夢」を並べている。夢には「所有格」はない。それを演劇に持ち込んでいる意図が明白だからである。演劇というジャンルじたいが、「これは誰某の作品」という段階を遥かに超えたものを手に入れようとするものだ。「表現の所有格」については、それでも、戯曲というものは「書かれたもの」として自立していて、作者は存在する。その壁を突き抜けたいという欲望に、私は共感する。ぬけぬけとしていることと、登場人物たちの苦しさ、これは矛盾しない。あざとく、意図が丸見えであることと、繊細さ、それは両立している。ジェンダーの問題も、ひょいっと乗り越えようとしている。審査の過程で「母性」という言葉が話題になったが、授賞式で作者自身が語ったように、これは登場人物のせりふであって作者の考え方を示しているものではない。そこにある種の保守性が認められるとしたら、三つの視点で見られることによってそれは確実に批評されている。……人間の「無意識」について描こうとする作品にはあまり成功例がない。他人の「夢」は触ることができない。重ならない。連動できない。それを可能とする仕組みが演劇であり、こんなかたちで「宇宙」を登場させることに違和感がないこと自体が、その証左である。付け加えると、既成曲の使用は安直に流れやすいことがあるが、本作の「チャンピオン」には必然性があるし、とてもおかしい。

 ナガイヒデミさんの『荒野 Heath』は、部分的に圧倒的な成果が上がっていて、そこを自覚して再構成したら、受賞作となったのではないかと思う。認知症のことは現代社会では誰でも身近な問題であるので、よりいっそう胸に迫るものがある。その迫真力だけでも、この作を推したくなる。だからこそ、残念である。とにかく、引用は不要だった。大事なところに借り物は要らない、ということを知っていてほしかった。『リア』も『山月記』も要らないのである。とはいえ、こうした作品の登場には、励まされるし、同時代の者としての喜びがある。

 近藤輝一さんの『ナイト・クラブ』は、気の利いたせりふも多いし、自由でいいが、作者が示したいはずの「空気」が成立する以前に、展開として、はぐらかし、ただ並べる、という印象になってしまうことで、損をしている。「ギャグ、×連発します」というが、具体的にそのギャグを示してほしいという種類のことを、この作品についても思う。細部を丁寧にやることで、確実に発見は、ある。作者に旺盛な筆力と、作品を共有させていくために必要な社会性があることは間違いがない。やはり、丁寧に書くこと、具体的には、もっとシンプルにできるのではないかと自問すること、考えがまとまるまで時間をかけること、ひょっとしたら設定自体を変更してもいいのではないかと書く途中に思い直す勇気を持つことで、「この人にしか書けないもの」は、作者の意図を超えて浮上してくると思う。


瀬戸山美咲
 
 鈴木アツトさんの『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』は、うまくまとまっている作品だと思いました。戦時下、アーティストが何を選択して生きていくかという主題もわかりやすかったです。ただ、主題の切実さに対して、さらりと読めてしまった感もありました。ケストナーが沈黙することで抵抗してきた人物だからか、彼の奥深く眠っている言葉が見えなかったのがその理由かもしれません。ほんの一瞬でもいい、彼の内臓が見える瞬間をほしいと思ってしまいました。また、海外を舞台にした戯曲を日本で創作する場合、物語としてきれいに完結すればするほど「つくりもの感」が出てしまうような気がします。今、日本で創作する意味を持たせる、何かもうひとつ外側の仕掛けが必要かもしれません。

 深谷晃成さんの『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』は、「夜だけが僕の味方」や「無職、人を裁く!」など役名がそれぞれの物語を示していることが興味を惹きました。今の日本の若い人のコミュニティの閉塞感がよくあらわれている作品でした。特に「カイジュウたちのいるところ」という名を持った、イルカから人間になった青年が、東京の街で暮らしながら吐く言葉は真に迫ってくるものがありました。最初、コミュニティの外側にいる人ほど自分を客観視できていて、コミュニティにどっぷりつかっている人ほど自分を語る言葉を持っていないように書かれていると感じました。しかし、アジアから来た留学生がそのルールから外れており、彼女のことはわからない対象として類型的に描いているのが気になりました。もしかしたら、作者の思い入れによって人物の描かれ方が違うのかもしれません。日々記憶を失う女性店員や、誰かと結ばれそうになるとタイムループする女性に対してつけられた「時をかける処女」という名前など、どこか女性に対する視点にバイアスも感じました。

 上岡久美子さんの『天と地のまなか』は、死を恐れていた人が原爆を体験し、生きる意味を見出すが、その「意味」が重圧となり結局死を選ぶ、原民喜の生き方をそのように受け止めることができて、面白く読みました。彼の実際の言葉がたくさん引用され、声で発したときの強さも感じました。ただ、作者の視点が見えてこなかったのが気になります。評伝劇は、書かれていない部分を想像して書いてこそだと思います。私も何かを知って、そのことをみんなに知って欲しいと思うことはよくあります。でも、その感動だけだと自分が書く必要がありません。どの部分が自分に響いたのか検証して、なぜ響くのか自分自身の中身も覗くことが必要だと思います。

 髙山さなえさんの『あなたがわたしを忘れた頃に』は勢いがあって、一気に読むことができました。3つのモノローグ連作で1つの出来事を見ていくという構成もよかったです。特に3人目の看護師のモノローグには、予想外の場所に連れていってもらいました。この作品は男性の妊娠と出産がモチーフとなっているので、男女を逆転して見えてくるものを期待して読み始めました。気になったのは、夫も妻も「母性」を持たなければという強迫観念に囚われていることでした。囚われているところまでは現実の反映として読めたのですが、結局、出産を経て母性的な感情が芽生えてよかったと着地しているように読めました。その後、三人目の登場人物である女性看護師が登場したとき、ああこの人は前のふたりとは別の価値観のもとで生きている人なんだろうと、再び期待しました。実際、彼女はひとりで生きる選択をした人でした。しかし、彼女は週に1日だけ職場の医師に恋することにしていました。そして、恋をしている自分は人間不信ではないと捉えている。人が生きていくとき、恋愛以外の支えはないのだろうかと頭を抱えてしまいました。ただ、この作品のラストで看護師は「この人生を、もう少し続けてみようと思う」と語ります。今が最善というわけではなく、すべては現在進行形でこの先に何かがあるかもしれないという希望が残されているのがよいと思いました。

 ナガイヒデミさんの『荒野 Heath』は、コロナ禍の特別養護老人ホームで繰り広げられる認知症の父と娘たちの描写が生々しく、今回の6作品の中で一番のめり込んで読みました。どうにもならない状況に抗う父親の姿は、肉体を伴う演劇で表現してこその力強さがありました。この作品は『リア王』と『山月記』が引用されています。途中までは、あぜ道をさまよう親子3人のシーンなど、リア王とオーバーラップするシーンを面白く読んでいました。ただ、最後、完全に『山月記』のセリフになったところはもったいないと感じました。ナガイさん自身の言葉に書き換えていったらより強固な作品になったと思います。

 近藤輝一さんの『ナイト・クラブ』は、心の細やかな部分に光を当てたセリフが見事でした。複数のエピソードを順番に描いていくオムニバス的な作品ですが、全体として積み上がっていく手触りもありました。既存の楽曲の指定も含め、ひとりひとりに寄り添い感情移入できるように書かれているのが印象的でした。だからこそ、物語の外側を配置して素に戻る瞬間があるのは効果的でした。ただ、それがナイト・クラブや、さらに外側の俳優や劇場である必要があったのかが少し疑問です。後半で、行ったことのない場所は「同情」できないという会話で、ナイト・クラブにした意味合いは少し伝わってきますが、本編を生かすような場がほかにもあるかもしれません。



佃 典彦
 
 名古屋のミラーマン佃です。
 今回は非常に面白い作品が揃ったと思います。それぞれが違う感触、それぞれが違う味、それでいて面白い作品が揃った今回の「優秀新人戯曲集」は、購入して損は無しと断言できます!

『エーリヒ・ケストナー~ 消された名前~』
 登場人物がそれぞれの思想を持ちながら生きている姿に感銘を受けました。ヴェルナーの人物像が非常に面白いです。俗物でありながら生き続けて自分の才の無さを抱いているその姿は多くの芸術家を象徴してます。ラストにロッテが差し伸べた手をどうしたいのか、どう処理するべきか・・・そこが少々宙ぶらりんの感じがして惜しい気がしました。

『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』
 登場人物の名前は高橋源一郎氏の小説を彷彿とさせる特徴的なモノです。名前に物語があってそれを体現するとありますが、「時をかける処女」について。明らかに「時をかける少女」をモチーフにしているのですが、ここには危険が潜んでいます。このモチーフで安心してしまっている気がするのです。僕も昔、似たようなことを別役さんから指摘されました。「モチーフにあぐらをかいては駄目だ」と言われたのです。僕はこの作品がとても魅力的で票を投じました。特に「カイジュウたちのいるところ」の話がとても好きです。

『天と地のまなか』
 前半のシーンのつなぎ方は非常に面白いです。死んだ主人公の使い方やお見合いシーンへのつなぎ方は見事です。
なのにモノローグを多用しているのが非常に勿体無い。原民喜の作品の朗読と原爆のシーンを重ねたのは勇気がいったと思いますが残念ながら上手く機能しているとは言い難いです。ただ原民喜の文学について書き上げたいと言う作家の情熱はヒシヒシと感じました。

『あなたがわたしを忘れた頃に』
 設定も面白いし描かれている内容も言葉にも惹かれました。話の飛び方も申し分なく、このヘンテコな世界に見事に没入させてくれました。最後に看護師にスポットが当たるとは想像してなかったので驚きました。ここでも予測を見事に裏切ってくれたワケです。一人称で書かれた小説と一人芝居(この作品は厳密には一人芝居ではないけれど)の違いがずっと前々から僕の中で疑問だったのですが、今回の審査会でその疑問が解けたのも僕にとって大きいことでした。

『荒野 Heath』
 この作品にはとにかく圧倒されました。僕は7年間、自宅で父の介護をしていた経験があります。父は中度の認知症でした。この作品にも描かれている認知症独特の理屈と論理、道筋が通っていないのに一本筋が通っていてしかもそれは強固であって、そこにしがみついて決して離そうとしない。胸に刺さりました。それだけに勿体無いのが『リア王』と『山月記』の引用です。他の審査員からも指摘があると思いますが、ここまで書けるのならば全てご自分の言葉で描き通して欲しかったのです。

『ナイト・クラブ』
 メタ風で始まって、何が始まるのかワクワクして読み始めました。オムニバスで読み続けるとそのワクワク感が萎んでいってしまいました。クラブの大枠と各話の関連性がほとんど感じられなかったからです。男女が軽いノリでくっ付いたり離れたりする空想上のクラブの中で純愛から結婚に至る小さい心のさざ波を描いているのかも知れません。深夜ドラマのちょっと尖ったシナリオを書く機会があればすごく刺激的で面白いモノが書ける人だと思いました。


横山拓也
 
 12年前、第15回新人戯曲賞をいただいたのをきっかけに劇作家協会に入会し、その後しばらく1次審査に関わらせてもらい、第25回では最終審査会の司会をやらせてもらって、今回、はじめて最終審査員を務めることになりました。新人戯曲賞における様々な立場を経験した僕ですが、客席に誰もいないオンライン配信による審査会は、妙な緊張感がありました。最終選考に残った劇作家の皆さんも、画面の向こうで孤独や緊張と戦っていたと思います。考えてみたら、劇作家という仕事は孤独と緊張の連続ですよね。皆様、本当にお疲れ様でした。

『エーリヒ・ケストナー〜消された名前〜』は、最初から最後まで興味が持続して面白く読みました。少し頭が重かったようにも感じましたが、人物が魅力的に描かれていたので、いつのまにかドラマに引き込まれていました。1923年から1945年の約20年間を描く中には、現代的な問題が重なり、また表現者としての苦悩など、自分自身の葛藤と繋がる部分もあり、退屈させない作品なのですが、良くも悪くもストレートな評伝劇でした。

『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』は、登場人物のキャラクター造形や、セリフの文体にオリジナリティーがあり、簡単に読み切らせてくれない、また頭の中で劇として立体化することを拒むような「腫れ物」的な個性が印象的でした。匿名性を帯びた特殊な役名、その人物たちが担うドラマが、この時代に生きる我々の何かを象徴しているのだろうかと探ったけれど、そこは繋がってきませんでした。

『天と地のまなか』は、一般的にはそれほど知られていない原民喜を取り上げた意欲作だと思います。しかしながら、人生をダイジェストにしたようなスピード展開と、作者自身の言葉があまり立ち上がってこないことが残念でした。7章の原爆が投下された広島の場面を、朗読と芝居の同時進行で描いたのは迫力がありました。このシーンだけで、作者の「原文学を世に伝える」という目的を果たしていると思います。

『あなたがわたしを忘れた頃に』は、3つの一人芝居の連作という点で他の作品と比べて異質でした。ハマるハマらないは人それぞれですが、ユーモアセンスをふんだんに持ち込み、笑かしにかかる姿勢は好印象です。3本の作品のつじつまが微妙に合わないことや、連作なのに連動させようとしない作者が意地悪に思えて、はぐらかされているような気分になりました。これを面白がれる器が僕には欠落しているのかもしれません。

『荒野 Heath』は、劇作の技術面においてもっとも優れていると思いました。『リア王』『山月記』の引用が審査会でも話題に挙がりましたが、僕は巧みとすら感じました。90代の父と、60代の娘(姉妹)のやりとりは壮絶で、まだ経験していない、しかしいつか直面するリアルな恐怖が迫ってくるようでした。我々現代人の目の前に広がっているコロナ禍を誠実に扱っているところも良かったです。

『ナイト・クラブ』は、もっともセリフに鮮度があって、ほとばしっている印象でした。オムニバスですが、それぞれのエピソードが魅力的で、たちまち物語に引き込んでいく導入の強さは見事でした。別の長編作品も見てみたいと思わせてくれました。ただ、これだけ客観性をもった作者が、この4つのエピソードをどのように料理したかったのかが不明で、最後まで実を結ばない感じがもったいなかったように思います。


渡辺えり
 
 上岡久美子さんの『天と地のまなか』のお陰で原民喜を知ることができた。小説『夏の花』を買い、梯久美子氏の評伝『原民喜 死と愛と孤独の肖像』も読んだ。『夏の花』の原題は「原子爆弾」。当時のGHQの検閲で1947年まで発表できなかったばかりか、自主規制で削除した部分を戻した原文のままの発行が原の死後であったことも知り、愕然とした。私がこの作家を知らなかった原因の一つに当時の言論統制があったことは間違いなく、それは現在あらゆる文学の世界に未だに影を落とし続けているのではないか?ということである。『天と地のまなか』にある「一輪の花の幻」、まさに演劇そのものと言えるような原の言葉と、「明日の人類に贈る記念の作品」と原が自ら広告文を書いて世に出した『夏の花』が、上岡さんによってようやく未来の私たちに届けられたことを今あらためて噛みしめているところである。
 上岡さんにはさらにどんどん書き続けていただきたい。選考の後一カ月たって今一番鮮烈なイメージで甦って来る戯曲である。

 鈴木アツトさんの『エーリヒ・ケストナー 〜消された名前〜』も力作で、テーマも今に通じる納得のいく題材である。しかし、今回の選考のためケストナーの『飛ぶ教室』を初めて読み、その面白さに感嘆して思うのは、本当に鈴木さんが書いたような会話をする人物であったのか?という疑問が湧いてくる。想像と創作で書くことは勿論良いのだが、実在の方だからこそ、その人物は個性豊かに興味深く描いて欲しいと願うものである。

 深谷晃成さんの『下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー』は、現代日本における差別と偏見の意識無意識を切ろうとした面白い怪作だと思う。反捕鯨団体から日本国籍を与えられ丘に上がったイルカの存在など痛々しく滑稽で様々な差別と偏見に対する暗喩そのものを具現化していて見事である。「なんだか東京に殺されそうだ」という背後に現れる文字も好きだ。地方出身者の誰もがそう思っていたのにこの50年だれも書かなかった言葉のように思った。しかし、「時をかける処女」という登場人物が単なる語呂合わせのユーモアだとは捉えにくい。
男性優位の価値観からくる偏見を利用した笑いはいただけないと私は思う。

 ナガイヒデミさんの『荒野 Heath』は、両親が認知症で介護施設に入所している私にとって胸にどしりと刺さる問題作だと思う。父親と母親の関係も壮絶でリアルだと思った。しかし、『リア王』を持ってきたところに逆に読むこちら側が誤解してしまう問題が生じた。『リア王』はあまりに有名な作品で、テーマをどう解釈するか?読者に任されているとしてもやはり強烈なイメージが誰しもの脳裏に残っている作品である。リア王の娘の中でも個性的で切ない二人の姉たちや道化などのキャラクターたちが目の前に浮かびすぎて作品の意図から離れてしまったように感じた。

 近藤輝一さんの『ナイト・クラブ』は古くてダサい何度も観た芝居のようにわざと始めて、一回気持ちが引いたところから一気に読ませる凄い作品だと感じた。女性がみな自立していて思ったことをしっかり台詞にしてくれているのが小気味よい。男と女がそれぞれの役割を気にせず性格だけで会話しているのが嬉しい。戯曲集287ページの「陽二昨日からずっと英語喋ってるから、そうかなとは思ってた」、この台詞にひとしきり笑った。上演した作品を観たいと思った。

 髙山さなえさんの『あなたがわたしを忘れた頃に』は見事な作品だと思った。落語の『あたまやま』のようなシュールな残酷さとユーモア。リアルと虚構の被膜の作り方が面白い。コロナ禍だからこそ過激に癒されたい演劇好きな魂を揺さぶる面白さがある。
 男性女性の誰が演じても子供や年配が演じても良いような、既成に囚われない人物たちも愉快である。日本の中で独特に発展してきた少女漫画の面白さがある。まさに良い意味での「女子供に受ける芝居」だと堂々と言いたい。(女子供に受ける芝居ばかりで今はどうしようもないと、昔年配の男性作家が言ったことを思い出したのだ)



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日本劇作家協会プログラム

2022年度のプログラム公演

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▽ 3月2日(木)〜12日(日)
OFFICE SHIKA PRODUCE
『ダリとガラ』
作・演出:丸尾丸一郎

▽ 3月15日(水)〜21日(火祝)
視点
『SHARE'S』
プロデュース:ハセガワアユム 吉田康一